第213話:夏休みは華麗な変身の期間
新学期初日を終えて家に帰って来た宏人は、何だかドッと疲れた気がした。別に大したことをしたわけではない。それにも関わらず疲労しているのは、体の調子が悪いのでなければ、人生そのものがただ生きるだけで疲れる類のものなのだろう。齢十四にして、厭世観を濃厚に持った宏人は、明日は、明るい日と書くことを慰めとした。
今日は、朝起きたときから、何か嫌な予感がしたのだった。新学期初日の朝にそんな予感を覚えてしまう自分に、宏人は腹が立った。とはいえ、自分に腹を立ててみても、始まるのは自分対自分の訳の分からない戦いである。早々に戦争の空しさを認めた宏人が朝食の卓について、ご飯をむしゃむしゃやっていると、
「ヒロト、ご飯、お代わりは?」
一つ年上の姉の優しい声を聞き、ゾワゾワと総毛立った。姉の顔を見ると、その目がまるで慈母のように微笑んでいるではないか。宏人は、思い切り自分の頬をつねってみた。今が夢なのではないかと疑ったのである。そんな弟の様子を見て、
「何してるの、ヒロト。おかしな子」
姉はまた優しく微笑んだ。危うく食べたものをもどしそうな気持ちになった宏人は、意志の力を総動員して粗相を回避すると、今日が自分の誕生日だったかどうか確認した。これが現実だとしたら、姉がお代わりをよそってくれる機会など、一年に一度しかなく、それはとりもなおさず宏人の誕生日なのだった。
今日が自分の誕生日ではなかったことを確認した宏人は、お代わりの提案を断った。姉の様子がおかしい。さっさと家を出た方がいいようである。
「オレ、もう行くから」
洗面所で歯を磨いたあとに、ダイニングに一声かけた宏人は、
「もうちょっと待ちなさい、ヒロト」
と姉に止められた。
「……待つ?」
「そうよ」
「……何を?」
「いいから」
そう言った姉は、母に入れてもらった食後のお茶を優雅に飲んでいた。
まさか一緒に登校しようなんて言い出すんじゃないだろうなと思った宏人は、これこそが目覚めたときの嫌な予感の正体だったのではないかと疑った。もしもそうだとしたら、姉が何を考えているかは分からないけれど、まあ、この年になって姉と一緒に登校するなど恥ずかしいことこの上ないが、それよりもひどい事態――たとえば、登校中に車にひかれる――を予感していたわけではないことになって、ホッとする思いもあった。
姉はお茶を飲み終わったが、席から立ち上がろうとしなかった。
「あのさ、いつまで待てばいいんだよ?」
「わたしがいいって言うまで」
そう言って、姉は歯を磨きに行くと、ちょっとして帰ってきた。それから少しして、隣に住む、幼なじみがやってきた。
「おはよう、ヒロト」
姉と同い年の隣家の少年、賢は、いつも通り爽やかな笑顔を向けてきた。なるほど、賢が来るのを待っていたのかと合点した宏人だったが、姉はなお動こうとしない。
「姉貴、そろそろオレ、学校に行きたいんだけど。遅刻しちゃうだろ」
「もうちょっと待ちなさい。そろそろ、シホちゃんが来るから」
「あ、そうなんだ、藤沢がね…………って、どうして、藤沢が来るんだよ!?」
「呼んだから」
「ひえっ!?」
あまりに簡単な答えに、宏人は逆にびっくりして、変な声が出た。
姉は、ニヤニヤした顔を作ると、
「新学期の始まりだから、こっちからあんたにシホちゃんを迎えに行かせようとしたんだけど、シホちゃんが、来たいって言うからね」
と言った。
新学期の始まりだからという理屈がよく分からなかったが、姉に理屈など通じないということは、これまで彼女と付き合った十四年間でよく分かっていたことだった。
「前に来てくれた子ね」
姉と弟の間に、母が割って入ってきた。
「感じの良い子だったけど、宏人、あなた、ちゃんとしたお付き合いをしているんでしょうね」
