第214話:旧交を温めるためのお誘い
一日じっくり考えてみたが、芦谷紬のことは、これっぽっちも思い出さなかった。もちろん、彼女との間に結ばれていたと彼女が主張している魂の絆についてもである。怜は、自分が記憶喪失を患ったのではないかと考えてみた。何らかの原因で、小四の時の記憶に限り、すっぽりと忘れてしまったのだ。そういうことも、可能性としてはあるのではないか。明日世界が滅ぶ可能性だってあるのであるから、それに比べれば、よっぽどありそうなことのように思われた。
「そういう結論を得て、安心したんだけど、タマキはどう思う?」
新学期二日目の朝である。昨日と同じようにすっきりとした秋空の下を、カノジョの家まで歩いて、お迎えに上がり、現在、その隣を歩く栄誉に浴しているところだった。
「そんな都合のいい話は無いんじゃないかな」
環に一蹴されて、怜はがっかりした。
「夢も希望も無くなったよ」
「なんだか、芦谷さんのことを思い出したいっていう風に聞こえるんですけど」
「芦谷のことだけじゃなくて、忘却の海に沈められた記憶を、ことごとくサルベージしたいよ」
「どうして?」
「そうすれば、自分が何か一つくらいは善行を為していることが、分かるかもしれないだろ?」
「レイくんは、たくさんいいことしていると思うけど」
「だとしたら、どうしてその報いが、知らない女の子からの非難なんだ?」
「非難口調だったの?」
「昨日は違ったけど、きっと今日はそうなる」
「そういうことが分かるなんて、女性経験が豊富なんですね」
「母親と妹から、おおよそのことは分かる。それに――」
「ストップ。言葉に気をつけてね、レイくん。女の子の心は、ガラス細工みたいに繊細なんだって、もっぱらの噂よ」
「オレもその噂は聞いたことがある。でも、都市伝説の類なんじゃないのか?」
「芦谷さん以外に、以前に付き合っていた方がいたら、教えていただきたいんですけど」
「ちょっと待て。芦谷とも付き合ってなんてない」
「でも、覚えていないんでしょう?」
「いくら何でも付き合っていたら、覚えているだろう……多分」
「よかった。少なくとも、わたしのことは、これから覚えていてもらえそう」
環については、忘れるどころか、生まれたときから分かちがたく結びついていたような、そんな気もするのだが、もちろん怜は口にしなかった。代わりに、
「昨日、スズにも同じようなことを言われたな」
言うと、
「これ以上、他の女の子のことを話すなら、秋の空みたいに、わたしの気持ちが急変することも覚悟してね」
と、およそ急変することもなさそうな落ち着いた声音で応えられた。
「でも、タマキ」
「なあに?」
「この話は、お前から始めたんじゃなかったか?」
門前で待っていた彼女に声をかけると、開口一番、紬のことを、尋ねられたのである。
「そういうことは、忘れてください」
「了解」
「さっき、善行を施したいっていう話をしていたよね?」
「それは覚えているよ。で、キミが、たくさんいいことしているって言ってくれたこともね」
「うん、確かにそう言ったけど、でも、レイくんが覚えていないって言うんだったら、新たなその機会をわたしが作ることに関して、やぶさかではない気持ちがわたしにあるっていうことを伝えておくね」
「善行を施させてくれるっていうことか?」
「無理強いはしません」
「本当に?」
「ちょっと強引なくらいが女の子は可愛いんじゃないかって、この頃、妹を見ていてそう思ってきたんだけど、どう思う?」
「確かにそうかもしれないな」
「よかった。じゃあ、します、無理強い」
「今度、キミの妹さんとそのお姉さんを連れて行けるところの候補のリストを作っておくよ」
「わたしのこと、我がままだと思ってないよね?」
「オレが? まさか。ただ、少し時間をもらうぞ」
「洛陽の女児顔色を惜しむ」
「なんだって?」
「好きな漢詩の一句です。『花の色はうつりにけりな――』という和歌も大好き」
「男には世間との付き合いっていうものがあるんだよ」
「世間って?」
「家族だよ」
夏休みには羽目を外しすぎた……と、怜自身は思っていないのだけれど、母がそう思っている可能性が高く、またすぐに遊びに行くとしたら、さすがに黙っていないだろうと思ったのである。少なくとも一ヶ月くらいは、真面目なところを見せておく必要があった。
「それじゃあ、一ヶ月間、耐えることにします。こうして、学校の行き帰りに会えることだけを喜びに、生きることにします……でも、勉強しているときに、気分転換に、ちょっと散歩に出かけることくらいあるよね?」
「あるだろうな、そのくらい」
「そのとき、近所の公園にたまたま妹を連れた姉が来ることもあるでしょ?」
「いいお姉さんだな」
「レイくんもそう思う?」
「もちろん」
「よかった。二人はたまたま公園のベンチに座って、紅葉にはまだ早い木々を見るの、どう?」
「オレはたまたま缶ジュースを3本持っているっていうのは?」
「わたしもたまたま手作りのクッキーを持っているかもしれないね」
「マッド・ティ・パーティが始まるな」
