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プラトニクス  作者: coach
207/281

第207話:実力を試す一日

 その日、(レイ)は、塾へと行った。夏休みも、もう数日もすると終わりを迎える頃合いである。塾に行くのはいつものことだが、この日の塾がいつものものでなかったのは、模擬試験が予定されていたからだった。夏休みの勉強の成果を測る大切な試験という触れ込みであって、怜としても、可能な限りの準備をしたつもりだった。

 五教科の試験があり、朝から始まって、昼食まで取らされる。昼食は朝のうちに、自分でサンドイッチを作っておいた。母に邪険にされているわけではなく、自主的にそうしたのである。その日は土曜日だったので、父は休み、とすれば、母は朝寝ができるわけで、そんなときまで母を起こすに忍びなかったという孝行心からだった。

 夏の日が、ぐっと過ごしやすくなったとはいえ、まだうっすらと汗ばむほどの陽気の下を、怜は自転車をギコギコと漕いだ。とても「軽快に」とは言えない。気乗りしないので当たり前。塾について、中年の男性塾長に挨拶して席に着こうとすると、我がカノジョの姿が見えた。

「おはよう、レイくん」

「話しかけないでくれ、覚えた英単語を忘れるだろ」

「大丈夫だよ」

「何が?」

「明日になったら今日覚えたことの7割は忘れているっていう話だから」

 試験前から絶望を覚えた怜は、それでというわけでは全然無いが、間もなく始まった試験は、どうにもふにゃふにゃと手応えを得ないものだった。解けたんだか解けなかったんだか、よく分からない。解答をもらったので帰ってから答え合わせをすれば分かるが、どうにも、もう今日は勉強をしたくない気分である。一日分の頭は使ったと言うべきだろう。

「うちに来て、妹とその姉の相手をしてもらえると、恩に着ます」

 教室の外に出たときに、(タマキ)が言った。

「妹とその姉って、アサちゃんと(マドカ)ちゃん?」

「マドカは今日は出かけているので、彼女の姉です」

「それじゃあ、タマキ自身のことじゃないか?」

「そうはっきり言われると照れちゃうな」

 そう言って、環は、頬に手を当てた。恥ずかしがる彼女のその荷物を、怜は自転車のカゴに乗せた。雲が出てきており、朝より涼しくなっていた。

「一つ頼みがあるんだが、タマキ」

「一つでいいの?」

「一つだけど、大きな一つだぞ。キミのその細い肩じゃ、支えきれないかもしれない」

「ジムにでも行こうかな」

「ジムに行く代わりに、うちに来てくれないか? 愚妹がキミに会いたがってる」

(ミヤコ)ちゃんが?」

「オレばかりお前に会って、ずるいって騒いでるんだ。ストレスで胃に穴が開きそうだよ」

「どうしてわたしに?」

「それは本人に訊いてもらうのがいいけど、お前のことを崇拝しているんだろ」

「崇拝されるのっていいよね?」

「されたことがないから分からないな」

「わたしがしていると思うけど」

「じゃあ、何か供えてくれよ」

「祈りを捧げようかな。もっと、わたしに優しくしてくれますようにって」

「崇拝ってそういうのじゃないだろ」

 怜は歩きながら、気持ちが爽やかになるのを覚えた。模試を終えた後の開放感と涼しくなった空のせいに違いないと考えておく。それ以外の解釈はしないようにした。

「いつでも言って。ミヤコちゃんの都合がいいときに合わせるから」

「お前の都合がどうなんだよ」

「わたしはいつでもヒマだよ。だから、レイくんもいつでも誘ってくれていいよ」

「受験生がいつでもヒマなわけないだろう」

「人間は、生まれたときから余生なんじゃないかな」

「シェイクスピア?」

「だとしたら、レイくんが分かるはずでしょ」

「一字一句記憶しているわけじゃないからな」

「じゃあ、わたしの言葉として、記憶しておいて」

「了解」

「忘れないでよ」

「家に帰ったら、メモに書き付けておくさ」

 怜が言うと、環はクスリと笑った。

「どうかしたか?」

「思い出したの」

「何を?」

「昔のこと」

「嫌な予感がするんだけど、それは、オレがいた昔じゃないよな」

「ところが、その通りよ」

「やれやれ、じゃあ、罵ってくれていいよ」

「どうしてそうなるの?」

「どうせ、オレが覚えていないってことを言わせて、どうして覚えてないのかって責めるつもりだろう?」

「わたし、これまでそんなことしたことあった?」

「それ自体を覚えていないんじゃな。何度でも責められる理屈だ」

 怜は、前から歩いてきた、幼稚園くらいの子どもを連れた女性を避けるために立ち止まった。環もそれにならって、歩を休めた。女性が軽く頭を下げて通り過ぎたあと、怜は家路を再開した。

「それで?」

「小学五年生のバレンタインのあたりの時のことだよ」

 怜は少し考える振りをした。

「続けてくれ。詳細に」

「そんなに細かく伝えることは無いんだけど、たまたまスーパーで会ったときに、レイくんは、わたしの荷物を持ってくれたの」

「何でオレはスーパーにいたんだ?」

「誰にもバレンタインチョコをもらえないから自分で作るって言ってたよ」

「頭がクラクラしてきた。景気づけにチョコ食べたいよ。……まあ、オレにもそういう時があったのかもしれない。それから、キミの荷物を持ったと」

「うん。レイくんは昔から紳士だったね」

「キミは、昔から淑女だったのか?」

「モチロン」

「だと思ったよ。それから、オレたちはどうしたんだ?」

「百年の友情を結んだのよ」

「なるほど」

「友情を結ぶためには名前を伝える必要があるでしょ? わたしの『環』という名前をそのとき、レイくんに知らせたんだけど、レイくんは、『名前を書いた付箋を部屋中に貼り付けてでも今日中に覚えておくよ』って言ってくれたのよ」