宏人はクラクラしてきた。朝っぱらからどうして母親と恋バナをしなければいけないのか。どうしてもこうしてもなく、もちろん、これは姉の責任である。しかし、姉を責めてもどうしようもない。責めるべきは……。宏人は賢を見た。
「オレは聞いてなかったんだ、ヒロト」
「……ケン兄は、オレの味方だよな?」
「当たり前だろ」
じゃあ、もうちょっとこの姉を何とかしてもらいたい、と思うのは、それだけ賢のことを信頼している証である。
「宏人、お母さんの質問に答えてないわよ?」
母の言葉に、宏人は、「その話はまた今度!」と言って、玄関に向かった。グズグズしていると、母ばかりか、父まで恋バナに参戦してくることになる。そんなことになったら地獄である。志保には悪いが、姉と賢がいるので、彼らと一緒に学校に行ってもらえばいい。そう思った宏人は、
「ヒロト、待ちなさい!」
後ろからかかる姉の言葉を振り切る格好で、靴を履いた。
そのとき、ピンポーン、と呼び鈴が鳴るではないか。
「はい、今出ます!」
大きな声で、外にいる、おそらくはクラスメートにドアを開けることを告げると、宏人は、秋晴れの下に出た。そうして、そこに突っ立っていた少女の手を取ると、
「行くぞ、藤沢」
と言って、早足で家を離れた。
そのまま、ずんずんずんずんと歩いていく。
少女はしばらくの間、手を引かれたままにしていてくれたが、
「もういいんじゃない? 何があったか知らないけど」
家から離れたところで、言った。
「追っ手は来ないみたいだよ」
それを聞いて立ち止まった宏人は、ふうと息をついた。
「そうか。でも、警戒を怠るなよ。敵は狡猾な――」
そこで、彼女の顔を見たところ、口があんぐりと開いて、なかなか塞がらなかった。そこにいたのは、紛れもない藤沢志保だったけれども、
「…………お前、髪、切った?」
別人の観があった。ボサボサの髪をすっきりとしたショートカットにしており、目元をはっきりと見せた彼女は、控えめに言っても愛らしく、オーバーには表現したくない気持ちに宏人はなった。
「気づいてくれてありがとう」
志保は皮肉っぽい笑みを見せた。夏休みのいつぞやに為した変身と同レベルの変身ぶりである。
「イメチェン?」
「いずれ失恋するだろうから、あらかじめ切っておこうかなって」
「意味が分からん。そもそも誰に振られるんだよ」
宏人は、志保の瞳に憂いが含まれているのを見た。
「お、おい、藤沢?」
「倉木くん……」
「な、なんだよ」
志保は、すっと息を吸うと、
「学校まで手を引いてくれるわけ?」
と訊いてきた。
「えっ……あっ!」
宏人は、いまだ握りっぱなしだった彼女の手を放した。
「先輩から、新学期の初日だから倉木くんを迎えに行かせるっていう連絡が昨日来てね。で、わたしが行きますって、答えたわけ」
志保は瞳から綺麗に愁色を払って、唇に笑みを乗せると、姉がした説明と同じ事を話した。
「そのせいで、朝から、オフクロとオヤジに、恋バナを提供するところだったぞ」
「倉木くんがこっちに来てたら、わたしがそういう目に遭っていたわけだよね」
「だから、自分から来たのか?」
「ご明察」
志保は学校に向かって歩き出した。
宏人はその隣につくと、一緒に歩きながら、チラチラと志保の横顔を伺った。
横断歩道の前で止まったときに、志保が、
「可愛い?」
ストレートに訊いてきた。
何てことを訊くんだこいつは、と宏人は思いながらも、慌てるのもしゃくなので、
「そう言わざるを得ないな」
とまじめくさった顔で答えてやった。すると、志保は、
「じゃあ、よかった」
特に喜んでいる風でもなく、まるで、それが当たり前の反応であると言わんばかりの表情だった。
