第219話:結ばれていた絆の正体
怜は近頃、学校に行くのが億劫になってきた。いや、もとからそうだったわけだけれど、それがさらに増したのである。原因は、転校生の芦谷紬だった。怜が教室に入ると、彼女が毎日のようにやってきて、
「わたしのこと思い出してくれた?」
ととびきりの笑顔で迫ってくるのである。そうやって迫られても、怜としては、どうしようもなかった。というのも、何も思い出していないからだ。毎回そう言うたびに、紬は心底から悲しそうな顔を作ると、
「まあ、でも、明日は思い出してくれるよね」
と言っては、自分の席に戻るのだった。確かに、明日になったら思い出すかもしれない。可能性は何にでもある。しかし、思い出さないかもしれず、可能性が何にでもあるというのであれば、思い出さない可能性の方が圧倒的に高いと言えた。
ベッドの上で起き上がった怜は、今朝もまた、自分の記憶力の無さに関してやんわりと非難されるのだろうかと思えば、気分が重かった。とはいえ、こんな理由で学校を休むことはできない。一日授業を休むと、確実に一日分、分からなくなってしまう。怜は、自分の学力不足を恨めしく思いながら、階下に降りて、洗面を行った。
朝食を摂っていると、その半ばで妹が降りてきて、またぞろ、何でもっと早く起こしてくれなかったのかと我が母親にクレームをつけていた。早く起こしてくれとクレームをつけるのは、当然に、学校に余裕を持って到着するためであって、学校に行くこと自体を嫌がっていないという証である。怜は、妹を羨むという特異な経験を持った。
「なに変な目で見てんのよ、お兄ちゃん! あー、もう何もかもムカツク!」
妹は、女性の命であるともっぱらの噂である髪の毛をクシャクシャとかき乱すようにすると、洗面台へと向かった。彼女が帰ってくる前に、怜は朝食を済ませると、帰ってきた妹の代わりに洗面台へと行き、歯を磨くと、母と父に挨拶をしてから、家を出た。
秋の空は清々しく澄んでおり、はるかに高かった。怜は、カノジョの家を回った。しかし、門前に環の姿は無かった。ということは、今朝は一人で行ったということである。当然に、怜も、残りの道のりを一人でいかなくてはならないということになる。怜は、改めて空を見上げた。嫌味なほど澄み切っている。こんなに良い天気の日に、学校などという箱に押し込められて、延々と6時間ものあいだ、中年教師の授業を受けなければならないのかと考えると、どうも正気の沙汰ではないように思われたが、そう思うのも、やはり学校に行きたくないからなのだろうか。
行きたくなくても、そっちの方向に歩いていれば、自然と近づいてくるわけで、揃いの制服を身に着けた同校生の姿が、チラホラと見えてきた。もう少ししたら、学校前の長い上り坂が見えてくるところで、
「レイ」
と名前を呼ばれた。怜が振り返ると、同じ制服を身に着けた小柄な少年の姿があって、彼は小走りに近づいてきた。友人の五十嵐俊である。挨拶すると、隣についた彼は少し目を細めるようにして、
「具合悪そうな顔をしているね、大丈夫?」
と歩きながら訊いてきた。
「顔に出ているか?」
「出ているね」
「学校に行きたくないんだ」
正直に言うと、
「じゃあ、一緒に学校サボッて、街の方にでも行こうか?」
さらりとそんなことを言う彼の顔は、冗談をやっている風でもない。
「大問題になるぞ」
「そう大した問題じゃないよ。現に、今日だって、日本のそこかしこに、そうしている中学生は山ほどいるさ」
「山ほどいるからって、それで問題が問題じゃなくなるわけじゃない。オレのために、シュンにその問題を背負わせるわけにはいかない」
「レイ」
俊は、足を止めた。怜もつられて足を止めると、
「キミのために、学校をサボるなんていうことは、大した問題じゃないよ。大した問題だとするのは世間だろうけど、世間を評価するのはボクの方だ。逆はあっても、逆はないよ。だから、いつだって、付き合うさ」
俊の誠実な声を聞いた。ありがたい、と怜は思った。このありがたい言葉に対して、怜はいかにも中途半端な自分を感じた。ちょっとクラスメートにからまれたくらいで、学校に行きたくないなどと言って、友人を心配させてしまうのだから、本当に情けない限りである。
「その言葉だけで十分だよ、シュン」
「女難だそうだね」
「シュン?」
「ボクの目と耳は二つずつじゃないんだ」
「『女難』という言い方は、女性に失礼なんじゃないか」
「そうかもしれないけど、今、周囲に女の子はいないから、いいんじゃないかな? で、どんな子なの?」
「いい子だな。明るくハキハキとして、美人でもある」
「そんな子に絡まれているのなら、羨ましい限りだけど」
「危険な発言だぞ、シュン」
俊には付き合っている女の子がいる。
「レイは世界一口が堅いだろ」
「だとしても、男の友情より時に優先すべきものがあることは認めるよな」
「残念ながらね。まあ、そのときはそのときさ。それで?」
「オレと何か特別な交わりを結んだらしいけど、それを覚えていないんだ」
「特別な交わり?」
「そう、もしかしたら、桃園で義兄妹の契りでも結んだのかもしれない」
「生まれた日は違っても、死ぬ日は同じにしよう、ってヤツ?」
「詳しいのか?」
「全然知らないよ。面白い? 三国志」
「呂布が最強の武将だということの他は、オレもほとんど知らない」
