第21話:世界の果てに至る道
二歳年が離れた姉は、円にとって自慢の姉だった。
姉は、美しく、強く、優しかった。何でもできた。勉強もスポーツも、家事さえも。それでいて、それを誇ることなく見せつけることなく慎ましやかで、一緒にいるときは一歩引くような態度を取る。目立つ自分の影に妹を隠すようなことをせず、妹にライトを当ててくれる。そんな姉が大好きだった。円ちゃん、と自分の名を呼んで手を引いてくれることが彼女にとって一番の幸せだった。
いつのことだろう。伸ばしてくれるその手に固いものを感じたのは。自分の名を呼んでくれるその声に冷えたものを感じたのは。はっきりとは覚えていないが、姉が小学校の高学年の時だったような気がする。ずっと姉のことを見ていた円にはその変化が読み取れた。しかし、原因までは分からなかった。姉のどこかが変わった。自分に向けてくれる眼差しの色が暗くなったような気がする。
初め、円は自分が何かして姉を怒らせたのだと思っていた。知らないうちに何か姉に悪いことをしてしまったんだと。それで姉に嫌われたのだと。しかし、どう考えても何も思いつかなかった。思い切って姉に聞いてみたが、姉はいつものように笑って、怒ってなどいないと円の疑いを一蹴した。その場はほっとしたが、やはり姉の態度は元には戻らなかった。世界の中心に姉がいる円にとってそれ以上の大事はない。それからも必死に考え続けた。
一つ思い当たったことがある。姉はもしかしたら嫉妬しているのかもしれない。姉が持っていないものを一つだけ円は持っていた。それは両親からの愛情である。もちろん、姉にも親の愛は注がれている。しかし、自分の方が母や父からより可愛がられている気がするのである。姉は両親からであっても一目置かれているような存在で、どちらかというと敬して軽く遠ざけられているようなところがあったのだ。それしかない、と思うと、円の小さな胸は張り裂けそうに痛んだ。両親から十分に愛されていない姉が可哀想になったのである。また自分とは直接関係のないことで、姉から嫌われたのかと思うとやり切れない気持ちにもなった。両親からよりも、尊敬する姉からの愛情が欲しかった。
円は両親から可愛がられることを拒否するようになった。そうすることで、姉と同じ側に立ちたかったのだ。幸いにして、と言っていいのかはともかく、円が自分のことはできるだけ何でも自分でするように心がけるようにすると、両親は七つ下の妹に興味を向けることが多くなった。円はほっと胸を撫で下ろした。これで、姉から嫌われる要素はなくなったはずだと少女は思った。しかし、である。意に反して、姉の彼女に向ける態度への違和感はなくならなかった。これ以上どうすれば良いのか。思い余った円は、
「お姉ちゃん、わたしに気に入らない所があったら、はっきり言って」
と強い言葉で迫った。以前したように本人に訊くほかなかった。誠心で当たれば、きっと応えてくれるはずだ、という期待が円にはあった。しかし、姉はきょとんとした顔をして、
「マドカちゃんに気に入らないところなんてあるわけないでしょう。お姉ちゃんの大事な妹なんだから」
やさしい声を返すだけだった。それを素直に信じられたらどれだけ良かっただろう。愛しい人にだからこそ騙されることができないのである。分かりたくないことまで分かってしまうのだ。
「お願いだから、お姉ちゃん、言ってくれれば直すから」
なおも円は食い下がったが、姉は困った顔で同じ言葉を繰り返すのみだった。それは、しかし、虚偽の言葉なのである。そういう態度を取られるくらいなら、あんたのことなんかずっと嫌いだった、と激しく言ってもらえた方がずっとマシだった。
円は本心を話してくれない姉と距離を置くようになった。もう昔のように姉を一途に敬慕できないという事実が、円の心に重くのしかかった。
もう二カ月で小学校の卒業を迎えるという一月の初旬のことだった。
夕食の前に姉が突然に切り出したことが家族を動揺させた。
「今日、前から好きだった人に告白して、OKをいただきました。お付き合いしますので、応援よろしくお願いします」
好きな人がいたということ自体が初耳だった。姉と距離を置くようにしていたので、それも仕方のないことかもしれない。ただ、それは円だけのことではなく、他の家族も同様だった。
「どんな男の子なの?」
驚きで石像と化した父の隣で、いち早くショックから立ち直った母が訊くと、姉は同じクラスのクラスメートで小学校が同じであり、その時から好きだったとまっすぐに言った。こういう堂々としたところにはやはり感心せざるを得ない。
「今まで生きてきた中で一番緊張しました。まだドキドキしてます」
言葉通りなのだろう。沈着な姉が常に無く軽い口調である。
「お姉ちゃんに目の前で告白されたらさ、男の子だったら誰でもOKするよ。可愛いから」
姉と距離を取るようになって手に入れたものが、姉への軽口という能力だった。しばしばその軽口には悪意が混ざる。その声音に、その男も単に外見に惹かれただけなのではないか、という意味を込める。それが分からないような姉ではないが、もちろん姉は怒ったりなどしない。彼女は微笑を浮かべると、
「マドカちゃん。お姉ちゃんはね、見つめ合う相手は要らない。同じ方向を見られる人が欲しいの。今日告白した人はそういう人よ」
はっきりと言い切った。その声の何と確信に満ちていたことだろう。姉のことを客観的に見られるようになってきていた円は、改めて彼女の大きさを認めた。言うこと為すことの何もかもが自分とは違いすぎた。姉には強さがある。自分自身を自ら導いていける強さが。対して円にはそんな強さはない。
――だからなの、お姉ちゃん?
