第203話:よっぽどのことが無い限り人は変わらない
気持ちの良い朝だった。昨日までの暑さがすっきりと拭われていて、秋の気配さえ感じる。絶好のお出かけ日和だった。ベッドから起き上がって窓から外を見た宏人は、よし、と気合いを入れた。普段気合いを入れない彼がそうしたのは、今日がデートの日だからである。デートというと語弊があるかもしれない。ただ、女友達と遊びに出かけるだけなのだから。しかし、気分は確実にデートのそれである。ただし、宏人は、正式なデートをしたことがないので、気分と言っても、想像上のそれではあるが。
デート場所は水族館だった。電車とバスを乗り継いで行くことになって、ちょっとした遠出になるけれど、それだけ気合いを入れたということである。水族館のすぐそばには海があって、波打ち際を歩くこともできた。もしもそんなところを一緒に歩いたら、いかにもデートっぽいことになるが、どうだろうか。遊園地でも良かったのだけれど、近くにある遊園地は以前に、グループデートで一緒になったときに当のデート相手の彼女と、トラブっており、縁起が悪いのでやめた。
母に作ってもらって、朝食を済ませると、宏人は今日のためにおろした、真新しいシャツとジーンズを身につけた。ここまですると、やり過ぎの感はいなめないけれど、もしも本当の初デートだとしたら、おそらくはそこまでするだろうから、それほどやり過ぎというわけでもないだろうと考えておいた。
「そんな格好して、どこ行くの?」
いざ玄関から出かけようとしたときに、宏人は、後ろから声をかけられた。振り返ると、華麗に寝乱れた姿の我が姉が、仁王立ちしている。その目は爛々と輝いて……はいなかったが、いつでも輝かせることができる妖しい雰囲気に満ちていた。宏人は、一応抵抗してみた。
「いちいち、姉貴に、自分の行動を知らせなけりゃいけないのかよ」
「それで?」
「……藤沢と遊びに行くんだよ」
すぐに観念した宏人は、嘘をついた。すると、姉は、パアッと顔を明るくして、
「シホちゃんと、デートなんだ。なによ、それならそうと、はっきり言いなさいよ!」
声を高くした。この嘘に関しては、すでに志保には、根回し済みだった。志保ならぬ女の子と遊びに行くなんてことを言ったら、姉の怒りの業火に焼き尽くされることだろう。友人の妹を夏祭りにエスコートしただけで、相当な不興を買ったのだ。それにしても、どうして志保以外の相手と出かけることに対して鬼面を向けるのか。理由はただ一つである。宏人は玄関を出て、夏空の下、少し歩いたあとに、
「姉貴は、お前のことを妹にしたがっているみたいだぞ」
と、志保に電話をかけた。
「ねえ、倉木くん」
「なんだよ」
「つまんない用件で、朝から電話掛けてくるのやめてくんない?」
「嫌だね」
「え、なに?」
「嫌だって言ったんだよ。オレは、オレが好きなときに、お前に電話を掛ける。で、お前は、すぐに電話に出る」
「なに、そのゲーム」
「楽しいだろ?」
「楽しくないっていう点を除けば、楽しいね。……で、なんだって?」
「だから、姉貴がお前を妹にしたいようなんだって」
「先輩がお姉さんだったら、鼻血出そう」
「何の鼻血だよ。とにかく、姉貴の中では、オレとお前が結婚に至るストーリーが出来上がってるんだから、それが嫌だったら、お前から、オレのことをこっぴどく振ってくれよな」
「他の女と遊びに行くなんて最低! 人間のクズ! 死ねばいいのに! もう別れるから! ……こんなんでいいの?」
「……耳がキンキンした。今言ってどうすんだよ。そういう内容を……いや、ちょっと待て! そんなことを姉貴に伝えられたら、ボコボコにされるよ!」
「じゃあ、どうするの?」
「なんかお前に別に好きな男ができたとか、そういう風にしておいてくれよ」
「倉木くんがボコボコにされて、鼻血出しているところを見るの、面白いかも」
「何も面白くない。もう一度念を押しておくけど、姉貴から電話なりメールなりが行くかもしれないから、頼むぞ」
「はいはい、行くの、水族館だったよね? 海老とか蟹とか食べられて、すごく楽しかったです、って、先輩には適当に伝えとくから」
「適当すぎだろ! それじゃ、海鮮料理の店じゃねえか!」
「あ、倉木くんと別れる理由、『海鮮料理の店に連れて行ってくれなかったから』っていうのは、どうかな? いいと思わない?」
「それはそれで、姉貴にボコられそうな気がする」
「めんどくさいから、もう切るね」
「オレがめんどくさい男みたいに聞こえるけど、気のせいだよな」
「残念ながら、その通りよ」
ピッと切られたスマホを背中に斜めにかけるタイプの鞄にしまった宏人は、立ち止まっていた街路樹の陰から出ると、駅に向かって歩き出した。そうして、志保と他愛ないことを話したことによってリラックスした自分を感じた。もちろん、それを志保に言う気は無かった。
待ち合わせの駅に到着すると、時計台の下に、二人の少女の姿を見た。そのうちの一人が、瑛子だった。宏人は時刻を確認した。待ち合わせ時間より10分前である。
「遅れてごめん」
宏人は礼儀を通した。
瑛子はにっこりと微笑むと、わたしが早く来ただけだから、と礼儀を返してくれた。
宏人は、瑛子の膝丈ほどのワンピース姿にドキリとしたけれど、「可愛いね」とか、「綺麗だね」とか、「結婚しよう!」などの、褒め言葉をかけられるほどの甲斐性が無い自分を感じた。