「アリスの役は妹に譲らないとね。わたしは、年を取り過ぎてるから」
「タマキがアサちゃんの頃に、かんしゃく持ちだったなんて、信じられないな」
「前に話していたこと、覚えていてくれたんだ」
「オレのこと、何だと思っているんだよ」
「それは一言では言い表せないな」
「じゃ、ゆっくりと考えて、いつか聞かせてくれ」
「結構かかるかも」
「待つよ。待つのは得意なんだ。なにせ、待つっていうこと以外に何もしなくていいからな」
本当に気持ちのよい日だった。これからまた夏の暑さがぶり返すかもしれなかったが、だとしても、今日という一日の価値がその分だけ下がるわけでは全然無い。
学校が近くなってきていた。怜は、制服姿の生徒たちの中に、背がすらりと高い坊主頭の男子を見つけた。顔なじみである。怜は、少しだけ微笑むと、しかし、彼については、隣の少女に何を言うこともなく、歩き続けた。
「ねえ、レイくん」
「ん?」
怜が隣をみると、環はゆるやかに首を横に振った。
「ううん、何でもない」
「言いかけてやめるなんて、気になるだろ」
「気にしないでください」
「そう言われると、いっそう気になる」
「じゃ、気にしててください」
昨日と同じように、生徒用玄関のところで、環と別れた怜は、教室に入ると、昨日とは違って、鈴音ではなく、紬に話しかけられた。彼女は、怜を見ると、喜色をあらわにして、
「おはよう、加藤くん。わたしのこと、思い出してくれた?」
期待を込めた瞳で、言った。その声の豊かさに、周囲の子が、紬と怜を見た。紬は転校してきたばかりなので、そもそも注目を集めやすく、相当の目が二人を見たと言っていい。衆目の中で、怜は、首を横に振ることはできず、
「努力と結果はどっちが尊いと思う?」
婉曲に答えた。紬は、なるほど、とうなずいた。どうやら分かってもらえたようである。勘の悪い子ではないらしい。紬は、ふと何かを思いついたかのような顔をすると、
「頭を何かにぶつければ、記憶が戻ることがあるっていうのは、本当かな?」
と言った。
「オレは別に事故に遭って記憶を失ったわけじゃないし、そもそも、それは民間療法だろう」
「『去る者は日々にうとし』って言うけど、それでも、あんまりじゃないの?」
「五年も前なんだぞ」
「それは理由にならないと思うよ。わたしは、覚えているんだから」
「芦谷の頭が特別にいいんだろう」
「今はそういうことにしておくしかないね」
紬は、大仰なため息をつくと、自分の席についた。
怜にしても、申し訳ないという気持ちはあるのだが、覚えていないものはどうしようもないところである。
二日目からは、ちゃんとした学科授業も始まった。給食もあって、六時間勉強させられる、ノーマルなスケジュールである。怜は、午前中の四時間分、きちんと勉強した。その四時間のあいだに、二三回、紬が発言する機会があって、教師の、教科内容に関する質問に対して正確な答えを返していた。彼女の頭がいいのか、彼女のもといた中学校の授業進度がこちらより速かったのかは分からないが、大いに面目を施していた。
紬の周りには、休み時間のたびごとに人混みができて、笑い声が起こった。どうやら、彼女は、一日で人気を得たようである。
給食を済ませたあと、図書室にでも行こうとしたところで、怜は紬に声をかけられた。
「ちょっと時間もらってもいい、加藤くん?」
「いいけど、用件を言ってもらいたいな。頭を何かで殴られたくない」
紬は、白い歯をのぞかせて、笑った。「そんなことしないってば」
怜は紬の後ろについて、廊下に出た。
「加藤くん、次の日曜日、ヒマ?」
「芦谷はあまり問題ないみたいだけど、オレの学業面は問題が大ありなんだ。勉強しなくちゃいけない」
「この五年間、あんまり勉強していなかったの?」
「五年前のオレは勉強していたのか?」
「それは分からないな。剣道はやってるって教えてくれたけど」
「結構プライベートなことを話しているな」
「そうよ。わたし、加藤くんの、あんなこともこんなことも知っているんだから」
「それで?」
「旧交を温めたかっただけよ。日曜日がダメなら、土曜日でもいいんだけど」
「悪いけど、勉強のこともあるし、女の子と一緒には出かけられない事情がある」
「女の子が嫌いなの?」
「まあ、ある意味では。あまり公言はしないけどな」
「わたしのこと、女の子だと思わなければいいんじゃないかな?」
怜は、紬を上から下までざっと眺めるようにした。
「どうやらそれは難しそうだし、仮にオレが芦谷のことを女の子だと思わなくても、あまり意味は無い」
「なるほど、そういう事情なんだ」
紬は細い眉の根を寄せるようにしたが、すぐに、パッと顔を明るくすると、
「何でもトライしてみないと、できるかどうかは分からないものだよね?」
言った。
「一般的にはそう言えるけど、人は空を飛ぶことはできない」
「そこまで難しいことじゃないと思うんだ。まあ、やってみるよ、それじゃあね」
謎のようなことを言い残すと、紬は教室へと戻った。
怜は、自分が何をしようとしているところだったのかを思い出すと、図書室へと歩き出した。