第217話:環、五年ぶりの彼女に訪問の理由を聞く
翌週の月曜日、登校した環は、お昼休み時間を利用して6組を訪れた。芦谷紬に訪問の理由を問うためである。5組を出てお隣の開いた戸の前に立った環は、教室に明るい笑い声が響いているのを認めた。その中心にいるのが、紬のようだった。顔は、小学校のアルバムで確認済みである。
一礼してから教室に入った環は、その楽しげな輪に向かって行った。そのとき、近くから、怜がこちらを見るのが分かったが、視線を返すことなく、そのまま歩を進めた。怜には、紬が家に来たことは知らせていなかった。彼に知らせる前に、芦谷紬という少女を自分の目で見定めたいという気持ちがある。
「あっ、川名さん!」
談笑サークルの中心から華やかな声が上がった。紬の声である。その声には、明朗な響きがあって、声を聞く限りでは陰湿な子ではなさそうだと環は思った。
紬は立ち上がると、円の外に出てきた。なるほど、と環は、心中でうなずいた。独特の雰囲気のある子である。自分に自信はあるけれど、同時に自分の限界も知り、さらに高みを目指そうとしているかのような、強さの中に繊細さを合わせ持つようなというのが、環の彼女に対する第一印象だった。
「ごめんね、今から行こうと思っていたんだけど」
そう言った紬は、周囲にいた友だちに、
「ちょっと川名さんと話があるから」
と続けたあと、
「廊下で話をさせてもらってもいいかな?」
環に了承を求めた。環がうなずくと、紬はにっこりとして、ありがとう、と言ったあと、先に廊下に出た。環はそのあとに続いた。廊下で話をさせてもらいたいと言った紬は、しかし、そのまま廊下をすたすたと歩いて、渡り廊下まで出た。風はなく、初秋の光が清々しく降るばかりである。
「この前は、いきなりお邪魔しちゃってごめんね」
紬が言った。
「いえ、こちらこそ。せっかく来てくださったのに、留守をしてしまって」
環は謝罪を返したあと、
「妹も連絡を寄こさないし。気が利かない妹ですみません」
と謙遜した。
「全然そんなことないよ。むしろ、一年生とは思えないほど大人びているね。わたしより大人っぽかったよ」
紬の褒め言葉に恐縮した振りをしたあと、環は、
「それで、いったいどういうご用件だったんですか?」
先を促した。
「パーティのお誘いだったの」
「パーティ?」
「うん。わたし、こっちに帰ってきたばかりだから、昔のお友達にもう一回仲良くしてもらうために、うちでパーティでも開きなさいって、お母さん……えーっと、母がね」
「それでわたしを?」
「あつかましいかもだけど、わたし、川名さんのこと、友だちだと思っていたから」
そう言って、紬は人なつこい笑みを浮かべた。そもそも紬は愛らしい顔立ちをしているが、その彼女の顔立ちがいっそう愛らしくなって、こんな笑みを向けられたらたいていの男子ならイチコロだろうと環には思われた。しかし、幸か不幸か、環は男子ではなかった。
「芦谷さん」
「はい」
「わたしはね、自分のことを、広い海に漂っている小舟みたいに感じることがあるの」
環は少し間を取った。いかにも唐突な話に対して、紬は、問い正そうとはしなかった。人の話を聞く態度もよい。環は彼女への好感を高めた。しかし、それはそれ、これはこれである。
「わたしが海の中で迷うことがないのは、わたしを導く星の輝きがあるからなの。わたしは、それを見失うことはできないし、そのつもりもないよ」
環が言い終わると、紬はゆっくりとうなずいた。
「分かってくれた?」
そう訊くと、紬は首を横に振って、
「分からない。でも、分からないってことで終わりにしないようにしているの。小学校四年生の時からね」
と答えて、笑った。
「芦谷さん、パーティのお誘いはお断りします。わたしたち、喧嘩していたわけじゃないけど、そこまで仲が良かったわけじゃないでしょう。他のお友達はみんな仲がいいだろうから、その中にわたしが混ざったら、その場が白けるでしょう」
「川名さんがいたら、盛り上がることはあっても、白けることなんかないと思うけど。それに、みんな川名さんと友だちになりたいと思っているんじゃないかな、わたしも含めてね」
「傲慢に聞こえたらゴメンね。わたし、こうと決めた人としか握手はしないことにしているの」
「ありがとう」
「何が?」
「率直に話してくれて。わたし、川名さんのこと、いっそう好きになったよ」
「わたしもお礼を言います」
「どうして?」
「家に来たり、ここに連れてきたりしたのは、わたしが断りやすくするためでしょう?」
クラスメートの前で誘いを断ったら、「付き合いが悪い」「お高くとまっている」など、悪評判が立つかもしれない。それを避けるための紬の配慮であると、環は見て取った。
紬はそれに対して肯定も否定もせずに微笑むと、
「時間取らせてごめんね。じゃあまた」
そう言って、身を翻した。
あるいは、と環は思った。紬が二人きりの場を作ろうとしたのは、環が紬の人となりを探りたかったように、紬も環の人となりを探りたかったのかもしれない。彼女の目に自分はどう映っただろうかと環はちょっと考えたが、それほど興味がある話でもなかった。
放課後、環は、生徒用玄関から少し離れたところで、怜を待った。待って少ししてから現われた怜は、特別に意外そうな表情もせずに、よっと軽く手を挙げてきた。
「一人で帰りたい気分じゃないといいけど」
環が微笑みかけると、
「そんな気分のときは無いよ」
と怜が答えた。
「優しいね」
「今頃気づいたのか?」
怜は大げさに驚いてみせ、
「オレがタマキに見せた優しさをリストにしたら、地球を一周半はすると思うけど」
と続けた。
