第206話:更けゆき老けゆく日々
やまない雨は無い。雨はいつか必ずやんで、空には綺麗な虹が現われる。なるほど、それが本当だとしても、いつやむのかが大事なところである。人生ずっと土砂降りで、晩年になってようやく虹を見られたとしても、オーバーザレインボウをやる体力が残っていないのであれば、あんまり意味ない。
更紗は、雲一つ無い青空を見上げながら、空調の効いた部屋のベッドの上で寝転んで、ため息をついた。限りあるティーネイジの日々を空費することの切なさたるや、筆舌に尽くしがたいものがある。それもこれも自分のせいなのだけれど、それほど大したことをしたわけでもないという頭がある。ちょっと意見を言っただけなのに……。だが、それを言っても詮無いことだ。仮に自分が悪くなかったとしても、現状が悪いのだから、どうしようもない。
「あー、もう!」
更紗は、ベッドにゴロゴロしながら、煩悶した。恋がうまく行かない苦しみは、少女コミックで読む分には楽しかったけれど、いざ自分がそれを実地でやってみると、楽しくもなんともなかった。
更紗には好きな子がいるわけだが、現在、その彼との仲は全くこじれてしまっており、そのこじれ具合たるや、子どもが紐靴の紐を固結びしたほどであって、容易にほどける様相ではなかった。その紐をなんとかほどくために、友人や、知り合いの男子を利用して、ちょこちょこと画策したけれど、ことごとく失敗した。万策尽きたと言うべきであり、あとは、
――……玉砕覚悟で告白するか……。
というくらいしかないのだが、それをやって先の大戦で日本が負けたことを考えると、どうにもその気にはなれなかった。とはいえ、他に何をどうすることもできない。これが、まだ1年生や2年生ならまだチャンスはある。時間があるからだ。3年生ではもう絶望的である。しかも、今は3年の夏休み。中学校生活は、もう半年しか残されていない。もっとも、そもそも、更紗が好きになった男子は、夏休み前に転校してきたわけであって、彼と過ごせる時間はもともと限定されていたわけだけれど。
ドアにノックの音がした。
「はい?」
更紗は不機嫌な声を上げた。どうせお母さんが、娘がちゃんと勉強しているのかどうか、その見回りに来たんだと思ったのである。勉強なんてしている場合ではない。乙女としての生きるか死ぬかの瀬戸際に、勉強なんて! 勉強してカレシができるなら、いくらでもしてやるけど、そうでないなら願い下げである。
「サラサ、入るよ」
しかし、聞こえてきたのは、母よりも随分と若い声だった。部屋に入ってきたのは、友人である。眼鏡をかけた、更紗が所属している部の部長だった。
「何の用?」
更紗はベッドから身を起こして尋ねた。
「何の用って……ひどいな、サラサが呼んだんじゃん」
「そうだったっけ?」
「そうだよ」
スマホの確認をしてみると、確かにSNSを通じて、彼女とのやり取りがあった。昨日の晩、送信していて、
「明日来てくれなかったら、明後日わたしと会えるか分からないよ!」
などという、何やら脅迫めいたことが書かれてあった。
「なんでこんなこと書いたんだろう」
「こっちが聞きたいよ」
「夜は人をロマンチックにするからね」
「ペシミスチックの間違いでしょ」
「ペシミ……なに?」
「悲観的ってこと」
「そんな難しげな言葉知っているなんて、さすが、その眼鏡はダテじゃないね」
「これはダテじゃないよ。ちゃんとレンズに度は入ってるからね」
「まあ、立ち話もなんだから座ったら」
「ありがとう」
とんとんと階段を上がる音がして、「サラサ」と外から声がかかった。今後こそ母である。お菓子を持ってきてくれたらしい。ベッドから降りた更紗は、ドアを開いて、それを受け取った。母は、
「ゆっくりしていってね、杏子ちゃん」
と友人に愛想のいい声を与えた。
「ありがとうございます」
答えた杏子の前にある足の短いテーブルの上に、更紗は、紅茶とクッキーを置いた。そのあと、自分もテーブルに着くと、
「それで?」
と訊いた。
「それでって……?」
きょとんとした顔で訊き返してくる友人に、
「何かわたしのテンションを上げてくれる話を持ってきてくれたんでしょ?」
当然に訊いてやると、
「えっ……そんなの無いけど」
などという言葉が返ってきた。
「ないっ!?」
更紗の声は裏返った。
「ないよ」と杏子。
「ないの?」
「うん」
「まったく?」
「全く」
「ゼロ? ナッシング?」
「うん」
「……なんでうちに来たの?」
「だから、サラサが呼んだんでしょ」
やれやれ、と更紗は、ため息をついた。
「ねえ、メガネちゃん」
「誰がメガネちゃんよ!」
「普通さ、人の家に招かれたら、何かお土産を持ってくるものでしょう。その人の喜びそうなものをさ」
「そんなこと言われても、どうすればいいのよ」
「そんなの自分で考えてよ。そのメガネがダテじゃないっていうならさ。そのメガネにかけて、いや、そのメガネ『を』かけて、考えてよ。親友のわたしのために!」
「メガネはもうかけてるよ……じゃあ、一つ言うけど――」
「なになに?」
更紗はテーブルから身を乗り出した。
「ヒカルくんのことは、ちょっと長いスパンで考えたらいいんじゃないの」
「オーノー!」
