第216話:親友との初秋の一日
その日、環は、友人の橋田鈴音と街に出た。映画を観るためである。空はあいにくの曇り空だったが、槍でも降らない限りは、出かけるのに特に問題はなかった。
「タマちゃんと出かけるのも、ちょっと久しぶりのような気がする」
街へ行くまでのバスを待つ間に、鈴音が笑いかけてきた。
「女の友情をないがしろにしている、なんて、スズちゃんは、責めないよね?」
「そんなことは言わないけど、でも、言わないからって心で思っていないなんてことにはならないからね」
「心の中をすっかり見通せる機械でもあったらいいのに」
「わたしの心を見るために?」
「まあ、スズちゃんと、若干、他の人も」
「若干一名ね」
「……どう思っていると思う?」
「彼女のこと?」
「『彼女』って言い方っていいよね。わたしのことも、いつかどこかでそんな風に呼んでくれる?」
「いつかどこかでね。それはそれとして、別にどうも思っていないんじゃないかって思うよ。タマちゃんに勝てる子なんていると思えないし……って、なんでわたしの顔をそんなにじっと見るの?」
「他意は無いよ。ただ、スズちゃんの顔が見やすい位置にあるだけ」
「タマちゃん、もしかして、わたしが同じクラスだからって、嫉妬してる?」
「まさか、嫉妬なんてしてないよ。ただ、恨んでいるだけ」
「余計たちが悪いじゃん」
「そんなことないよ。恨むっていったって、天を恨んでいるだけだもん」
「加藤くんも大変だね」
「どうして、レイくんが大変なの?」
「だって、タマちゃんにとっての天って加藤くんでしょ?」
「スズちゃんってロマンチストだね」
「わたしがリアリストだって言ったのは、タマちゃんでしょ」
「そうだったっけ」
「悲しい。こうして二人の思い出は徐々に忘れ去られていくんだね」
環が答えようとしたところで、バスが来た。鈴音と一緒に乗り込んだ環は、隣同士の空席を首尾よく見つけたが、あとから親子連れが乗ってくると、その母子にあっさりと席を譲った。
「ご親切に、ありがとうございます」
母親から礼を得た環は、鈴音を隣にして、吊革につかまりながら、街までのショートドライブを楽しんだ。バスの中にいる乗客は、ほとんどみんながスマホを見ているようだった。その小さな画面の中にはよほど面白いものがつまっているのだろう。あるいは、画面の外がよほど面白くないのか。どちらかは分からないが、環は見せられるものに興味は無かった。自ら見るものにしか見るべきものがあるとは思われない。
いくつかのバス停を通り過ぎて、客が乗ったり降りたりするのをやり過ごして20分ほどすると、駅に到着した。
「加藤くんのこと考えていたでしょう?」
駅を目の前にしてバスから降りると、鈴音が言った。
環は目を見開いた。「えっ、どうしてそう思うの? そんな顔していた?」
「ううん、別に。ただ、そう言っておけば、大体当たるかなって」
「スズちゃん」
「違った?」
「そうそうレイくんのことばかり考えてなんかいません」
「そうかな」
「そうです」
「なら何のこと考えていたの?」
「別に何も考えていないよ。ボーッとしていただけ」
「タマちゃんでも、ボーッとすることなんてあるの?」
「しょっちゅうだよ、うちのお父さんが焼酎を飲んだときみたいにね」
「面白い」
「よかった」
「映画、今何やっているんだろうね」
鈴音は、映画館に向かって歩き出した。映画館はここ駅から5分ほど歩いたところにある。環は、彼女の隣に並んだ。映画を観に来たわけだけれど、今どんな映画をやっているのか、何時から開始するのか、それらのことを何一つ調べていなかった。それこそ、スマホを使えばいくらでも調べられることだけれど、別に映画を観ること自体が目的ではなかった。友人と時を過ごすことが目的なのだから、もしも見たい映画が無ければ見なければいいし、あっても時間が合わなければ、それまで時間をつぶせばいいし、あるいは、やはり、全く見なくたって構いやしない。環には、鈴音も同じ気持ちであることが分かっていた。そういう子だからこそ、一緒にいることに意味があると言えた。
映画館に着いたのは、10時過ぎだった。折良く、10時30分からの映画で、面白そうなものがあったので、それを見ることにした。近未来が舞台になったガンアクションである。休日の映画館は、しかし、それほどは混雑してはいなかった。後ろの方にある、正面から見てやや左の席に、鈴音と並んで腰を下ろした環は、久しぶりの映画を心ゆくまで楽しむことにした。
映画はよくできていた。100分の映画を見終わると、時計の短針は12を回っていた。映画館を出ると、相変わらず空は曇りのままである。
「スズちゃんは、何食べたい?」
環が昼食のリクエストを訊くと、鈴音は、
「何でもいいけど、じゃあ、パスタがいいかな」
とのこと。近くにあるパスタ店に入ろうとすると、映画館とは違ってかなり盛況のようで、すんなり入るわけにはいかず、待たなくてはならないようだった。店内からは食欲を誘う香辛料の匂いが漂ってきている。
「こうやって、映画を観られて、ランチを食べられるっていうだけで、もう幸せだね」
鈴音が満足そうに言うので、環は、わざとらしく咳をした。
「もちろん、気の合う人がいるからこそだけど」と鈴音。
「催促したみたい」
「ねえ、タマちゃん。それ、いつも加藤くんにやってないよね」
「それって何のこと?」
そう言って、環は目をパチパチさせた。
「それ、それ!」
