第208話:二度目のカノジョ付き家族ドライブ
目覚めると、空はまだ薄暗かった。時計を確認すると、4時である。もう一眠りしようかと考えた怜は、考えを改めて勉強することにした。一度部屋を出て階下へと行き、洗面を済ませてから、部屋へと戻る。そうして、部屋の電気をともし、勉強をする。いつからこんなに勤勉になってしまったのかと考えれば、もういつの頃からか思い出せないような気がする。それが、本当に勤勉になったというそのことだろう。あとから眠くなるような気がしたが、それはそれでよしとした。今日はこれから家族で出かけることになっているが、怜としてはただ父の運転する車に乗っていればいいわけである。車の中でうつらうつらすればいい。助手席に乗ってナビ役を務めるわけでもなければ、楽しい会話を提供するわけでもない、後部座席に乗っていればいいだけの話だった。
「家族で」出かけると言ったが、家族の他に一人参加することになっていた。カノジョである。家族の団らんに彼女が参加するというよりは、これはカノジョのために用意されたイベントだった。カノジョと怜の妹のためにである。妹がカノジョのことを崇拝しており、しかし、自分からお近づきになることができないシャイガールなので、兄を通じて仲良くなりたいというような話である。女同士勝手にやってくれればいいのにと思いつつ、妹のため……というよりは、そうしないとうるさいので多分に自分のために、怜はカノジョに頼んで、一緒に来てもらうことにした。
怜たち一家には、月一で家族のお出かけがある。大抵は服を買いに行くのだけれど、今回の行く先は、遊園地だった。環に配慮したのである。以前に一度、家族のお出かけに環を付き合わせたことがあって、そのときの目的地が、まさに服を買うためのアウトレットモールだったことも関係していた。そう言えば、と怜は思い出す。その時は、妹は環に服を選んでもらって、その兄はカノジョにプレゼントを選んでいた。それに倣うとすれば、妹の世話をしてもらう代わりに、今回もカノジョに何かしらプレゼントしなければいけないことになるだろう。しかし、何をプレゼントすればいいのだろうか。そもそも、遊園地で何を買えばいいのか。マスコットキャラくらいしか買う物がないではないか。
ガチャリといきなりドアノブが回される音がして、怜は、びくりとした。午前四時半にそんなことをされれば、誰だってビビる。
「お兄ちゃん、おはよう!」
ドアの向こうから現われたのは、パジャマ姿の妹だった。兄に挨拶をするような殊勝な性格ではない彼女のこの振る舞いに、しかし、怜は驚かなかった。以前にも同じことをされたことがあるのである。彼女は自分の機嫌が良いときにだけ、機嫌の良い振る舞いをする。
「あ、起きてたんだ? 顔洗った? トイレは? 体調はどう?」
怜はオールグリーンであることを静かに答えた。すると、妹は、
「ちょっとテンション低いじゃん、元気よく行こうよ!」
と、もう一度確認するが、朝の四時なのである、そんな時間帯から元気よく行けるタフガイではない怜は、しかし、抗弁するのも面倒なので、おお、とガッツポーズを作っておいた。
「それで?」と妹。
「それでって何だよ?」
「どの服を着ていくか、決まっているの?」
「服?」
「裸で出かけるつもりじゃないなら、服くらい着るでしょ?」
そりゃそうだ。この年で恥ずかしい罪で捕まりたくない怜は、心の中でうなずいた。
「どんな服を着ていくつもりなのか、聞いてるの。あんまりな服だったら、恥ずかしいでしょ、わたしが」
怜は、立ち上がると、服を掛けているクローゼットから適当にみつくろって、妹に示した。そうして、まだ完全に回りきらない頭で、何だろうこの時間は、という疑問を持ったが、深く考えを至らせる前に、
「ダメ、ボツ、却下」
と言われて、別の服を選ばされた。怜は自分がおしゃれセンスの無い人間であることは自覚しているが、人前に出てそれなりに恥ずかしくない格好ができるくらいの良識があるとも思っていた。しかし、妹からのダメ出しの嵐の中で、自分に服装に関する常識があることを疑問に思わされた。ファッションショーは延々と続き、ついには着る服がなくなった。
「これじゃ、わたしの服でも着た方がマシだね」
怜は自分が女装したところを想像して胸を悪くしたが、どうやら妹も同じだったようで、自分の冗談であるにも関わらず、顔をしかめていた。
「しょうがないから、これとこれを着ていってもらうしかないわ!」
と言って選び出されたそれは、何の変哲も無いシャツとジーンズである。
「カッコつけてもしょうがないでしょ。あるがままの自分で勝負するしかないよ、お兄ちゃん」
怜としては何の勝負もする気は無いのだが、面倒くさいので、うなずいておいた。
