第202話:中年男子の豹変と明日の約束
部屋に招き入れられた怜は、上座に座らされた。この前は、「涼しいところにいらっしゃい」などと言われて、勝手に座を選ばされたのだけど、それとは大きな違いである。
「足を崩して」
正座した怜に、にこやかに環の父が言う。何なのだろう、この変わりようは。男子三日会わざれば刮目して見よ、というけれど、あれは、「青年」男子に限られた話ではなかったのだろうか。「中年」男子もありなのか?
「どう、学校の方は?」
対面に座った彼に対して、怜は、学業成績から、部活動、友だち関係に至るまで、父にも話していないことを、色々と話し始めた。
環の父は、うんうん、とうなずきながら、楽しそうに聞いていた。そこはかとなく不気味である。環の父の醸し出す明るくおどろおどろしい雰囲気に少し耐えていると、料理が運ばれて来た。
「いらっしゃいませ」
と挨拶してくれたのは円だった。確かこの前も円が作ってくれたはずだけれど、今日もそうしてくれたのだろうか。
「お邪魔しています」
と答えた怜は、色とりどりの膳が、所狭しと、足の短いテーブルの上に並べられるのを見た。朝食を簡単に済ませておいてよかったと思われる量のご馳走である。
環の父の他に、母、旭、円、そうして当然に環と、川名一家がみな座について、彼らに取り囲まれる格好で、怜は、箸を動かし始めた。今回は、前回と違って、特別、箸の動かし方を意識しなければいけない料理は無かった。
「加藤くんは、釣りをしたことはあるかな?」
対面に座った環の父に問われた怜は、
「はい。祖父と何度かあります」
と何の気なしに答えたところ、
「そうか、そうか」
と彼が目を輝かせたので、まずいことを言ってしまったことを悟った。隣にいた環が、すぐさま、
「釣りなら、いつでもお付き合いしますよ」
とフォローしてくれたが、
「でも、環は、釣りあんまり好きじゃないだろ?」
「はい」
それは中途半端なものだった。
「わたしも、釣りキライ! だって、全然釣れないんだもん!」
怜の隣から旭が口を差し挟んだ。怜は心の中で彼女に対して、「いいぞ、もっと言ってくれ」とエールを送った。いかに釣りがつまらないかということを力説してくれれば、環の父に今しがた浮かんでいるであろう想念が払拭されるかもしれない。しかし、少女は言うべきことはもう言ったと言わんばかりの面持ちで、すでに食膳に向かっていた。
怜は早々に覚悟を決めた。生きるということは、覚悟するということに他ならない。その割には、この場に来ることを随分と渋っていた自分だと思わないでもないが、それは若さゆえの過ちとして許してもらいたいと怜は誰にともなく、いや、隣にいるカノジョに対して、そう思った。
環の父は、まるでほろ酔い加減ででもあるかのように、機嫌良く鷹揚な話し方をした。やはり、あまりにも、前回の態度と違いすぎるので、怜は、これは何か裏があるのではないかと、かえって疑いの気持ちを強めた。あるいは、もしかしたら、今回に裏があるのではなくて、前回に裏があったのかとも思われた。環の父の本来がこちらの姿なのであれば、そういうことになる。どちらにしても、好ましい考えではなかった。
付き合っているカノジョのその父親ということになれば、敬意を持って接することができなければウソだろう。にも関わらず、今怜が抱いているのは、敬遠の気持ちである。早く一塁ベースに送りたいところだけれど、あんまりストライクゾーンから外れすぎたボールを投げてあからさまなことをすると、不興を買うことになって、うまくない。つまりは、耐えるしかないということだった。
環の父は、他にも、登山は好きか、スキーはやるのかとひとしきり、レジャーについて訊いてきた。ウソを言うこともできない怜は、人並みにやる旨、答えておいた。
「娘だけじゃ不満なんですか、お父さん?」
怜の隣から、清々とした声が放たれた。
「ふ、不満なんてあるわけないだろう。みんな、おれの自慢の娘だ」
長女に向かって、若干どもりながら答えた彼は、ははは、と乾いた笑い声を上げて、
「なあ、加藤くん?」
と無茶振りをしてきた。環たち三姉妹に囲まれて生活したことなどない怜は、何と答えてよいか分からなかったけれど、たとえ、そういう経験があったとしても、
「はい、そう思います」
と言うしか、答えようなど無いのだった。
怜は箸を進めた。しかし、食べても食べても、まだまだ料理は残されていた。円が作ってくれたであろう料理はどれもこれも美味かったけれど、もう少し量を控えめにしてもらえば、なおその美味しさを感じられただろう、と思った。それほど、もりもり食べる方ではない怜にとって、体格のいい男子が運動部で三時間ほど練習をして十分に腹を空かせたあとに食べるであろう量は、荷が重かった。
それでもなんとか食べ終えると、今度は、デザートの時間になった。手作りのストロベリーショートケーキである。それは、とても手作りとは呼べない代物で、
「ケーキ屋さんを開けるんじゃないの、マドカちゃん?」
とお世辞抜きで、言ってしまうほどだった。
「大げさです、先輩」
円は、にこりともせずに答えた。
「レイ、毎日来てよ。そしたらさ、毎日、マドカお姉ちゃんのケーキ食べれるから」
怜の隣から、無邪気な声が上がった。
「べ、別に、先輩のために作ったわけじゃないんだから。いつでも作ってあげるよ」
円が、ちょっと焦るようにして答えた。
「えー、でも、ケーキは特別な時しか作ってくれないじゃん」