夏休みに彼女の変身ぶりを一度見ていてもなお宏人は驚いたわけであって、それを一度も見ていないクラスメートの驚きは、ましてなおさらのことだった。志保が教室に入ると、まるで転校生でも入ってきたかのようなどよめきが起こり、彼女が自分の机に座ると、
「あれ、藤沢か……?」
「ウソだろ……?」
どよめきは一層大きくなって、それは担任教師でさえ同様であったようで、志保を見たときに、ぎょっとした顔を作った。
一時間目の全校集会が終わって、休み時間になると、友人の富永一哉がやってきて、
「藤沢はこっちの方が似合っているな」
宏人に言った。ということは、一哉も彼女の変身ぶりを見たことがあるのだろうかと思って訊いてみると、
「いや、今日初めて見たけど、でも、なんか板に付いてるなってさ」
精悍な顔立ちをニヤリとさせて答えたあと、ちょっと来いよ、と廊下に連れ出されて、
「ま、がんばれよ」
と背中を軽く叩かれた。
「何を?」
「さあ」
「カズヤ」
「いや、だって、オレにも分からないからさ。ただ、藤沢のことはさ、お前が頑張るしかないだろ。オレも何かあれば協力はするけど、結局はお前のことだからな」
一哉の目はもう笑ってはいなかった。
宏人はうなずいた。
その日、驚くべきことは、他にもあった。二甁瑛子が、親しく話しかけてきたのである。宏人にではない。志保にだった。それは、彼女が、宏人たちのグループに入ったということ、少なくとも、今後宏人たちと仲良くするということの意思表示だった。瑛子が志保と歓談している様子を、少し離れたところで、瑛子がこれまで所属していたグループの男女が、彼女のことを見ながら、ひそひそとやっているのを、宏人は認めた。
今日は四時間目で一日が終わった。宏人は、志保と帰ることにした。彼女は言葉少なだったが、機嫌は悪そうではなかった。
「二甁さんのこと、考えているんでしょう?」
別れ道まできたときに、志保が言った。
「なんで?」
「わたしたちのグループに入って、本当に大丈夫なのかとか」
「もうそのことについては、さんざん考えたから、今はもう考えていないよ。二甁は二甁なりにやるだろ」
「じゃあ、何を考えていたの?」
「今日の晩飯なにかなとか」
「とか?」
「お前のこととか」
「わたし?」
「そう」
「わたしのなにを?」
「ショートカット似合うなって」
「ありがとう」
宏人には、本当は、それ以上に考えていることがあったのだけれど、考えた通りに物事が進むわけでもない限りは、あんまり深刻なふりをしても仕方が無いのかもしれなかった。
「叔母さんが何かご馳走してくれるけど、一緒に食べていかない?」
「叔母さんって、例の喫茶店の?」
「そうよ」
「えっ、今から? このまま?」
「たまにはいいでしょ」
「でも、制服姿でそんなところ入ったらヤバいだろ」
「倉木くんって、わりと常識人だよね」
「わりとじゃなくて、まるきり常識人なんだよ」
「いいじゃん。それに、前だって、制服姿のまま食べたことあったでしょ?」
そう言えば、確かにあった。初めて、志保の本性に気がついたときのことである。あれから、随分と経った気がしたが、ほんの数ヶ月のことに過ぎない。
「ほら、行こう」
宏人は、自分の前に手が差し出されるのを見た。
「なんだよ?」
「朝、ヒロトが取ってくれた手だけど」
「これからずっと呼び捨てにするって言うなら、その手を取るけど」
「じゃあ、やめておくわ」
あっさりと手を引っ込めた志保は、そのまま先に立った。宏人は、母のスマホにメッセージを入れた。怒られるかもしれないと思ったが、予想に反して、小言は頂戴しなかった。しかし、その代わりに、帰宅したあとに、根根掘り葉掘り志保との関係を訊かれるだろうと思ったが、こちらは予想通りになったのである。
「いらっしゃい、志保ちゃん。そして、倉木くん!」
喫茶「シルビア」のオーナーである志保の叔母は、満面の笑みでもって迎えてくれた。