「そのリストを、この手提げを持つことで更新してくれてもいいよ?」
環がいたずらっぽく笑うと、怜が手を差し出してきた。
「ありがとう、レイくん」
「お役に立てて光栄至極」
二人で歩いて校門を出ると、ゆるい下り坂になっている。
「今日、芦谷さんと話しました」
「旧交を温めたのか?」
「昔もそれほど仲が良かったわけじゃないんだけど」
「タマキは昔から人当たりが良さそうな気がするけどな」
「自分で言うのもなんだけれど、昔は相当よかったですよ」
「今だっていいだろ」
「そうでもないよ。ある時から、そうすることをやめたから」
「そう言えば、小学5年の時にそんなこと言ってたな」
「なんて?」
怜は、環の手提げを持っていない方の手を胸に当てて、
「『ここにコレがあることを感じられる間は、わたしは何を敵に回しても構わない』ってさ」
言った。
瞬間、環の胸に蘇るものがあった。それは、もう4年も前のことであるにも関わらず、まるで昨日のことのような鮮やかさを持っていた。
「そのときのわたしって、どんなだった?」
「今とそう変わらないと思うけどな」
「そんなことないでしょう。それじゃ、まるで全然成長がないみたいじゃない」
「そのときも、こうしてオレに荷物を持たせてたぞ」
「ウソ」
「同じ委員会のよしみで荷物を持てと言われたよ」
「同じ委員会のよしみで荷物を持ってあげましょう、美しいお嬢さんって、レイくんが言ってくれたんじゃないの?」
「そんなこと言った覚えはない」
「じゃあ、今言ってくれてもいいけど」
「もう手提げは持っているだろ?」
「そっちじゃなくて」
怜は立ち止まった。
つられて立ち止まった環は、怜の目を見た。この人はどうしてこんなに澄んだ目をしているんだろうと環は思った。この人の瞳に自分が映っているということが、どうしても不思議だった。
「タマキ」
「え、なに?」
「なにって、オレが今言ったこと、聞いてなかったのか?」
「何て言ったの?」
「ヴィーナスに捧げる詩もかくやと思われるようなことを言ったじゃないか」
「えっ? 本当に?」
「本当に聞いてなかったみたいだな。何を考えていたんだよ?」
「……ええっと、今日のお夕飯のこととか」
そう言うと、怜は呆れたようなため息をついた。
「ま、育ち盛りだからしょうがないな。行くぞ」
先に立った怜の隣に、環はついた。怜の言葉を聞き損じたということが、環にとっては愉快だった。
「1ヶ月って、30日で合ってるかな?」
「おおよそ、そんなもんだな。オレの知らない間に、暦のシステムが変わっていない限りは」
「じゃあ、こうやって、学校の帰りにレイくんに30回くらいわたしの手提げを持ってもらえれば、1ヶ月経つわけだね」
「『帰り』だけじゃなくて『行き』も持ったっていいぞ」
「そんなことさせたら、カレシに荷物を持たせている、すごく我がままな女の子だっていう噂が立っちゃう」
「『帰り』だって同じじゃないか?」
そう言うと、怜は周囲を見回す振りをした。少し離れたところに、同校生の制服がチラホラと見えた。
「『行き』のときは、終点が学校でしょ。わたしのその手提げは、みんなの前でわたしに戻されるけど、『帰り』のときは、それは、わたしの家だから」
「なるほど。持っている分には、オレのものか、タマキのものか分からないっていうことか」
「正解。レイくんには、可愛い女の子からお茶を給仕してもらえる権利が与えられます」
「可愛い女の子なら間に合っているよ、今隣にいるだろ」
とくん、と環の胸が鳴った。誰に可愛いと言われても特に何も感じないけれど、怜の言葉には格別の言霊がある。
「これ、全然他意は無いんだけど、レイくん。一つ訊きたいことがあります」
「なんでも訊いてくれていいよ。宇宙の真理とかだったら、答えられないけどな」
「そんなものに興味ありません」
「そりゃよかった。それで?」
「レイくんって、髪が長い方が好み?」
「髪?」
「……うん」
怜は少し考えたあと、
「そうだな、長い方がいいかもしれない」
と言った。
「……そうなんだ。どのくらい?」
「床につくくらいだな。理想は、引きずるくらいだといいんだけど、ウェディングドレスの裾みたいに」
「えっ!?」
驚いて、怜を見ると、その唇はにやりとした笑みの形になっている。
「レイくん」
「そうじゃなければ同じようなもんだから、どのくらいの長さでも構わないよ」
「レイくんは、わたしのことを何か誤解しているんじゃないかって、時々思うことあるのよ。わたしは他意は無いって言ったでしょ」
「誤解なんかしてない。なにせ、そもそも理解していないからな。タマキのことは全然分からない」
「そう? それにしては、わりと的確に神経の上に乗られることが多いような気がするんだけど」
「理解できなさが極まって、まるで周回遅れのランナーが、先頭のランナーと出会うようにかちあうんじゃないか?」
「とてもそうは思えないけれど」
「タマキの頭がいいことは認めるけど、でも、タマキにだって分からないことがあることも認めるよな」
「分からないことだらけです」
「じゃあ、オレの言うことが正しいかもしれないこと、少なくともその可能性があることは認めてくれるよな」
「認めます」
「それはよかった」
何だかうまくはぐらかされたようだと思った環だったが、そうそう、と怜は、言い忘れたことを付け加えるような言い方で、
「タマキは今の髪型が似合っていると思う」
となにげない調子で言った。
これだからこの人はあなどれない、と環は、付き合っている彼氏を、ライバルでも評価しているような気持ちになる自分が面白くもあり、そうして、それ以上に彼の言葉が嬉しい自分を感じていた。