第215話:坊主頭と二人の女の子の思いやり
「あー、いい手触り。癖になるね、コレ」
瀬良太一は、ムッとした顔を作った。先日スポーツ刈りにした頭、その坊主頭をただ今、なでなでと撫で回されているのだが、今だけの話ではなく、短い期間に周囲の友人たちから、もう何度なで回されたか知れない。このままだと、そのうちに頭がすり減ってなくなってしまうんじゃないかという危機感を、太一は抱き始めていた。
「もうやめてくれよ、ミュウ」
前から手を伸ばして来ているのは、小学校からの付き合い、腐れ縁の女の子である。彫りの深い顔立ちは、西洋人の血が混じったクォーター……でも何でもなく、全くの純血、サラブレッドらしい。
「まあ、ミュウは馬じゃないけどな」
「何の話?」
「お前、ポケモン知らないのか?」
「知らない。ピカチュウしか」
「ポケモンは、日本が世界に誇る文化だぞ」
「安心して。わたし、お茶もお花も知らないから」
そう言うと、彼女は、手を伸ばしてフライドポテトを食べた。二人がいるのは、駅前にあるファーストフード店の一角である。待ち合わせたわけではなくて、たまたま、ついさっき、秋の休日の午後に、街で出会ったので、それじゃあお茶でもしましょうか、ということになったのだった。その流れは二人にとっては、自然なことだった。
「アメリカの文化は好きだけどね。ハンバーガーとコーラが」と美優。
「和食はユネスコ無形文化遺産になったんだけどな」
「好きなものはしょうがないでしょ」
「太るぞ」
「太っても友だちでいてよね」
「それはいいけど、どうして?」
「決まってるでしょ、そうすれば、ご飯をおごってもらえる」
「これ、おごりだって言ったか?」
「でも、さっき支払ってくれたじゃん」
「あれはついクセで」
「いいクセ」
「そもそも友だちって、ご飯をおごるもんなのか?」
「うーん、じゃあ、アレだな……タイチはわたしの奴隷?」
「いや、疑問形で訊かれても」
美優は、ハンバーガーの包みを持って、中身をパクついた。なかなか豪快な食べ方は、幼稚園児のそれを思わせた。
「誰かお前を教育してくれるやつが必要だな」
「いるよ」
「じゃあ、そいつは、あんまり大した教育者じゃないな」
太一は、紙ナプキンを美優に差し出した。それを受け取った美優は、自分の口周りを拭ったのちに、それを丸めると、
「わたしのコーチを悪く言ったら、いくらタイチでもただじゃおかないわよ」
特に怒ってもいないような顔で言った。
太一は眉をひそめた。「また、変な男じゃないだろうな」
「男は当分いいって、言ったじゃん」
「じゃあ、女の子か」
「そう。紹介しないからね」
「そりゃ、残念」
「タイチ、頭の上に何かついてる。取ってあげるから、こっちに顔傾けて」
太一が言われたとおりにすると、その頭を、またグリグリと撫でられることになった。
「面白いか?」
「とっても」
「そりゃよかった」
「あんたもよかったじゃん」
「何がだよ?」
「頭丸められたこと」
「何がいいんだよ。今の流行りなのか?」
「それは知らないけどさ、頭丸めたの初めてでしょ?」
「初めてなら何でも価値があるわけじゃないだろ。初めての万引きは価値があるのか?」
「何があったかは知らないけど、その何かっていうのはさ、カッコつけのあんたが頭を丸めなければいけないと思ったことだったってことでしょ。それだけ、あんたにとって重要だってことじゃん。そういう大事なことがあってよかったねって」
あっ、と太一は盲点を突かれたような思いだった。確かにそうだ。その通りだ。頭を丸める原因となったそれが重要なことであることは認めていたが、現にこの頭を丸めるという行動によってそれがはっきりと証明されたと考えることができる。その分だけ価値があることではないか。
太一は、幼なじみの少女を、新たな目で見た。
「お前のコーチって、なかなかすごい子だな」
「そうでしょ」
「今度、オレにも紹介してくれよ」
「嫌よ。わたしのコーチなんだから。わたしが教わったことを、あんたに教えてあげる。あ、ハンバーガーは、その授業料ってことでいいわ」
食べ終えると、二人は店を出た。太一は、店に入るときよりも清々しい気持ちになっていた。それが、この幼なじみの彼女からもたらされたものだということが何とも不思議だった。人は変わるのである。だとしたら、自分も変わるだろうし、彼も変わるだろう。この先のことは誰にも分からない。分からないこととは可能性であり、未来である。未来を胸に抱いた太一は、
「ここでお前に会えてよかったよ、ミュウ」
別れ際に言った。
すると、美優は、自分で自分を抱くような振りをして、
「なに、なんか気持ち悪いんだけど? タイチ、告白なら受け付けないからね」
心底からそう思っているような、嫌な顔で言った。
太一は笑って、
「オレたち、30歳まで独身だったら、結婚しようぜ」
と言った。すぐさま、美優は、
「絶対ムリ、ゴメン!」
そう答えて、足早に去って行った。
太一は楽になった気分で、街を歩いた。自分が気楽な気分でいると、誰も彼もが気楽そうに見えてくるから不思議である。そこを歩いているカップルも、向こうを歩いている親子も、今通り過ぎたどんな関係か分からない二人も、全ての人が、リラックスして満ち足りているように見えた。
太一は、書店に入って、漫画を物色したあと、家に帰ることにした。何と言っても受験生である。勉強をしなければならない。成績は悪くは無いけれど油断は大敵、太一が、街を離れようとしたとき、見知った顔を見つけた。女の子である。今日はよく知り合いの女の子に会う日だと思いながらも、太一は話しかけずに、道の脇に寄ろうとした。しかし、あっちから、よっと手を上げられてしまった。向こうからアクションを取られているのに、無視することはできず、太一は、彼女に近づくことにした。
