第205話:貸しは即返してもらわなければならない
バスを降りると、何の加減か、日が少し強くなったような気がした。肌にじりりと感じるものがある。駅にいたときと比べて、多少なりとも時間が経過したからだろうか、あるいは、地理的な関係、あるいはもしかしたら、
「行こう、レイ! タマキお姉ちゃん!」
旭を初めとした、博物館を訪れた子どもたちの熱気のせいかもしれなかった。
怜は、駆け出した旭を小走りで追いかけたけれど、少女は、博物館の外門をくぐって芝生になった敷地を踏んだところで、足を止めた。
「レイ、見てっ!」
旭に歓声を上げさせたのは、大型恐竜の像だった。首の長い草食恐竜と、牙をひけらかした肉食恐竜が隣り合って、並んでいる。この博物館は、恐竜のための博物館というわけではないので、今回の恐竜展に合わせて、特別に作ったものだろう。バスから降りた乗客たちは、早速、パシャパシャとカメラやスマホで写真を撮っていた。怜も、デジカメで旭と恐竜のツーショットを撮ってやった。そのあと、
「みんなで撮ろう!」
と旭が言うので、怜は、写真を撮り終えて博物館内に入ろうとしているカップルを一組捕まえて、写真を撮ることをお願いした。
「ハイ、チーズ」
カップルの男性の方が快く応じてくれて、記念写真を終えると、怜は彼氏さんに礼を言ったあとに、旭と環を伴った館内に入った。
「いらっしゃいませ」
受付の女性は、綺麗な白い歯を見せて、応対してくれた。
「中学生二人と、小学生一人でお願いします!」
頬を上気させて言う旭に対して、受付彼女は、
「お兄ちゃんとお姉ちゃんと一緒に来たのね、良かったね」
愛想良く声をかけた。
「うーんとね、タマキお姉ちゃんは、わたしのお姉ちゃんだけど、レイは、お姉ちゃんのカレシなの。だから、わたしの本当のお兄ちゃんじゃないけど、でも、お姉ちゃんと結婚したら、お兄ちゃんになるから、そうなって欲しいなって思ってます!」
旭は、胸を張るようにして、声も張った。受付の女性はクスクスと笑い、それは周囲の人も同じだった。
「そうなってくれるといいわね」
「うん!」
お金を払った怜は、チケットを受け取ると、得意げな顔をこちらに向けている旭を見た。
「ありがとう、アサちゃん」
「どういたしまして!」
怜は環の方をちらりとだけ見た。そこには、いつものような微笑があった。
中へ入ると、中生代が広がっていた。かつて地上を我が物にしていた古の生物の標本や化石が、所狭しと並んでいる。耐水や耐風を考えなくてよいせいか、外の物のそれよりも精巧な作りは、本当に生きているかのようだった。旭は、ひっきりなしに歓声を上げては、それぞれの恐竜の前に行って、その威容を見上げながら、そこに記された説明文を、怜に読むようにせがんだ。
怜は一つ一つ読んでやった。旭は、ただ恐竜を感じるだけではなく、それが何なのかを知りたがっているようだった。順路の途中にあった特設のスクリーンには、地球の誕生から、生物が生まれ、恐竜が繁栄し、やがて滅びるまでの、ショートムービーが流れていた。20分ほどのそれは、怜たちが通りかかったときには、半ばが過ぎていたので、一度途中から見たあとに、旭の希望で、もう一度最初から見ることになった。
ムービーが終わると、VRを使って中生代を3D体験することができるコーナーや、化石の発掘を疑似体験できるコーナーなどを見て回って、そのたびに、旭はきゃあきゃあと歓声を上げていた。
休憩スペースで、ちょっと休みを取った後、再び、恐竜の世界を満喫すること、しばらくすると、来館からすでにおよそ2時間ほど経過しており、もうすぐ1時になりそうだった。
「お腹空いたあ」
旭の声は怜の声でもあった。
博物館を出た怜は、そこからほど近いところにある回転寿司店へと旭と環を連れて行った。コース料理を期待していられたら謝るしかない怜だったが、
「お寿司だあ!」
旭の歓声を聞けたのでホッとした。これで少なくとも、同行している女性の半分には叱られずに済むわけだ。