「そんなことないって」
「じゃあ、明日も作ってくれる?」
「今日作ったばっかりじゃないの」
「やっぱり、作ってくれないんじゃん」
そこで、旭は、隣を向いて、
「レイ、明日も来て!」
と口周りに生クリームのついた愛らしさ満点の顔で訊いてきたけれど、怜は、その顔に丸め込まれるわけにはいかなかった。
「無理を言ったらダメよ、アサちゃん」
環が口を出した。
「レイくんも、忙しいんだから」
ぶー、と不満の声を上げる旭の口周りを、怜は近くにあったティッシュ箱から取ったティッシュで拭ってやった。それは、ほとんど無意識に近い行動で、してしまってから、自分の行為のぶしつけさに、ハッと気がついた。しかし、もちろん、後の祭りである。
「ありがとう、レイ!」
明るく礼を言った旭は、またケーキへと向かった。怜もケーキに向かったが、家族の一員でもないのに家族がするような行為をしてしまった少年に対して、周囲はどう思っているのか気になった。小さな子の口を拭ってやるくらい大したこと無いと思いたかったけれど、うまく自分を納得させることはできなかった。
口の中に広がる苦い味わいをケーキによって緩和した怜は、デザートの時間が終わって、ゲームの時間に切り替わるのを見た。一度お手洗いを借りて、部屋に戻ってくると、トランプの準備が整っている。総勢6人で、ババ抜き、七並べ、神経衰弱などの、メジャーなカードゲームを何度かやって、怜は、勝ったり負けたりを繰り返した。
そうして、お暇の時間になった。時刻は4時を回っている。ようやく終わりかと、怜は内心でホッとしたが、もちろん、そんな様子を外に表すことはしなかった。
「レイ、泊まっていったらいいじゃん!」
旭が、この前来たときと同じことを言った。やんわりと断ろうとしたそのとき、
「おお、そうしたらいいじゃないか!」
彼女の父親が末娘の加勢をした。ぎょっとした怜がどう応えようか思案し始める前に、
「なにバカなこと言っているの、お父さん!」
普段物静かな円が、大きな声を上げた。
「お、おい、円。ほんの冗談じゃないか……」
「本当に?」
じいっと見つめてくる次女から、父親は顔をそらすと、
「ま、まあ、今日は話が急だから、でも、今度ぜひ泊まりにいらっしゃい」
と怜を見た。怜は、曖昧にうなずきながらも、さすが放任気味の父母も、女の子の家に泊まりに行くなどということを許すほどではないことは分かっていた。祖父母の家に環を連れて行ったことに関しても、
「いくらお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが許しても、世間の目があるんだから。段々そういうことまで考えられるようにならないとね」
と母から、一言苦言を呈されていたのだった。
会食が終わった。
家族総出で玄関まで送ってもらって、大いに恐縮した怜は、外に出て、相変わらずの曇り空の下で、ようやく晴れ晴れとした気分になった。
「お疲れ様でした」
隣から訳知り顔で環が言った。
「別に疲れてなんていないけどな。ただご馳走を食べて、ゲームをしただけだ」
怜は何気ない調子で答えたが、環はいつもの微笑をたたえている。
「その顔やめてくれないか」
「どんな顔?」
「大体分かるだろ」
「やめろって言われても、昔からこういう顔なので……嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、よかった」
環は門の近くまでついてきた。ここまででいいよ、と怜は言ったが、環は聞かなかった。そうして、怜は、自分が言ったことをかつてこれまで彼女が聞いてくれたことがあっただろうかと思いを巡らせてみたが、残念ながら、その答えは否定的なものだった。
「オレのこと、壊れたラジオだと思ってないよな?」
「レイくんが話すことは、風のそよぎ、水のせせらぎ、地の震え、光のきらめき、わたしにとっては、そういうものよ」
なるほど、と怜は、彼女が言っていることがイマイチ分からないながらも、詩的であることでもって、悪意は無いのだろうと解釈して、うなずいておいた。
「もうここでいいよ」
門の近くの通用口から出たとき、怜は言った。
「もう少しだけ」
「もう少しってどこまでだよ?」
「レイくんの家の近くっていうのはどう?」
「全然少しじゃないだろ。そんなところまで来られたら、そこからまたここまでお前を送って来ないといけなくなる」
「それはステキなことだと思う」
「どうかな」
「次にいつ会えるか分からないでしょ」
「平安時代じゃないんだ。そんなことにはならない」
「どの時代だって同じことよ。別れはつらく、次に会うまでの時間は永遠にも感じられるもの」
そう言うと、環はそのアーモンド型の瞳をパチパチさせた。
「じゃあ、永遠の時を超えて、明日また会いに来るよ」
「わたしのこと我がままだと思ってない?」
「オレが? まさか!」
「本当?」
「キミが言い出さなくても、こっちから言うつもりだったんだ」
「そうだといいなと思ってた」
怜は、明日の再会を約し、恋人に別れを告げて、歩き出したが、少しすると、立ち止まって振り向いた。
「タマキ」
子犬のように後をついてきていた少女に止まるように言うと、彼女は舌を出して、
「ほんの冗談よ」
と続けた。
それはどうだか分からなかったが、もう一度怜が歩き出すと、後ろからついてくる足音はもうなかった。少ししてもう一度振り返ると、こちらに向かって手を振る少女の姿が、薄曇りの空の下で、明らかだった。