第210話:夏休みの終わりは新たな季節の始まり
ようやくお勤めが終わったのが、午後の4時頃のことだった。怜は満足した。何が良かったと言って、終わったことがもっとも良いことだった。始まったものには、必ず終わりが訪れる。人はそれをしばしば悲しみの気持ちとともに述べるが、ことによれば、喜びの気持ちとともに述べることもできるのである。
しかし、「お勤め」という言い方をするなら、自分よりもむしろ、環の方により当てはまることだろう。怜は、遊園地のゲートに向かって歩きながら、すぐ前を行く、妹と屈託無く話す彼女に心の中で礼を言っておいた。もちろん、心の中だけで言うだけでなく、何らか形にしなければいけなかったが、あいにくなことに、園内では彼女に対するプレゼントは見つからなかった。見つけようと努力しなかったわけではない。断じて違う、と怜は思った。
ちょうど帰路を取る他の大勢の客たちと一緒に、怜たちのワゴン車も発進した。来た道を逆に戻るのである。やはり一番後ろの列に一人で悠々と席を占めた怜は、来たときと同じようにウトウトとし始めた。車内には、運転手の父の眠気覚ましのためだろうか、なつメロがかけられていたが、それが返って怜の眠気をいや増した。
車は来たときと同じように、一度、休憩のために道の駅に止まった。行きの時とは別のところである。同じように声をかけられて起きた怜は、トイレを済ませて、車に帰ってきた。晩夏の日はまだ高く、周囲は明るかった。
怜はふと、このまま家に帰らなかったらどうだろうかと考えてみた。家に帰らずに、どうするか。このままお出かけを続けるのである。旅に出る。家や学校などのしがらみから自由になって、思いのままにこの世界を探検する。いずれどこかでのたれ死ぬかもしれない。しかし、人はどこかで必ず死ぬのだから、そんなことはどうということもないと言えば、言える。
「連れてってくださいね」
前の座席から、環が言った。妹と両親はいなかった。
「えっ、どこに?」
怜は驚いた。
「それはわたしには分かりません。でも、どこかに行きたそうな顔をしていたから」
「オレが?」
「違うの?」
「……キミはオレの顔ばかり見すぎているんじゃないか?」
「意図的にやっていることじゃないよ。わたしが目を向ける方にたまたまレイくんの顔がよくあるっていうだけだから」
「オレがお前の視界に入りすぎているってことか? テレビ局のカメラに映ろうとする通行人みたいに」
「そういうことになるかな」
「そんなことないだろ」
「そうであってもなくても、わたしの視界によくレイくんが入るっていう事実は、何も変わらないでしょ?」
それは確かにその通りだった。しかし、だとすると、怜はしょっちゅう、顔色から心の中を読み取られているということになる。ガラス張りのオフィスどころの話ではない。
「プライバシーの権利っていうのを、この前、社会の授業で習ったぞ」
「権利っていうのは、個人が国家に対して主張するものだっていうことも、習ったよ」
「国家なんて大層なものは知らないよ。ここにこうして具体的に存在する個人のことしかオレは分からない」
「そうだよね。だから、わたしもここにこうして具体的に存在している人の顔を見ているんだけど」
怜は議論をやめた。そもそもが、権利などというのは、卑しい考え方だった。人権というのは、簡単に言えば、どんな人間にでも一票を与えるということである。あいつにも一票、こいつにも一票。しかし、人間の中には、百票与えるに値するものもいれば、一票も与えるに値しないものもいる。権利などという考え方は、この世の中の決まりごととして、日常生活を円滑に送るために従っておく分にはいいが、心の底から信じ込むなどということは、バカげた話だった。
妹が帰ってきて、ついで、母と父が帰ってきた。父はビニール袋を提げていて、何か戦利品をゲットした母から持たされたようだった。
少しずつ夕闇が迫る中を、車は我が町へと向けて、再び動き出した。いったい何をそこまで話すことがあるのか分からないが、妹はまた環と話を始めた。怜はそれを聞くとはなしに聞きながら、外の景色を眺め続けた。そうして、家に帰ったら、やるべき勉強のことなど考えた。遊んできたその夜に勉強しなければいけないとは、因果な世界に迷い込んだものである。果たして、この世界から華麗に脱出できるのかどうか疑問だった。というのも、仮に高校入試を何とかクリアできたとしても、次は、大学入試が待っているのではないかと思ったからである。高校に行っても特にしたいことがない怜は、次なる入試に向けて勉強しなくてはいけなくなるような気がした。一難去ってまた一難。しかし、それもまたやむをえないことだった。
夏休み最後の休日の夕方の道路は、今日遊ばなけりゃ次は無いと考える刹那主義者がそろって帰宅しているために混み始めていた。
母は、環に家に連絡しておくようにと言った。
「ご心配になるでしょうから」
「はい、分かりました」
素直に答えた環だったが、おそらくは、言われる前からそんなことはやっていただろう。怜は、後ろから、彼女がスマホを操作するのを、振りだと思って眺めていた。
そのあと、少ししてから、
「お母さん、どこかで食べていこうよ!」
と妹が言い出した。それを聞いた母は、
「どこかってどこで?」
訊き返すと、
「家に帰るまでのどこかおいしいとこで。だって、このままだったら、夕飯の時間に間に合わないじゃん」