「さすがに、義兄妹の契りなんて結んだら、覚えているんじゃないの?」
「それじゃないとしたら、一体何なのか」
「付き合っていたとか?」
「だとしたら、もっとこう恨み節でもいいような気がする」
「恨んでいる風ではないの?」
「今日の空みたいに爽やかだよ」
「なら、もう直接訊いてみるしかないね」
「やっぱりそうするしかないか」
「教えてくれなさそう?」
「あるいはな」
「女の子ってそういうゲームが好きだよね」
「そういうゲームの攻略法はないのか?」
「もしもその攻略法を知っていたら、それを売って生活できるだろうね。困っている人は多いだろうから」
登り坂にかかった。
前後に同校生に挟まれるような格好で、怜は、俊と一緒に坂を登った。
「まあ、とりあえず、訊いてみるさ」
「学校に行きたくなくなったら、一声かけてよ、いつでも付き合うからさ」
「シュンは、学校に行きたくない理由があるのか?」
「そこがレイのいいところだね」
「何のことだよ?」
「自分がトラブルの渦中にあっても、人の心配をすることができる」
「すまないな、シュン。大げさに言っているが、トラブルっていっても、そう大したものじゃないんだ。言わば、風邪を不治の病と言っているようなもんだ」
「風邪はバカにできないよ。なにせ、特効薬がないんだから」
「それで?」
「ボクのこと?」
「そう」
「特に問題はないよ。平穏無事、楽しくやっているさ」
「彼女ともうまくやっているのか?」
「まあまあかな。夏休みの時は、悪かったね」
「その話はもういいさ」
「じゃあ、今度の件について、先に謝っておくよ」
「今度の件って、何のことだよ?」
「また、何かで迷惑をかけると思うからさ。そのときの分を先に謝っておこうってね」
「そんなことあるのか?」
「きっとある。ボクの勘がそう言っている」
「お前のような合理主義者も勘を信じるのか?」
「勘っていう物は存在する。存在する物をそのまま認めるのが合理主義じゃないか」
「なるほど」
うなずいた怜は、校門をくぐった。生徒用玄関で下足から上履きに靴を履き替えて俊と別れると、廊下を歩き、おそるおそる教室に入る。なにゆえ悪いことをしているわけでもないのに、コソコソしないといけないのかと思うは思うのだけれど、どうしてもそうしてしまう。そうして、
「かーとう君」
そもそもがコソコソしても無駄だった。
怜が席に着くと、芦谷紬がやってきて、いつもの尋問タイムとなった。
「そろそろ、わたしのこと思い出してくれたでしょう?」
「芦谷」
「はい?」
「悪いが、全く思い出せない。もう、そろそろ教えてくれないか」
怜がそう言うと、紬は、にっこりと微笑んで、
「ねえ、加藤くん。トランプでさ、ジョーカーっていうのは、最後まで手元に置いておくもんでしょう?」
と言ってきた。怜は少し考えてから、
「ゲームによるだろ。ババ抜きだったら、ジョーカーはババ、早く手放したいと思うもんだ」
答えた。
「誰がババア? わたしは、当年とって14歳のティーネイジャーだよ」
「そのティーネイジャーの秘密、ボイジャーにでも頼めば、探してもらえるのか」
「あれは宇宙を探査するものでしょう」
「じゃあ、その秘密は宇宙には無いってことか。ちょっと探す範囲が狭まったよ」
「よかった」
「なにが?」
「まだ探してくれる気があるっていうことでしょ」
「分からないままっていうのは気になるからな」
「だから、わたしのパーティに来てくれたらいいんじゃないかな。当時のクラスメートにも会えるし」
「そういうわけにもいかない事情があるんだよ。色々と」
「そんなに大したことじゃないと思うけどなあ」
「人が持っている物差しは、人それぞれだ。ある人にとっては大したことなくても、また別の人にとっては、大したことになる」
「そこを曲げてみたらいいんじゃないかな。『く』の字形に曲げて、ブーメランにして飛ばしちゃうの」
「ブーメランだったら、手元に戻ってくるだろう」
「戻ってくるなら、何も損が無くていいじゃない。どう、来る?」
「いや、悪いけど」
そう言うと、紬は、ふうっとため息をついて、
「りょーかいッス」
と答えて、自分の席に戻っていった。
一体どんな結びつきが彼女との間にあるというのだろうか。それをまったく覚えていない怜は、思い出そうと努めるしかないわけだけれど、どうもこれはやはり見込み薄のような気がした。あれだけこだわるわけだから、そのつながりが何であれ彼女にとって重要であることは間違いない。いや、もしかしたら、大したことではないのかもしれない。ただ楽しんでいる。その方がよっぽどありそうな気がした。
「友だちだよ」
上から降って来た声の方を見ると、戻ってきた紬である。
「友だちになってもらったの」
「友だち?」
「そう。それだけだよ」
「そうか……」
「でも、それがそれだけなのかどうかは、わたしの物差しによるからね」
「そうだな」
「これで、スッキリした?」
「いや、していない」
「どうして?」
「オレが、その事実を思い出したわけじゃないからな」
紬はもう一度ため息をつくと、やれやれと首を横に振って、自分の席に着いた。やれやれと思っているのは、怜も同じである。しかし、とりあえずのところは、義兄妹のような、同年同月同日に死ななければいけない難しい関係を結んでいたわけではないことが分かって、ホッと一息ついた。