第212話:忘却の海を泳ぐ
その日の一時間目は、全校集会に当てられた。新学期の初めに、校長や学年主任のありがたい説教をあくびまじりに聞き終えて、教室に帰ってきて、休み時間になると、転校生は好奇の目にさらされた。いつまでこちらにいたのか、どこから転校してきたのか、質問攻めに合っている。どうやら、このクラスには、彼女と旧知の仲である子はいないようだった。彼女の声には綺麗な張りがあって、さして難しくもなさそうな子のように思われたので、怜は、安心した。まあ、仮に難しい子だったとしても、関わらなければいいだけの話なので、特に問題は無かった。
「タマちゃんに言いつけちゃおうかな。加藤くんが、転校生の美人ばかり見てたって」
転校生を取り囲む輪に入らずに、近くに来ていた鈴音が言った。
「スズのこともたまに見ているけどな」
「わたしとタマちゃんの仲を壊す気?」
「オレが何をしてもしなくても、お前とタマキの仲が壊れることはない」
「芦屋さんのこと、覚えてる?」
「じゃあ、同じ小学校だったのか?」
「そうだよ。小四のとき引っ越したんだよ。ちょっと聞こえてきた限りだと、芦谷さんは二組だったみたいだけど、加藤くん、四年生の時、何組だった?」
「さあ」
「覚えてないの?」
「昨日のことだって、覚えてないことがあるんだ」
「わたしとタマちゃんが三組だったから、加藤くんは、一組か二組のはずだよ」
「どうして? オレも三組だった可能性は?」
「わたし、クラスメートのこと、みんな覚えているもん」
「ウソだろ?」
「本当よ。ていうか、それが当たり前でしょ」
それは怜にとっては、全然当たり前などではなかった。これまで同じクラスになった子のことなど、ほんの一握りの人を除いて覚えていなかった。そのほんの一握りとは、今でも付き合いがある子である。
「……この物覚えの悪さが、英語にてこずる原因なのかもしれないな」
「覚えようとしないから覚えないのよ。……来年になったら、わたしのことも忘れているんじゃないの?」
鈴音は、目を細めて、怪しむような顔つきをした。
「いや、スズのことは忘れないよ」
「どうだか」
「確信している」
「そお? まあ、どっちでもいいけどね」
鈴音は微笑むと、自分の席に戻っていった。二時間目から四時間目までは、学科授業ではあったが、それぞれ今学期の学習予定を話すために時間が費やされて、まだ授業内容には入らなかった。今日は、昼食の時間がなく、昼で下校することになっている。掃除を済ませたあと、自分の席から立ち上がろうとしたところで、怜は、肩をトントンと叩かれるのを感じた。振り返ると、芦谷紬が、楽しそうな顔で立っていた。
「久しぶり、加藤くん。わたしのこと、覚えている?」
怜も立ち上がると、彼女と目線を同じくして、
「モチロン、覚えているよ。四年二組だった芦谷だろう?」
鈴音から聞いた情報を話した。紬は、艶のある唇を笑みの形にすると、
「四年二組だったことしか、覚えていないようだね。まあ、なんとなくそんな気はしていたけどさ」
と答えた。
「夕日をバックにして荒野で決闘した仲じゃないよな?」
怜が探りを入れるように言うと、紬は、あはは、と笑った。
「そんなことまだ誰ともしたことないよ」
「それはよかった」
「ところが、全然よくないんだな。決闘で剣を切り結んだことはないけど、それに勝るとも劣らない大切な絆をわたしたちは結んだんだよ。それを覚えていないなんてさあ」
そう言って、彼女はいたずらっぽい目をするが、怜としては、何を言われているか分からないので、
「オレの記憶力は壊滅的なんだ。この頃、妹の名前さえ忘れそうになる」
と答えることで、彼女の切っ先をかわそうとしたが、紬は執拗だった。
「わたしが映っている小学校の時の写真とか持ってないかな」
「もし持っていても、それが芦谷かどうか分からない」
「そんなに顔変わっていないと思うよ。探してみて」
怜は、うなずいた。すると、彼女は満足したような顔をして、
「これからまたよろしくね、加藤くん」
と言うと、後ろを向いた。ちょうどそのタイミングで、
「ツムギー」
という声がして、他クラスの、おそらくは小学校の時の友だちだろう女子生徒が、彼女を迎えに来ていた。
怜は、芦谷紬のことを、もう一度思い出そうとしてみた。しかし、どうがんばってみても、何も思い出せそうになかったので、教室を出て生徒用玄関に向かうまでの間に、考えるのをやめることにした。その代わりに、
「芦谷って覚えているか?」
そこにたたずんでいた一人の少女に尋ねてみた。川名環は、訳知り顔で微笑むと、しかし、何も答えずに、歩き出した。怜はその隣についた。校門を出たところで、
「もちろん、覚えています。三年生の時、同じクラスだったから」
と彼女は口を開いた。
「……お前も、スズみたいに、クラスメートをみんな覚えているなんて言わないよな?」
「そんなことは言いません。でも、たいてい覚えているけど」
怜は自分がかなり特殊な部類の人間なのではないかという恐怖を感じた。みんなではないにせよ、クラスメートのことを覚えておくのは、常識に類することなのだろうか。
「六組の転校生は、芦谷紬さんだったんだね。五組でも噂になっていたよ。主に男子のだけど。レイくん、四年生のとき、芦谷さんと同じクラスだったでしょ。覚えてないの?」