妹が勢い込んで続けた。どうやら、一日中一緒にいたというのにも関わらず、まだ環と一緒にいたいようである。母はしばらく沈黙した。夕食を外で取るのは構わないが、環を時間通りに帰せなくなることが気になるようである。
そのとき、怜は、環がこちらに少し頭を振り返らせようとするのを見た。目線までは合わせなかったけれど、彼女が何を言いたいのか分かった。いや、分かった気がした。こういうときだけどうして彼女の言いたいことが分かるのか、怜にはよく分からなかったが、分かってしまったものはしょうがなかった。怜は、内心でため息をつきながらも、スマホを操作して、環の家の電話番号を呼び出した。
「はい、川名です」
電話口に出たのは、環のすぐ下の妹の円のようだった。怜は、挨拶をしてから、彼女の母親の呼び出しを頼んだ。電話口に現われた環の母親に対して、怜は、
「遅くなってしまって申し訳ありません」
と謝った上で、もう一つ申し訳ないことがあるのですが、と枕詞をつけてから、
「家族がどうしてもタマキさんと夕食を共にしたいと言っているのですが、そのお許しをいただけないでしょうか」
一息に言った。
環の母親は明るい声で快諾してくれた。ホッとした怜は、
「お母様に電話を代わっていただける?」
と言われたので、その旨を我が母に伝えた上で、スマホを、妹越しに母に手渡した。母はスマホを受け取ると、
「こんばんは……ええ、いえいえ、とんでもないです。本当に素晴らしいお嬢さんで。うちの娘に見習ってもらいたいものです……はい、はい、お夕飯までにお返しできずに、本当に申し訳ございません。……はい、失礼します」
短く話をして、都にスマホを渡した。そのスマホを、妹から返してもらった怜は、
「お兄ちゃんも、ごくたまには役に立つね」
最大級の褒め言葉をいただいた。
「そういうことだから、環さん、あなたの考えを伺う前に決めてしまって申し訳ないのだけれど、一緒にお夕飯に付き合っていただける?」と母。
「はい、喜んで、ご相伴にあずかります」
環がそう答えると、妹が、「やった!」と、はしゃいだ声を上げた。
母は、こんな機会でも無いとなかなか注意もできないのだろう、すかさず、
「都、あなたも環さんを見習って、一つでも二つでも、環さんのような所作や言葉使いを身に着けなさい」
と我が娘に訓戒を施した。
「はーい」
と答えた妹は、環と比較されたことに関して、思春期特有の自意識の働かせ方を全くしたようでもなく、つまりは、母の言葉を適当に聞き流した。
夕食を取るために入ったのは、家に帰る途中にあるイタリアン料理店だった。以前に一度来たことがある。評判のお店で、日曜の夜などよっぽど空いてなさそうだったが、あらかじめ電話をしてみると、運良く、テーブルが一つ空いているとのことである。
「わたしの日頃の行いがいいせいだと思う!」
と日頃、兄に暴言を吐く以外にどんないいことをしているのか分からないけれど、妹がそう主張した。
レストランに着くと、スパイシーな香りが心地よく空腹を刺激したようで、怜のお腹はぐぐうと鳴ったが、誰にも聞かれなかったようである。テーブルまで案内してもらったところで、怜は、妹が先に座ったのを見てから、椅子を引いて環を座らせた。
「ありがとう、レイくん」
環の感謝の言葉を聞いた怜は、妹がしまったという顔をするのをチラ見しながら、席に着いた。父と母の方は見なかった。
怜は、アラビアータという、辛めのパスタを頼んだ。他のみんなもそれぞれパスタを頼んで、他にも、適当につまめるように、ピザを2枚頼んだ。フォークとスプーンでクルクルとパスタを巻くのに苦戦しながら、怜は、箸というものは偉大な発明品であることをしみじみと感じた。隣をみると、環は、まるで一日一食はパスタを食べていますと言わんばかりの板に付いた食べ方で、パスタを食べていた。怜は、ひそかに感心した。その気持ちが伝わったらしく、環は、ナプキンで拭った口元を微笑ませた。
食べ終えると、既に8時を過ぎていた。すっかりと夜の装いとなった空のもとを、車は環の家へと走った。
家の前に車を停めると、すぐに中から現われた人影があり、どうやら環の母親らしかった。
怜は、母が挨拶をしに車を降りるのを見た。そのあとに、環は、
「本当に今日はありがとうございました。とても楽しい一日でした」
と父に対して礼を言ったあと、
「ミヤコちゃんも、ありがとうね」
と続けてから、怜の方をちらりと見て、しかし、見ただけで言葉はかけず、車を出た。
それから少しして、母が帰ってきて、車は発進した。
夜の中を、我が家まで帰ってきてから部屋に戻ったときに、まるで計ったようなタイミングで、環からメッセージが届いた。
「今日はありがとう」
それはこっちのセリフだった怜は、環に同じ言葉を返した。
「この夏休みはとても思い出深いものになりました。この思い出を抱いてどこか遠い山の向こうに隠れ住むこともできそうです」
これは遠回しに、いや、ストレートに、また別の機会にどこかに連れて行けと言っているのだということは、それなりの付き合いなので、怜にはよく分かった。なので、隠棲するなんてことを言わずに、また付き合って欲しいと伝えると、
「レイくんのたっての願いというなら、聞かないわけにはいかないね」
と返ってきたので、心からの願いである旨、返信しておいた。
メッセージのやりとりである分には顔が見えないので、ありがたかった。




