第211話:二学期の始まりと帰ってきた少女
目を覚ますと、5時だった。ちょっと早く起きすぎてしまったかと思った怜だったが、そのまま二度寝の体勢に入ることをよしとせずに、体を起こすことにした。今日から新学期だった。もう夏休みではないのである。二度寝して寝過ごしてしまうと、母に起こされることになる。新しい学期の最初の日に、母の叱声を聞きたくはなかった。
外は既にうっすらと明るくなっていた。朝日に染められて白々とした空気の中、怜は、廊下を歩いて、階段を下った。時間があるので、母の代わりに朝食を作ってもよかったのだが、それをする代わりに勉強をすることにした。夏休み期間中、遊びほうけていたわけでは決してないけれど、かといって、勉強に邁進していたとはとても言えない状況だった。今すべきは、朝食作りではなくて、朝自習だろう。
用を終えて、自室に戻った怜は、英語の勉強を始めた。朝起きてすぐに勉強するのは国語がいいという話を聞いたことがあるけれど、そんな話に構っている余裕は怜には無かった。国語は、他教科と比べると、多少得点できているので、苦手教科を強化する必要がある。その教科とはとりもなおさず、英語なのだった。目下、英語のうちで怜の頭を悩ませているのは、関係代名詞だった。
I have a friend whose father is a teacher.
(わたしには、父親が教師をしている友人がいます。)
この文における、whoseの役割がどうもはっきりしない。いや、分かると言えば分かる。塾でも説明を受けたとおり、これは、his(もしくはher)の代わりをしているのである。それは、分かるのだけれど、どうもピンと来ないのである。そもそも、どうして、whoseを使うのだろうか。これは、「誰の?」を表わす疑問詞ではなかったのか?
そういうことを疑問に思わない人間が、多分、英語を使いこなす人間なのだろう。怜は、自分がおそらくは一生かかっても、英語を使いこなせるようにはならないだろう、という予感を覚えた。これからますますグローバル化する世界の中で、世界言語たる英語を使いこなせない人間には、暗黒の未来しかやってこない。怜は、ため息をついた。そのとき、スマホがメッセージの着信を告げた。
「おはよう」
環からである。
「おはよう」
「もう起きてたの?」
「起きてると思ったから連絡したんじゃないのか?」
「モーニングメールしたいと思って」
「母さんの代わりに起こしてくれようとしたわけだ」
「いつも自分で起きているでしょう?」
「そんなこともないよ」
「じゃあ、これからわたしが起こしてあげるよ。ちょっと面倒だけど、レイくんに頼まれたらしょうがないね」
「何も頼んでない」
「じゃあ、わたしから頼もうかな。今日、迎えに来て」
「了解」
5分程度のメッセージのやり取りを終えて、それから、30分ほど勉強を続けると、怜は、階下に行くことにした。ダイニングには朝食の香りが漂っていた。怜は、ダイニングテーブルに座って新聞を広げている父と、キッチンに立っている母に挨拶した。それから、自分の席に着いて少しすると、朝食準備は整ったようである。ご飯と味噌汁と卵焼きと納豆に海苔という、純和風の朝食をいただいていると、
「都はまだ起きないの?」
と母がイライラとした声を出した。イライラされても、
「じゃあ、起こしてくるよ」
とも言えない怜としては、それを聞いているほかない。父にしても同様である。
「まったく、しょうがないわね」
母は腰を上げて、階段を駆け上がった。
「都、起きなさい!」
という声が、上から聞こえてきた。怜は、残っていた朝食をすばやく食べ終えると、ごちそうさまでしたと手を合わせて、洗面所へと向かった。その間に、階段を降りてくるトントントンという足音がして、どうやら妹がダイニングにお入り遊ばしたようである。
歯を磨いた怜は、そっと階段を昇って自室に帰ると、すばやく制服に着替えた。そうして、鏡を見て、特に身だしなみに問題が無いことを確認すると、白色の通学鞄を肩から斜めに提げて、階段を降りて玄関へ向かった。
「いってきます」
と奥に声をかけると、母がパタパタとやってきて、忘れ物がないか確認してきたので、ティッシュもハンカチも上靴も、学校という閉鎖空間で半日を過ごさなければならないという諦めも持っていることを確かめた。
外に出ると、素晴らしい秋晴れだった。雲一つ無い空がはるかに高い。何かいいことがありそうな予感を抱かせる気配だったが、妹と言葉を交わさずに家を出られて、それですでにいいことは起こっているので、これ以上は望まないことにした。
いい気持ちでしばらく歩いて、環の家に到着すると、彼女は、門前で待っていた。
「おはよう。さっきもメールで言ったけど」
「おはよう」
怜は、環を右にして歩き出した。
「何かいいことでもあったの?」と環。
「なんで?」
「機嫌良さそうだから」
「実はそうなんだ。素晴らしいことがあった」
「その感動のお裾分けをもらってもいい?」
「もちろんだよ。聞いて驚くなよ。実は……今朝、妹と言葉を交わさずに家を出ることができたんだ!」
「……レイくん」
「何も言うな。ミヤコを妹に持った気持ちは、オレにしか分からない」