「ちょっと待て。どうして、オレと芦谷が同じクラスだったってことを知っているんだよ」
「たまたま、それを知る機会があったの。各クラスにいた子たちをみんな覚えているなんてこと、あるわけないでしょう」
怜は、人は未来だけ見て生きていけばいいのではないかと思った。過去にとらわれるなんてくだらないことではないか。
「そうだよな?」
「どうかな。わたしは、未来も現在も過去も、みんな大切だと思うけど」
怜は、自分の記憶力の悪さを人生論的に解決することの無理を悟ると、がっかりした。
「ところで、レイくん。今付き合っている人の、過去の恋愛関係を訊くことについて、どう思う?」
「どうって……まあ、訊きたければ、訊くしかないんじゃないか」
「不快に思わない?」
「そんなことされたことないから分からないな」
「想像してみて」
怜は想像してみることにした。しかし、想像できなかった。
「じゃあ、もしレイくんが不快に思ったらゴメンね。あらかじめ謝っておくことにするよ」
「なんのことだよ?」
「芦谷さんとのこと聞きたいと思って」
「意味が分からないな」
「だって、レイくん、小四のとき、芦谷さんと付き合っているっていう噂があったんだよ」
「何だって!?」
怜は寝耳に水を注がれたようにびっくりした。覚えてもいない子と付き合っているという噂があったとは。世には、自分が知らぬ間に誰とも分からない人と結婚させられている事件もあると言うが、まさか同種のことがこの自分自身に起こるとは思ってもみなかった。
「付き合っていた、だって?」
「そう」
さっき、紬が言っていた、特別な絆とはこのことなんだろうか。しかし、まるで覚えが無かった。怜はもう一度、思いを巡らしてみたが、やはり、記憶は蘇らなかった。
「わたしに遠慮しているんじゃない、レイくん」
「そんな問題じゃない」
「まったく覚えていないの?」
「名前さえ思い出さないんだぞ」
「嫉妬に狂わなくてよさそう」
「こっちの気が狂いそうになってきた」
怜は家に帰ると、早速、小学校のときのアルバムを確認してみた。すると、遠足時の写真があって、そこに確かに、幼い頃の紬らしき少女が映っていた。改めて、怜は記憶をたどってみようとしたが、やはり何も思い出さなかった。
しかし、それは、彼女のことだけではなくて、四年生のときに起こったことのほとんど全てを覚えていなかったので、それで許してもらいたいところである。許してもらいたいと言っても、特に許しを請うようなことでもなかろうと思った怜は、開き直ることにした。オレは何も悪くない! 悪いのはオレの頭だ! うまく開き直ることができなかった怜は、げんなり感を抱えて、塾に向かうことにした。今日は、これから塾があった。
怜の気分とは裏腹に気持ちのよい秋空のもとを自転車で塾に向かうと、この間あった模擬試験の復習をすることになった。自己採点はすでに済ませているので、おおよその点数は分かっている。解けなかった部分を中心にして復習を行うと、以前にしっかりと習っているはずのところで解けなかった問題もあって、練習量が足りなかったことが明らかになった。
「練習で100%できていないものが、本番でできることはありません。逆に言えば、本番でできないということは、練習をおろそかにしているということです」
講師の山内女史が厳しい声を出した。練習に関しては、怜が自覚的に自分でやるほかないところであり、つまりは、怜の責任である。
「しかし、できるようになってきたところも多々あります」
講師は、特に褒めているようでもない平然とした口調で続けた。
怜は残った時間で、英語の関係代名詞について質問した。以前にも同じ事を質問したので気が引けるところがあったが、
「同じ質問でもいいので、何回でもしてください」
と講師に先んじられたので、遠慮無くそうさせてもらった。
怜の疑問に講師が答えた。
I have a friend whose father is a teacher.
(わたしには、父親が教師をしている友だちがいる。)
「この文を、まず、I have a friendという部分だけ解釈すると、『わたしには友だちがいる』という意味になりますね。それから、whose father is a teacherという部分で、『誰の父親の話をするのかというと、その友だちの父親の話なんだけど、彼は教師なんだ』という風に、前のa friendについて補足しているわけです。関係代名詞が疑問詞と同じなのは、関係代名詞が疑問詞から生まれているからです」
なるほど、と怜はうなずいた。分かったような分からないような話だったが、同じような例を何度か出されているうちに、分かった……ような気になった。あとは、納得いくまで、家で考えてみるしかない。あっというまに、規定の二時間が終了した。
「ありがとうございました」
礼を言って外に出ると、空はやはり綺麗に広がっていた。この美しい空のもとだと、ちまちましたことを考えるのが、バカバカしくなってくるけれど、それをバカバカしいこととして今日退ければ、明日が面倒くさいことになる。怜は、関係代名詞の復習を行ったあと、もう一度、紬が映ったアルバムに向かってみることに決めた。