姉は、不甲斐ない妹に嫌気が差したのか。あまりに自分と違いすぎる円を軽蔑したのだろうか。考えれば考えるほど、正しい推測のように思えてきた。しかし、その推測が正しかったとしたら、円には絶望しか残らない。自分が姉と対等になどなれるはずがないのだ。というより、姉と対等に付き合える人などいるはずがないという思いがある。では、一体、姉のカレシとはどういう人なのだろうか。姉から告白したということは、対等どころか、どちらかと言えば相手が彼女より上だということになる。
円の疑問が晴れる機会は案外に早くやってきた。二月のある日曜日のことである。姉がクラスメートを数人、家に招待していた。何でも、二年生が終了するに当たり、クラスでお別れ会を催すらしい。その計画を立てるためにクラスの代表に集まってもらうということらしかった。その招待客にカレシが含まれているということを姉の口から円は聞いていた。また、他のクラスメートがいるので今日は正式には紹介しないことも。
「誰だか当てられたら、お姉ちゃんの服の中で好きなのをあげるよ」
姉が上機嫌な様子で言った。カレシを家に呼ぶことが余程嬉しいのだ……で終わるほど円は鈍くない。この頃疎遠になってしまった妹に気を遣っているのである。
「要らない。お姉ちゃんのはわたしに似合わないから」
そういう気遣いが欲しいわけではなかった。円は素っ気無く答えた。ただ賞品は拒否したが、ゲームには参加することに決めた。姉が選んだ男の子がどんな子なのか興味がある。
姉の友人は女の子が二人と男の子が三人だった。三人の男の子のうちの一人がカレシである。さて誰か、と考えるまでもなく、一目を引いた男の子がいた。美少年と言ってよい彼の華やかさに他の二人の男子は完全に引き立て役であった。その二人のどちらかということはあるまい。キッチンで客をもてなすための用意をしながら、円は何だか興ざめしたような気持ちだった。確かに、宮田と名乗った彼は、ルックスも良くまた社交的で、いかにも女の子に人気のありそうな人だったが、それだけに平凡な選択のように思えた。一方でその選択にほっとしている自分もいた。姉もやはり女の子だったということだ。
ところが円の予想は全く間違っていたのだった。
母と一緒に焼きたてのクッキーと紅茶を人数分用意し、リビングで歓声を受け取ったあと、自分の部屋に下がろうと思ったときのことである。五歳になる妹が、午睡から覚めてリビングに闖入した。そうして姉に遊んで欲しいとせがみ始めたのである。妹は、円や母よりも――父は言うまでもない――姉の方が好きらしく、一度姉にひっつくと容易なことでは離れない。この時も、円や母が、お姉ちゃんは忙しいから、となだめても、遊んで欲しいと駄々をこねて、なかなか言うことを聞かなかった。ついにはべそをかく始末である。
子どもの泣き声に寛大である大人は多くない。つい十年前は同じ立場だった少年少女が少しずつ苛立ち始めるのを円は感じていた。例の姉のカレシらしき少年も、うんざりしたような顔をしているのが見えた。完全無欠に見えた姉にも意外な弱点があったものである。人を見る目がない。姉のカレシならば傍観しているのではなくこの事態の打開に対して何らかの対処をすべきではないか、などと考えてしまう自分がふと可笑しかった。身内のことである。まさかそんなことまで求められるわけがない。
それにしても姉がすぐに妹に対処しないことが不思議だった。いつもならすでに妹を上手になだめている頃合である。客がいるのだから尚更であろう。姉の思惑はともかくとして、円は自分の務めを果たさなければいけないことを感じた。距離を置くようになった姉だとしても、姉に嫌がらせをしたいわけではないのだ。このまま妹を泣かせておき、姉主催の会を台無しにするわけにもいかない。泣き止まない妹に対してやむを得ず実力を行使しようと、円が覚悟を決めたときのことだった。妹に近づく影がある。彼は膝を折って妹と視線の高さを合わせると、
「どうして泣いてるの?」
と柔らかな声を出した。
「お姉ちゃんが遊んでくれないの」
その声の響きに誘われるように、今まで激しく泣いていた妹はしゃくり上げながらも答えた。