「その頭には創世の伝説からの歴史が詰まっているんだろうな?」

「そんなに昔のことは知りません。せいぜいが、ここ十年くらいのものだよ」

 それでも、怜のメモリーより彼女のそれは大分容量が大きいようである。

「ところで、タマキ」

「なあに?」

「誤解しないで欲しいんだけど、別に他意がある話でもないことをちょっと尋ねたいんだけど」

「どうぞ」

「今日、お父さんは家にいるのかな?」

「レイくん」

「他意は無いって言ったじゃないか」

「一応、わたしの父だということを考えていただかなければ困ります」

「もちろん考えているよ」

「本当に?」

「ああ」

「だったら、もしも『父はいます』と言っても、来てくれるでしょう?」

「善処するよ」

 環は、すっと息を吸うと、

「今日は仕事に行っているよ」

 と答えた。

「……タマキ」

「はい?」

「お前、時々性格悪いって言われないか?」

「レイくんとお付き合いさせてもらうようになってから、言われるようになったかな」

「オレのせいか?」

「そうなっちゃうのかな。だって、そもそもそれを言うのが、レイくんなんだもの」

「じゃあ、全面的にオレのせいだ」

 怜は男らしく認めた。

 しばらくすると、環の家が見えてきた。門前にたたずむ小さな影があって、こちらを認めるやいなや、疾風のように駆け寄ってきた。

「レイ!」

 肩を覆う豊かな黒髪をなびかせて現われた(アサヒ)は、キラキラとした目を怜に向けてきた。

「何もプレゼントを持ってこなかった自分を呪うよ」

 怜が隣のカノジョに言うと、耳ざとく聞いていた旭は、

「レイが来てくれればそれでいいよ!」

 と明るい声を上げた。怜は、危うく落涙しそうになった。

「日頃、虐げられてるからさ」

 もう一度カノジョに言うと、環はその細い眉を片方、上げるようにした。

「レイ、神様って本当にいるんだね!」

「どうして?」

「だって、今日またレイが来てくれますようにってお願いしていたんだもん!」

 怜は、旭こそ天の使いか何かではないかと思った。

「うちに寄ってくれるんだよね、レイ? タマキお姉ちゃんを送ってきただけだなんて言わないよね?」

 旭はうるうるとした瞳で怜を見た。この攻撃に勝てる男は果たしているのだろうかと怜は思った。もちろん、怜は惨敗である。

「寄らせてもらうよ」

「やったあ! アサヒが、ジュース出してあげる!」

 そう言うと、旭は、早く早くと言いながら、先に立った。

「何も言うなよ、タマキ」

「わたしが?」

 旭の案内で、怜は環と一緒に家に入らせてもらった。リビングにいた環の母親に挨拶して、突然の訪問を詫びると、約束通り、旭はジュースを出してくれた。喉を潤してから、怜は、旭の相手をして、2時間ほどを過ごした。自分が来たことを心から喜んでくれている様子を惜しげなく見せてくれる子と過ごしていると、今日の試験の出来などどうでもよくなってきた。もちろん、どうでもよくはないのだけれど、どうでもいいと思ってもどうでもよくないと思っても、やることは変わらないのだから、どちらでも何の問題も無いとも言えた。

 旭の、

「もっといてよ! レイ!」

 という声をやんわりと振り払う格好で、怜は、環の家を後にすることにした。玄関先で手を振る旭に手を振り返した怜は、環に門前まで送ってもらった。

「例の約束のこと、よろしく頼むな」

「はい。いつでも大丈夫だよ」

「よかった。これで、妹に対して兄の面目が立つよ」

「ミヤコちゃんは、きっと、レイくんを誤解しているんだよ」

「かもしれないが、もしも、この先一生誤解が続けば、それはあいつにとっては正解と何の変わりもない」

「レイくんのアピールしましょうか?」

「あんまりいい結果にはなりそうにないな。人は見たいものを見るもんだ。ミヤコのことはミヤコに任せるしかないし、それに、別にミヤコにどう思われようと、オレは特に気にしない」

「それって、ちょっと寂しいことじゃないかな?」

「まったく寂しくない」

「たった一人の妹さんだよ」

「数は関係ない。たとえ百人妹がいたとしても、一人一人の価値が百分の一になるわけじゃないし、逆もまたしかりだ」

「さりげなくするくらいなら許してくれるでしょう?」

「たとえば?」

「『お兄さんのことを尊敬しなさい。そうしないと、絶交です』って、人差し指を突きつける」

「まず間違いなく、オレの差し金だと思われて、オレの評価は地に落ちるどころか、地下6フィートまでめり込むよ」

「じゃあ、大人しくてしていることにします」

「そうしてくれ」

 門を出た怜は、環にここまででいいことを伝えた。

「自転車だからな」

「その自転車の後ろに乗ってもいい?」

「二人乗りは法律違反だ」

「二人の間に法律が立ちはだかるなんてロマンチックじゃない?」

 立ちはだかるというか、自分のことを守ってくれているのではないかと怜は思ったが、彼女の言葉に対して、重々しくうなずいておいた。

 怜は、自転車にまたがって、走り出してから、曲がり角のところで止まった。

 環は、まるでそこで怜が立ち止まって振り返ることが分かっていたかのように、自然な様子で手を振ってきた。

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