回転寿司店は、昼時であるので混雑していたが、回転率が良いのか、あまり待たずに席を取ることができた。
旭は、慣れているのか、タッチパネルを操作して、次々に食べたいネタをピックアウトしていった。
「アサちゃん、ゆっくり噛んで食べないとダメよ」
おそらくは姉のその言葉にいつもは従っているであろう彼女も、よほどお腹が空いているのか、あまり言いつけを守らず、どんどんと食べていった。
「美味しい」
妹よりは随分控えめではあるけれど、環も、そう言いながら食べていた。確かに、仕入れの関係なのか、チェーン店であるにも関わらず、以前行ったことがある同じチェーンの店よりもネタが新鮮な気がした。
テーブルの脇に寿司を食べ終えた皿を入れるスロットがあって、そこに皿を何枚か入れると、ゲームができるようになっていた。そのゲームしたさもあって、旭は、もぐもぐと食べては、お皿をスロットに放り込んでいた。
「ああ、お腹いっぱいっ!」
1時間後、旭は満足げに言った。次から次へと食べているように見えたけれど、そこは小学1年生、それほどの数ではなかったようだ。怜と環の分を合わせても、25枚程度だろう。
「タマキ、店を出る前にアサちゃんの手を洗ってあげたらどうだ?」
怜の言葉に環はうなずくと妹を連れて、手洗いへと行った。怜は、その間に、店員を呼んで精算をしてもらい、レジで支払いを済ませた。少しして、旭と一緒にやってきた環は、
「ご馳走様です」
と微笑を見せた。
お腹いっぱいの状態で回転寿司店を出て、博物館前のバス停まで戻ると、同じように、バスで来たであろう人たちが列を作っていた。怜は、旭と環と一緒に、その列の最後に並んだ。やがてバスが来た。乗り込んだところ、なんとか一席だけ取ることができたところに、怜は、旭を座らせた。
再び15分ほどかけて駅まで戻る。電車の発車まではまだ時間があるので、環はお土産を見たいと言った。
「アサちゃんは、オレが見ているよ」
「ありがとう」
怜は、旭と一緒に、構内に作り付けられたソファに腰を下ろした。
「レイ」
「どうしたの?」
「またどっか一緒に行こうよ。お姉ちゃんとわたしと三人で」
「いいよ」
「やったあ!」
これからさらに勉強で忙しくなるとはいえ、たまの息抜きくらいはしても構わないだろうと怜は思った。構わなくないかもしれないが、構わないということに決めた。
少しして、環は帰ってきた。やけにたくさん紙袋を提げているなと思ったら、
「こっちはレイくんの分よ」
と差し出してきた。
怜はありがたく、その紙袋を受け取った。家族のためにお土産を買うという発想は、現にさっき環がそうすると聞いたあとでさえ、全く無かったのだった。
「お姉ちゃん、お菓子食べていい?」と旭。
「いいけど、もうすぐ電車が出るから、電車に乗ってからにしようね」
「うん!」
三人は切符を買って、改札を抜けた。プラットフォームには、ダイヤ通りに電車が入って、怜たちを乗せてくれた。
行きのときに買ったお菓子を、旭は食べ始めた。
「はい、レイ、お姉ちゃん、あげる」
怜は、チョコレート菓子のお相伴にあずかった。旭は、それを食べると、また来たときと同じように、うとうとし始めて、そのうちに寝息を立て始めた。怜は、そっと少女の体を抱くようにして、誤って窓の方へと頭を倒さないように気をつけた。
「本当にありがとう、レイくん」
「そんなに大したことをしているわけじゃないから、気にするな」
「何かお返しできるといいけど」
「いいよ。貸したり返したりってことを考えるのは苦手なんだ」
「じゃあ、わたしが代わりに考えようか?」
「いや、そんなこと考えなくていい。どうせ考えるなら、もっと、有益なことを考えたらどうだ?」
「日本経済の行方とか?」
「そんなことを考えるなら、考えるだけにしておいてくれよ。決して、オレに話を振らないでくれ」