まだ発車時刻には時間があるが、時計台の下でたたずんでいてもしょうがないので、駅構内に入ることにした。お盆期間が過ぎたので、構内は空いていた。
宏人は最初から楽しい話題を提供して場を和ませ、ロケットスタートを切りたかったが、話そうと思っていたことも、いざ彼女を前にすると、口から全然出て来なかった。ロケットスタートを切るどころか、エンストしたわけである。
口を開きかけては閉じるという金魚が空気を求めるような運動をする少年に対して、瑛子は優しかった。電車を待っている時間が過ぎて、やがて電車があらわれ、向こうの駅に着き、そこからバスに乗って、水族館に着くまでの間も、始終、彼女から話題を振ってくれた。立派に彼女をエスコートしなければならぬ、という気持ちは、水族館に到着したとき、宏人からあとかたもなく消えていた。すでに勝負はついていた。後は野となれ山となれだ。そう開き直ると、多少は、口もスムーズになったようで、いくらか自分から話しかけることができた。うっかり声を大きくしてしまって、水族館のひそやかな雰囲気を壊してしまったり、見当外れなことを言ってしまったりしたが、瑛子はやはり楽しそうな顔をしていた。
いったん館を出ると、ショープールがあった。ここで、イルカのショーが行われることは調査済みである。宏人が誘うと、瑛子は、夏空の下で、ひまわりのような大きな笑顔を見せた。ショープールの客席について、やがて始まったイルカのショーを見ていると、他の客とともに、瑛子は歓声を上げた。
その様子を見ながら、宏人は、不思議な気持ちになった。もしもかつて、こうした機会を瑛子と得たとしたら、この帰り道にでも、自分は彼女に告白しているんじゃないかという妙な想像をした。その方が良かったのか、悪かったのか、それは、今の自分には分からない。状況は変わってしまったのである。もちろん、これからどうなるのかも分からないことだけれど。
フードコートで昼食を取ったあとは、別館に移り、ペンギンを見た。ちょこちょこと歩く愛らしい海獣に、瑛子は、やはり喜色を浮かべていた。
見るべきものを見て、夏の日はまだまだ高いけれど、他にすべきこともなく、お土産を買った後に、帰ることになった。
「ありがとう、倉木くん。今日一日、すごく楽しかったよ」
我が町の駅に戻ってくると、瑛子は、言葉通り楽しそうな顔をした。
「オレもちゃんとエスコートできるだろ?」
宏人がおどけた振りをすると、瑛子はクスクス笑った。本当に、これがデートではないのが不思議だと宏人は思った。
宏人は家まで送ることを申し出たけれど、迎えを呼んでいるからと、断られた。
「今度は、わたしから誘ってもいい?」
別れ際に瑛子は言うと、宏人が答えようとする前に、
「あっ、でも、倉木くんは色々と忙しそうだから、わたしから誘われたら、迷惑だよね」
と言って、しょんぼりとした振りをした。
宏人は反射的に答えた。「そんなことないよ。もうヒマでヒマでしょうがないくらいだから」
「本当?」
「ホント、ホント。暇だったら、売るほど、持っているよ」
「じゃあ、今度、少し買わせてもらおうかな。でも、あんまり高くしないでね」
「お手頃価格にしとくよ」
「よかった。じゃあ、もうすぐ来ると思うから、またね」
そう言うと、瑛子は、駅前の車やタクシーの乗降スペースへと歩いて行った。
宏人はそれを見送ったあと、帰路を取った。
「それで? どうだったの、デートは?」
少ししてからかかってきた電話に出ると、志保からのものだった。
「お前、オレのこと見張っているのか? 盗聴器でもしかけているんじゃないよな」
「バカね。もしも今もデート中だったら、わたしからの電話を取るわけないでしょ。取ったってことは、デートが終わっているっていうことじゃない」
「それにしたって、タイミング良すぎるだろ」
「そんなことはわたしのせいじゃないでしょ」
「じゃあ、オレのせいか?」
「強いて言えばそうなるわね」
「なんねーだろ」
「それで?」
「……別に。普通に、深海の奇妙な生物とか、イルカとか、クジラとか見てきただけだよ。今度一緒に行くか?」
「気が向いたらね。二甁さんの機嫌、損ねなかったでしょうね?」
「なんだよ。オレは女王様に仕える騎士かなんかか?」
「そんなカッコイイもんじゃなくて、ただのご機嫌取りよ」
「アホー、アホー」
「なによ、それ?」
「ゴキゲントリの鳴き声だよ」
「……上手くいったならいいけどね」
「なあ、藤沢」
「なによ」
「人ってそう簡単に変わると思うか?」
「はあ?」
「人間って変わるのかなって」
「……人間はそう簡単に変わらない、よっぽどのことがない限りはね」
「そうか、サンキュ」
「どういたしまして。じゃあ、また新学期に学校でね」
「まだ一週間以上、夏休み残ってるじゃないか」
「だから?」
「夏休み期間中に、お前に会いそうな気がする」
「そのときは、お互い笑って通り過ぎましょう」
「なんでだよ!」
「……じゃあ、まあ、そういうことがあったら、倉木くんにジュースでも奢ってもらうことにするわ。どっかのカフェで」
「お年玉を引き出しとくよ」
「そうして」
通話が切れたスマホをバッグの中に入れた宏人は、歩くことを再開した。よっぽどのことが無い限り、人は変わらないと志保は言った。宏人は、そのよっぽどのことに心当たりがあった。