妹が部屋を出ると、怜はホッと息をついて、勉強に戻った。つい先日あった模試は、自己採点の結果、大した成績ではないことが判明した。ちょっとは上がったみたいだけれど、劇的というわけではなく、目指すべきところからすると全く足りていない。これで本当に間に合うのだろうか、と思うが、塾の担当講師はよくやってくれているわけだし、こっちとしてもよくよく、こうして遊びに出かける日の朝まで勉強しているわけだから、これ以上はどうにもしようがないような気がした。あとはもう天命を待つしかない。もちろん、本試験のその日まで人事は尽くすつもりである。しかし、もしも、事がならなかったら、そうして、その公算が今のところ高いわけだけれど、もう諦めるよりほかない。そもそも、是が非でも、志望している高校に行きたいという気持ちはなく、昨年と比べて比較にならないほど勉強しているのは、全くの成り行きである。勉強することも成り行きであれば、その勉強がどのような実を結ぶのかも、成り行きということにしておいて構わないだろう。
そんな風に半ば投げやり、半ば正当な気持ちで勉強を続けていると、朝食の時間になった。パンとハムエッグとサラダで簡単に済ませて、食後のコーヒーを飲んでいたところで、環がやってきた。
「グッドタイミング」
出迎えた怜が言うと、
「グッドなのはタイミングだけですか?」
環が軽くポーズを取って見せた。
「あとで、いつもの倍褒めるよ」
と答えたところで、
「タマキ先輩!」
はしゃいだ声が上がって、一昔前の少女マンガのヒロインのように瞳に星の光をともした妹が、駆け寄ってきた。その気持ちの十分の一でもこちらに振り分けてくれたらいいのに、とは、怜は思わなかった。もうそんな期待はしていない。せめて、「どうしてタマキ先輩がお姉ちゃんじゃなかったんだろう、どうしてお兄ちゃんがお兄ちゃんだったんだろう」的なことを真面目に思い込んで、恨みに感じさえしてくれなければそれでいいと思ったが、こちらも期待薄かもしれなかった。
続いてあらわれた母に、環は、今日お世話になるお礼に、と手土産を手渡した。母は恐縮したようであり、これでは、どちらが大人なのか分からなかった。怜は、褒め言葉として、「今日もいつもに増して大人びているね」というのは、どうだろうかと、ちらと思ったけれど、思っただけにしておいた。女の子の気持ちなどはかるべくもないけれど、さすがにこの言葉が彼女の気持ちを暖めないだろうことは、想像に難くなかった。
挨拶を済ませた後、家族全員が車に乗り込んだ。車はワゴン車である。運転席に父、助手席に母、怜は最後尾に乗って、真ん中の席が女子二人ということになった。以前に出かけたときと、同じ配置である。
「レイくんもこっちに来て、3人でおしゃべりしませんか?」
環が何の気も無いような調子で言った。途端に、妹の目が、まるで十年ぶりに親の敵を見たときのような、よどんだ光を発して、こちらを見るのが分かった。怜は、後ろが好きなんだと答えて、妹の視線から目をそらした。
車が動き出すと、待ってましたと言わんばかりに、妹は、環と話し出した。この日のために取っておいた話題を次から次へと話し出す。よくもまあ、そんなに、話すことがあるもんだと、怜は感心したが、とはいえ、それほど聞いているわけでもなかった。普段の遊び疲れか勉強疲れか、今朝早く起きたためか、妹の声から逃れたいのか、そのあたりは判然としないけれども、車に揺られているうちに、眠くなってきた。自分一人がいなくても、環がいればこの家族は何の問題もないという悲しい真実を以前見定めた怜としては、安心して夢の世界に入ることができた。
「怜、寝ているの?」
それから、どのくらい経ったのか、母親の声で起こされると、目的地に到着したわけではなくて、途中にある道の駅でトイレ休憩するということだった。
怜は起きると、家族と一緒に車外に出た。
「よく眠ってたね」
環が笑いながら言った。
「いびきかいてなかったか?」
「大丈夫」
「寝言は?」
「全然」
「じゃあ、なにも責められることは無いな」
「いつも、何かしらでわたしが責めているみたい」
「違うのか?」
「心外です」
「誰も自分のことはよく分からないものだから」
何か環が言い返そうとしたときに、ちょっと前を歩いていた妹が、
「タマキ先輩、行きましょ!」
と兄から恋人を奪っていこうとしたので、環は、
「一つ貸しておくからね」
と言って、妹の元へと向かった。
ちょっとしたことを言うとすぐに借りになってしまうようなシステムがいつから構築されたのか、怜には覚えがなかったが、環の言うことに従うほか道はなかった。
怜は小用を済ませると、道の駅の中に入ってみた。特に買いたい物があったわけでもないけれど、固まった体を動かすための散歩である。このあたりの特産物として、野菜や肉がたくさん売っているようだった。隣には、カフェも併設されており、パンまで売っている。綺麗な建物は、まだ建設されて日が浅いようだった。
母は新鮮な野菜に心奪われているようであり、いくつか買っていくつもりらしかった。父もそれにくっついている。妹とカノジョは、特に野菜には興味が無いようで、陶器などを見ていた。そのあと、二人はソフトクリームを食べることにしたらしかった。怜はそれを横目にして、外に出た。気持ちの良い天気で、こうしているだけで気分が晴れ晴れとした。遊園地などという騒がしいところに行く人の気が知れなかったけれど、今さらそんなことを言ってもしかたない。子どもに遊園地というのは、そこまで間違っている取り合わせではないのだから、親を責めるわけにもいかなかった。
やがて戻ってきた家族と共に、怜は車に乗り込んだ。まだ時間がかかるらしいと聞いた怜は、再び夢の国を訪れることにした。