「経済の話なんて考えるならともかく、話すならそんなに難しいものじゃないと思うわ」
「どういうことだよ? 話すのだって難しいだろ」
「そんなことないわ。だって、先行きはあまり楽観できないって言っておけば済むでしょ」
なるほど彼女の言うとおりだった。そうして、それは、経済だけのことではなく、あらゆることに通じることであるように思われた。世の中に楽観できることは多くはないのだ。
電車は、時間通りに到着した。世界には時間通りに到着しない電車もあるということだけれど、そういう世界では、あらゆるものが時間通りにはいかないのだろう。電車が時間通りじゃないのだから、まず間違いなく、学校の授業なんてのも時間通りになんか始まらない。そういう世界では、何人か適当な人数が集まったときに授業を開始するのかもしれない。遅刻なんてものもないのだろう。
「着いたよ、アサちゃん」
怜が、少女の体を軽くタップしながら、声をかけると、彼女は、「うーん……」とグズるようにした。
「レイ、歩けない……おんぶして」
「アサヒ」
姉が注意の言葉を与えたが、少女は意に介さなかった。
怜は、快く少女の願いを受けた。
「いいけど、でも、電車を降りてからね」
「うん!」
旭はとても歩けないとは思えないほどしっかりとした足取りで電車を降りると、怜に向かって、両手を広げた。怜は自分の斜めがけの鞄を体の前に回して、背中を旭に向けて、腰を下ろした。少女がしっかりとしがみついてくるのを感じると、怜は彼女を背負って歩き出した。隣には、妹のリュックと、お土産を入れた買い物袋を持った環がついた。自動改札を抜ける代わりに駅員に切符を見てもらって、そのまま構内を出ると、まだ夏の日は高かった。
「迎えが来ているから、レイくんも、お家まで送らせてね」と環。
「いや、オレはいい、歩いて帰る」
「大丈夫よ、父はまだ仕事だから」
「何か誤解があるようだな」
「誤解はしていないと思うよ。遠慮しないで。母も一言お礼を申し上げたいって言ってるし」
それならということで、怜はお言葉に甘えさせてもらうことにした。あまり固辞するのも格好がいいものではない。乗降スペースに行くと、そこに停まっているゆったりとした乗用車から、一人の女性が降りてきて、怜を見て会釈した。彼女は近づいてくると、怜の背を見た。
「ごめんなさいね、加藤くん。そんなことまでさせて」
「いえ、眠ってしまったみたいなので」
怜がそう言うと、「グーグー」というわざとらしい寝息が上がった。
「眠り姫を預かるわ」
環の母がそう言って、背から娘を取ろうとした瞬間に、当の少女が、
「ああ、よく寝たあ」
と今起きた振りをした。
環の母は、助手席に環を乗せて、後ろに怜と旭を乗せた。
「本当にありがとうね、加藤くん。娘の面倒を二人も見せてしまって」
「いえ、すごく楽しかったです」
「旭、ちゃんと怜お兄ちゃんにお礼言ったの?」
「今から言おうと思ってたの。ありがとう、レイ!」
「どういたしまして」
環の母の車は、仕事から帰る車の波に飲まれるようにしながら、走った。
家の前で降ろしてもらうと、車から降りた環が、怜の分のお土産を渡してくれた。
「一日ありがとう、レイくん」
「こちらこそ、楽しかったよ」
「さっきも言ったけど、何かできることがあったら言ってね」
「了解」
「きっとよ」
環が助手席に戻ると、後部座席の窓が開いて、
「またねー、レイ!」
旭が手を振ってきた。手を振り返して環の母の車を見送ると、怜は、家に入った。母に帰ってきた報告をしようとリビングに向かおうとすると、それよりも前に、妹の出迎えを受けた。兄を出迎えてくれるような殊勝な妹でないことは分かっているので、何事かと思った怜だったが、
「お兄ちゃんだけズルいじゃん! この前のお祖父ちゃんの家だけじゃなくて、またタマキ先輩とどっか出かけてさ! わたしだって、タマキ先輩と出かけたい!」
ということだった。
怜は早速に、環に対して頼むことができたことを認めた。