鈴音が声を立てて笑った。環は、鈴音の声音にまごうことない明るさを聞き取って、思わず、目の奥が熱くなるのを覚えた。それもこれも全て……とは言わないけれど、ほとんど全てがある少年のおかげであると、もちろん、彼は頑としてそんなことは認めないかもしれないが、こっちが勝手にそう思っている分には構わないだろうと環は思っていた。
「泣きそうな顔しているよ、タマちゃん」
鈴音が慈母のような表情である。
「お腹が空き過ぎちゃって」
「育ち盛りだからね、いっぱい召し上がれ」
そう言うと、鈴音は列を一歩前に進めた。席に案内されてから、勧められた通り、お腹いっぱい食べて満足すると、食後のコーヒーを飲んでから、環は鈴音と一緒に外に出た。外は、さっきよりも暗くなっているようだが、降り出しそうで降り出さない微妙な具合である。
「腹ごなしに、何か見ていこうか」
鈴音が言った。
うなずいた環は、鈴音と一緒に、何軒かの店を回って、服や小物を見た。そうしていると、心からリラックスした気持ちになった。これは、妹が彼女を慕うのも無理からぬ話だと、環は多少の寂しさを感じながら、納得した。
「今度、加藤くんに買ってもらうアクセサリーは決まったの?」
小物屋の店内を見て回っているときに、鈴音が言った。
「プレゼント自体が嬉しいわけじゃないよ」
環は、手に取っていたクマのマスコットを、棚に戻した。
「知ってるよ。自分にプレゼントしてもらえる価値があるんだってことが認められるから嬉しいんでしょ」
「スズちゃんは、何でも知ってるんだね」
「タマちゃんほどじゃないけどね」
「わたし、もっと甘えた方がいいと思う?」
「そんなことまでは知らないよ。わたし、カレシがいたことなんて無いし」
「スズちゃんなら、引く手あまただと思うけど」
「その言い方、加藤くんそっくり」
「ウソ」
「本当だって。わたしの忠告、聞くつもりある、タマちゃん」
「いつだって聞くつもりあるよ」
「タマちゃんは、もっと自分に自信を持った方がいいと思う」
「それなりの自信は持っているつもりだけど」
「だから、『もっと』って言ったよ」
「自信ね……」
「うん」
そう言って大きくうなずく鈴音を、環はまぶしげに見つめた。もしも自分が鈴音だとしたら、もう十分に自信を持てるかもしれなかったが、それは考えても詮無いことだった。それに、仮にもっと自信を持つことができたとして、そもそも、それが一体何になるのだろうか。そこが分からないうちは、むやみと自信を持つわけにも行かない。
「わたしを信じないの、タマちゃん?」
「自分自身よりも信じているよ」
「だとしたら、理屈に合わないでしょ」
「わたしが矛盾しているのは、わたしのせいじゃなくて、世界が矛盾しているからじゃないかな」
「世界の何が矛盾しているの?」
「なにってことはないけど、『いいは悪いで、悪いはいい』って言うでしょ?」
「聞いたことないなあ」
二人は店を出た。時刻は4時を回っていた。そろそろ帰ろうかということになって、バス停に向かうと、バスは10分後に来るようである。
「気になっているの?」
鈴音が出し抜けに訊いてきたが、何のことかは、環には分かっていた。
「別に気にしていません」
「そう? でも、タマちゃんほどじゃないけどすっごく可愛いし、頭の回転も速そうだし、足も速そうだよ」
「足速いのってなんかいいことある?」
「リレーの選手になれる」
「ステキ。それで昔、練習中に捻挫したことあるけど」
「これはわたしの勘だけど、性格はよさそうだけど、同時に、いい性格してそうな気もするかな」
「そういう子には結構耐性があります」
「わたし、責められている?」
「愛のある批判かな」
「タマちゃんには言うまでもないけど、大事なものは手放したらダメだからね。あと、試さないこと」
「試して確信を得ようとするなら、信じて裏切られた方がいいってことね」
「違うよ」
「えっ?」
「試さなければいけないことは、そもそも価値では無いってこと。だから、そんなことはする意味は無いっていうことよ」
なるほど、とうなずいた環は、
「確信を得ているんだけど試したい場合はどうすればいいの?」
訊いた。
「確信があるのに、どうして試すの?」
「どうしてってこともないけど……強いて言えば、面白いから、かな」
「タマちゃん」
「でも、ハンドルにも遊びが無いと、うまく運転ができないでしょ」
「車を運転したことないから、分かりません」
「ダメかな」
「ダメだよ」
「分かりました。なるべくしないようにするね」
「なるべく?」
「できる限り」
「本当に分かっているのかな」
「多分」
時刻通りに現われたバスに乗って、行きとは違って、先に鈴音を降ろしてから自分のバス停で降りた環は、家に戻ると、すぐ下の妹から、留守中に来客が会ったことを知らされた。
「アシヤツムギさんっていう人が来たよ。小学校の時の友だちだって言ってたけど。一度引っ越して戻ってきたから、挨拶にって。『姉は友人と出かけているときはスマホを切っているので連絡が取れません。戻ったらお伝えしておきます』って言って帰したけど、よかった?」
「ありがとう、マドカちゃん」
環は妹の応接に礼を言うと、部屋着に着替えるために自室に向かった。芦谷紬とは、確かに小学校3年生の時に同じクラスだったが、特別に親しくした覚えはなく、とすれば、今日の訪問の目的は旧交を温めるところ以外にあると見るべきである。
「いい性格してそうな気もするかな」
鈴音の言葉が、環の耳元で蘇った。