ボーッイシュなショートカットの彼女は、パンツスタイルだったが、しかし間違っても少年とは認められないような凹凸があった。
「ナナミ」
「こんなところで会うなんて奇遇だね、タイチ」
七海は、素知らぬ顔をしていたけれど、すぐに口元をほころばせて、噴き出した。
「ご、ごめん、タイチ。どうしても、その頭、慣れなくて」
太一は、傷ついた顔を作って、
「まあ、しょうがない。オレだって慣れてないんだからな」
と言った。
「でも、なかなか似合っていると思うよ、ふふっ」
「そう思っているのに、何で笑うんだよ」
「何でって、まあ、つまりアレだよ、そのアレ、アレ…………えーっと、なに?」
「なにって、ナナミが言い出したんだろ」
「そうだね、ふふっ」
太一は、七海に十分にニヤニヤさせてやったあとに、
「ナナミはここで何しているんだよ?」
訊くと、
「やかん、買いに来たの」
「やかん? やかんって、あのお湯を沸かすやつか?」
「他にどんなやかんがあるのよ。持ち手が壊れちゃってさ。接着剤でくっつけてもいいかなと思ったんだけど、古いから買い換えようかなって……っていうのは、全部お母さんの判断で、お使いに出されたってこと」
「じゃあ、これから電気店にでも行くのか?」
七海は、ため息をつくと、
「タイチ、あんた何も知らないんだね。電気店にやかんなんて無いのよ」
と言った。
「えっ、そうなの?」
「そうよ。ポットならあるけど、電気使うからさ」
「知らなかった」
「うん、わたしも。さっき、電気店に入って聞いてみて、初めて知ったよ」
「なんだよ」
「まあ、そういうわけだから、今から、家具屋さんに行ってこようかなって」
「ナナミは知らないだろうけどさ、オレ、やかんにはちょっとうるさいんだよ」
「やかんにうるさい?」
「そうなんだよ。よかったら、オレがアドバイスするけど」
「帰ろうとしていたんじゃないの?」
「ナナミが、やかん以外の用でここに来ていたんなら、帰ってたさ。でも、ことがやかんってことになったら、オレが教えるしかないじゃないか」
「やかんにうるさい人が、電気店にやかんが無いことも知らないの?」
「書店でお菓子が売っている時代なんだから、どこに何が売っているか間違えることだってあるさ、そんなのは問題じゃないよ」
「なるほどね、じゃあ、エスコートしてもらうことにしようかな。わたし、やかんのことなんか、何一つ知らないからさ」
「任せろよ」
太一は自信満々に胸を張ると、七海を隣にして歩き出した。そうして、道沿いに少し行ったところにある家具店に入ると、すぐに、
「わりい、ちょっとトイレ」
と言って、男子トイレに駆け込むと、スマホを取り出して、いいやかんの条件を調べた。もちろん、太一は、いいやかんがどのようなものであるかなどということについては、何の知識も無かった。というか、そもそも、やかんにいいも悪いもあるのだろうかと、そこからして半信半疑である。しかし、
――おおっ!
天は太一に味方してくれたようだ。いいやかんの条件、それは、
「まずは、水を入れるフタの部分だが、ここは広い方がいい。水がいれやすいし、中が洗いやすい。同じ理由で、持ち手は、片側に倒れるものがいいな。次に、注ぎ口が高い位置にあること。水が注ぎやすくなる。底面は広めの方がいい。熱伝導がよくなるからな。その底面と側面に継ぎがないものがお勧めだ。継ぎがあるとそこから劣化する。材質に関しては、耐久性を重視するならステンレス、熱伝導を重視するならアルミニウムか銅だな」
というものだった。
「すごいね、タイチ」
「見直しただろ?」
「うん、見直したよ。こんな短時間でよく調べて暗記したよね」
「…………ナナミ」
「なあに?」
「こ、コレなんかいいんじゃないか? 値段も手頃だし」
太一が、銀色をした、少し大きめのまるまるとしたフォルムのやかんを差し出すと、七海は、
「ステンレス製で、底面が広くて、側面と一体化していて、注ぎ口も高いし、水を入れるところは広い……うん、いいね、これに決めるよ!」
そう言って、にっこりとした。会計を済ませた後、外に出たところで、
「ありがとう、タイチ。安く済んだから、ハンバーガーでもおごろうか?」
七海が言ってきた。
「は、ハンバーガー?」
「そう、好きでしょ?」
「好きは好きだけど、ほ、ほら、もうすぐ夕飯だからさ」
「そっか」
「こ、今度は?」
「今度、街で偶然会えたらってこと?」
「偶然じゃなくてもいいけど」
「やめとく、タイチのカノジョに悪いしね」
「今オレ、フリーだけど」
「今はね」
そう言うと、じゃあねと続けた七海は、軽やかにターンして、そのまま振り返らずに、少し歩いたあと片手をちょっと上げるようにして、少し振った。
太一はその背に向かって声をかけようとしたが、やめた。そのときようやく気がついたのだが、どうも七海が優しすぎるような気がしたのである。こちらに声をかけてくれたりとか、やかんを買うのに付き合うのを許してくれたりとか、挙げ句の果てにはハンバーガーを奢るときた。いつもの彼女らしくないような気がした。もともと冷たい子ではないけれど、いつもより二段階くらいノリがよかった。どうしてだろうかと考えれば、答えは一つしか無いような気がした。遠ざかる七海の背を見ながら、太一は、自分の坊主頭をぴしゃりと叩いた。