「そんなことを言ったら、わたしだって、マドカやアサヒの姉ですよ」
「マドカちゃんとアサちゃんの姉という立場と、ミヤコの兄という立場じゃ、月とすっぽんだ」
「そうかな」
「二人に不満があるのか?」
「不満なんてありません。二人ともいい子ですから。レイくんは、不満があるの?」
「不満があるかだって? 正確には、不満しか無い」
「ミヤコちゃんもいい子だと思うけれど」
「誰だっていい子だと思えばいい子になる」
「そう思ってみたらいいんじゃないの?」
「人間、努力だけじゃどうにもならないことがあるんだ」
「そんなに努力したの?」
「もちろん。ミヤコと仲良くやっていこうと努力してみようとする努力をずっと続けてきた」
「努力しようとする努力?」
「そう」
「複雑な話ね」
「世の中が複雑なのは、別にオレのせいじゃない」
「複雑なのはレイくんじゃないの?」
「オレは別に複雑じゃない。妹とは合わない、ただそれだけだよ」
楽しいおしゃべりをしていると、学校前の坂まではあっという間だった。怜は環と共に、同校生に混ざって、坂を登り始めた。
「どうして、坂の上に学校を作ったんだろうな?」
「水害に備えて、じゃない?」
「キミは何でも知っているんだな」
「ただの予想だよ」
「多分その予想は当たりだ」
「当たった人には何か賞品がある?」
「クイズ番組じゃないんだ」
「うん。だから、賞品があるかどうかは、レイくん次第だってことだよね?」
どうも、怜はこのごろ、常に誰かに何かをあげることばかりを考えているような気がした。そうして、大方の所それは、今したり顔で隣を歩いている少女に対してのものだった。
「何か考えておくよ」
「考えが浮かばなかったら言ってね。わたし、そういうの考えるの得意みたいだから」
そういうのが、どういうのかは、聞かない方が良さそうだと怜は思った。坂を登り切ると、生活指導の男の教師が立っていて、しかし、大して風紀違反の取り締まりをする気も無いような、気だるげな顔で、適当な挨拶を生徒にかけていた。彼のそばを環と一緒に通り抜けた怜は、生徒用玄関に入った。
「タマキ!」
そこで、環は、友人に捕まったようである。怜は、彼女とここで別れることにして、上靴を履くことにした。ペタペタと廊下を進んでいくと、40日ぶりの我がクラスが見えてきた。クラスに入って、席に着くと、
「おはよう、加藤くん」
橋田鈴音が、にこやかな笑みを向けてきた。
「転校生が来るみたいだよ」
「転校生? こんな時期に?」
「そう。二人いるらしくて、その一人がうちのクラスに来るの。女の子みたい」
なるほど、耳を澄ますと、そちこちから転校生の噂をする、主に男子の声が聞こえてきた。
「めっちゃ可愛い子だってよ」
ある男子が言った不用意なその一言は、いかにもこのクラスには可愛い子が不足しているような言い方であり、大いに女子の不興を買ったようだが、怜は知らない振りをした。事実、特別、興味がある話でもない。彼女がどんな子であっても、学校生活を送っていく上で、心の障りにならないのであれば構わない。
「夏休みはどうだった?」と鈴音が言った。
「別にどうっていうこともないよ。いつもと変わりなく、暑さを、クーラーとアイスでやり過ごしているうちに、いつの間にか終わっていただけさ」
「それだけじゃないでしょう? わたし、誰の親友だと思っているの?」
「スズの全部が好きになれないのは、そういうところだな、きっと」
「わたしはわたしだから、しょうがないね。あと、『好き』っていう言葉をあんまり不用意に使わない方がいいということを、忠告しておいてあげよう」
「忠告は聞いておくよ。それに従うかどうかは、オレが決めるけどな。スズは、夏休みはどうだった?」
「海に山に街に田舎に、異世界以外の大抵の所には行って、色々楽しんできたよ」
怜は、鈴音の表情に晴れやかなものがあるのを見て、これこそが今日起きるべきいいことだったのではないかと思った。
「どうかした?」
鈴音がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「いや、何でもないよ」
怜が答えると、担任の教師が教室に入ってきた。起立と礼を済ませたあと、彼が口を開く前に、
「先生! 転校生が来るって本当ですか!?」
フライングした男子がいた。
担任は軽く苦虫をかみつぶしたような顔をすると、
「それを今から言おうとしていたところだ」
と言って、一度廊下に出ると、転校生らしき少女を伴って帰って来た。壇上に転校生が登ると、主に男子から、吐息が漏れた。すらりとした体つきの彼女は、まるで今日の秋空のように澄んだ瞳を持っていた。栗色の髪が流れるように肩を覆って、その一部を三つ編みにしているようである。
担任に自己紹介を促された彼女は、
「芦谷紬と言います。以前にこの町に住んでいました。初めましての方は初めまして、二度目ましての方はお久しぶり」
と快活な声で挨拶した。
怜は、どこかで彼女に会ったような気がしたが、どこで会ったのかは覚えていなかった。以前にこの町に住んでいたということだから、もしかしたら小学校の時、同じ学校だったのかもしれなかったが、もっと最近にどこかで会った気がしていた。