更紗は、ムンクの叫びの絵のように、両手で頬を抑えた。
「何が、長いスパンよ! あんたのそのふっくらしたほっぺたをスパンキングしてやりたいわ! 中学校生活はあと半年しかないんだよ!」
「そうかもしれないけど、ただ、今いろいろするのは、逆効果なんじゃないかなって」
「今ここ! 明日のわたしに頼ることなんてできないの! 明日のわたしが今日のわたしと同じように、ヒカルくんのことを好きかどうか分からないでしょ!」
「その理屈で行くと、明日のサラサは、塩崎くんのこと嫌いになっているかもしれないんだから、明日のサラサに任せれば、問題はもう解決しちゃっているじゃん」
「明日のわたしのことなんて、今のわたしには関係ないでしょ!」
「……紅茶飲んでいい?」
「召し上がれ!」
友人は、ほわほわと湯気を上げる紅茶をすすった。「告白はしないんでしょ?」
「アンコは告白を舐めてない?」
「どういうこと?」
「誰でも簡単に告白できるみたいな、そんな風に思っているんでしょ?」
「そんなこと――」
「思ってなきゃ、気楽に、『告白しないの?』なんて、訊くわけないじゃん!」
「気楽に言ってるわけじゃないよ。それが、現実的に考えてさ――」
「現実って言うなら、男子はね、一度断った女の子の告白をもう一度受けることはないんだよ、なんでか分かる?」
「分から――」
「分からないよね!」
「ちょ、ちょっと、こっちの発言にかぶせてくるのやめてよ」
「男の子っていうのは、理性的な生き物だから、一度告白を断ると、もしもそのとき断った理由が大したことなくても、あとから、ちゃんとした理由を考え出すのよ。『断ったんだから、なにかちゃんとした理由があったはずだ』ってね。だから、リトライは無いの。チャンスは一度きりなのよ。その一度きりのチャンスにアンコは、何の勝算もなく賭けろって言うなんて、そんなのある!?」
「それだけ男子のことが分かってるなら、うまくやれそうな気もするけど……」
「男子一般のことが分かっても、ヒカルくん個人のことは分からないんだよ!」
「うーん、理屈になっているような、なっていないような……」
そう言って、杏子は押し黙った。
更紗は、そんな友人が何かを言ってくれるものと期待していたが、いつまで待っても……と言っても、3分くらいのものだが、天からの啓示は降ってこなかった。
「はあっ……親友にも見放されるなんて、絶望だわ。生きている甲斐がない……」
「ちょ、ちょっと、サラサ、なんか危ないこと言わないでよ。本気にするでしょ」
「だったら、アンコもわたしの恋に本気になってよ!」
「本気にはなっているよ、だから、こうして来たんでしょ? ……他の子は呼んでないの?」
「さあ……そもそも、アンコを呼んだことさえ忘れていたからね」
「それが親友の扱いなの?」
「親しき仲には礼儀無し」
「『有り』だよ、『有り』!」
「礼儀正しくしたら名案をくれるって言うなら、いくらでも、礼儀正しくしてあげるでござるよ、アンコ殿!」
杏子は、じっと考え込んでいた。その眼鏡の奥の瞳は怜悧に光っているように、更紗には見えた。これは期待できそうだと思ったのも束の間、
「……思い浮かばないなあ」
がっくりと肩を落とす羽目になった。
「なんにも?」
「なんにも」
「……絶望だ……もうおしまいだよ……」
「ねえ、サラサ」
「なに? 半端ななぐさめならやめてよね」
「もし、わたしだったらっていう仮定をしてもいい?」
「え、なにが?」
「もし、わたしがサラサの立場で、塩崎くんが好きだとしたら――」
「アンコ、ヒカルくんのことが好きなの!?」
「仮の話だよ」
「仮の話でも許せない!」
「じゃあ、話しようがないじゃん」
「誰か別の男子を好きな設定にして」
「……じゃあ、誰か別の男子が好きで、わたしが、その子に告白できないとしたらね」
「どうするの、アンコなら?」
「……やっぱり、告白するかな」
「ああん?」
更紗は、ヤンチャな男の子が、ガンを飛ばすときのような、ねじれた顔つきを作った。
「サラサ、その顔怖いよ」
「怖いのはこっちだよ! これまでの話なんにも聞いてなかったのかと思うと、心から恐怖を覚えるよ! 告白できないっていうのが前提なんだから、どうして、告白するって話になるのよ! 論理的におかしいでしょ!」
「論理のことなんか考えているときじゃないんじゃないの?」
「え?」
「だって、もしも、塩崎くんが、今日にでも他の女の子に告白されたらどうするの? それで、塩崎くんが受け入れたら? そうしたらさ、ゲームオーバー、サラサには、もう戦うことすらできなくなるじゃん」
更紗は考えた。もしも、杏子の言うとおりだとしたら、それは身を切り裂かれるように苦しいことだろう――身を切り裂かれたことなんてないけど。それでも、だからといって告白すればどうなるのか。二度目のチャンスは無いのだ。もしも、先着順で、先に告白すれば受け入れてもらえるのであれば、今からでもしにいくけれど、そんなことにはならないのだから、どうすることもできなかった。
「残念だけど、アンコ……その案は却下」
そう言うと、更紗は、お茶請けのクッキーに手を伸ばした。
今日もまた何事も無く、二つの意味で、空しくふけていきそうだった。