「お姉ちゃんと遊ぶ約束してたの?」
続いての問いに、うんうんと妹は何度かうなずいた。これはウソである。姉は友達が来るから今日は遊べないということを、妹に言い聞かせていた。もちろん五歳児がそれをちゃんと聞いていたかどうかは別の問題である。
「じゃあ、お姉ちゃんは約束を守ってくれるよ、そうでしょ?」
妹は、その理屈に納得したのか、泣き止むと、
「でも、今は遊んでくれないよ」
と不服そうに言った。
「お姉ちゃんは今キミと……そう言えば、お名前は?」
「かわなあさひ……」
「アサヒちゃんか、いいお名前だね。アサちゃんって呼んでいい? オレは加藤怜。レイって呼んでよ」
「レイ?」
「そう。お姉ちゃんは今アサちゃんと早く遊べるように頑張ってるんだ。だから、それまではオレで良かったら遊び相手になるよ」
「遊んでくれるの?」
「何する?」
妹はぱっと顔を輝かせると、人形を持ってくる、と元気な声で言ってリビングを出た。
見事な応対だった。またたく間に、妹の機嫌を直し、事態を掌握してしまった。一連の流れるような無駄のない対処に見惚れている自分がいるのに円は気がついていた。目立たない方の二人の男の子のうちの一人だったが、その時の彼は確かに美しかった。母も、また彼の同級生たちも一様に、その行動に感心しているような顔だった。
「加藤は将来さ保育士とかになれるんじゃないか。それとも単に小さな女の子好きとか?」
姉のカレシがつまらないことを言っていた。衆目をさらった少年に不快な気持ちを持っているのだろうと、円は推測した。いくら外見が優れているとはいえ、この程度の男に姉から告白したのかと思うと、恋とは不思議である。その不思議な力によって、姉の目も曇ってしまったのだろうか。
怜は、彼には一瞥もくれず、姉に、
「ということで、オレは妹さんの遊び相手に選ばれたから、話はオレ無しで進めてくれ。オレの票は川名に預けるよ。オレか川名が抜けることを考えたら、オレの方がいいだろうから」
いった。姉がその申し出を受け入れたことが、円を驚かせた。そうしてその驚きは確信に変わった。この人こそが姉のカレシなのである。そうでなければ、妹の相手などという身内のことを姉がさせるはずがない。さらなる推測が円の頭に浮かぶ。これは邪推かもしれないが、旭が泣き始めたときすぐに姉が対処しなかったのは、この人が対処してくれることを信頼していたからではないだろうか。あるいは、
――どう対処するか試してたのかもしれない。
どちらにしろ、姉が自分で行わず人に任せたということは、その人を特別視しているということである。
「おい、ここに何しに来たんだよ」
おそらく妹を通して姉と特別なつながりを持った怜に嫉妬したのだろう、宮田少年が非難するような口調で言ったが、怜は、
「お別れ会の話し合いだろ。でも、お前と川名がアイデアを出して、それを皆で修正していけばうまくいくさ」
素知らぬ顔で彼を持ち上げた。姉が微笑して怜を見ていた。一瞬だけ二人の視線が交錯して離れた。そのコミュニケーションの意味は、円には分からなかったが、二人の間に何らかの意思の疎通があったことは理解できた。
そのとき円は怜に強烈な嫉妬を覚えた。この人は姉を理解して姉と対等の立場に立てるのだ。嫉妬は憎悪に変わる。おそらくこの人が姉の自分への気持ちを逸らした原因なのだということを直感したのである。一方で、彼に対する興味が生まれた。どうすれば姉と対等の立場に立てるのか、この人をつぶさに見れば分かるかもしれない。それから何度か怜に会うことがあったが、憎悪を先行させてしまった。今後は、それらを押さえて興味を先行させようと思って取った行動が彼と同じ部に入るということだった。もしかしたら姉にあらぬ誤解を生むかもしれないが、なに構うことはない。それよりも、姉と同じ地平にどうすれば至れるのか、ということを知る方が重要だった。円は気がついていなかったが、それは姉からの自立を表していた。世界の中心だった彼女の姉は、今や世界の果てにあり、崇拝の対象ではなく、近づき乗り越える目標となっていた。