第201話:カノジョの父親との再会
じっとりとした朝だった。
起き上がったときから不快を得た怜は、カノジョの家族に会いに行く日だからと言って、天は特に味方をしてくれないのだということを確かめて、満足した。天はただ天であってくれれば、人は人のことを行えるのだから、特にそれ以上、干渉してもらう必要は無い。
時計を見ると、朝の6時である。外は既に明るい。部屋を出て一階に下りた怜は、洗面を済ませてから、また自室へと帰り、昨日塾で勉強したことの復習を始めた。つい四ヶ月前までは、安閑と暮らしていたのに、変われば変わるものである。思えば遠くに来たものだ……と、そんなことを悠長に考えている暇をとらず、怜は、受験用知識を溜めることに専念した。
7時30分になると、世界は、さらに明るさを増した。外はこれほど明るくなっているというのに、自分の心が大して明るくなっていないことに気が付いた怜は、口角を上げてみることにした。笑顔を作ると、心が晴れやかになるというもっぱらの噂である。特に効果は無かった。
空腹を覚えた怜は、キッチンに向かって降りていき、まだ誰も起きていないために無人になっているそこへと踏み入って、朝食を作ることにした。レタスと卵のサンドイッチである。一人分作るのも家族分作るのも、そう大して手間が変わるわけでもないので、怜は、みんなの分も作ってやった。そうして、作り終えて、紅茶でも飲もうとお湯を沸かし始めたときに、階段を下る音がして、妹が姿を現わした。華麗に寝乱れた姿で、兄を見もせず、もちろん、挨拶もせずに、できたてのサンドイッチをむんずとつかんで、もぐもぐと頬張ると、
「65点」
何とも微妙な得点を与えて、洗面所へと消えた。妹は、兄が祖父母の家にカノジョと行ったことをまだ許しておらず、不機嫌な顔を見せ続けている。うんざりすることこの上ないが、そもそも彼女が兄に対して機嫌良い顔を見せていたのは、せいぜいが小学校の低学年までくらいのものだから、そういう不機嫌な顔はすでに標準装備になっているのだと言えば言えた。これから先、もしかして、妹が以前のように機嫌良い顔を見せてくることがあるのだろうかとたわむれに考えてみた怜は、
――ありそうにないな……。
とすぐに首を横に振ったあと、もしもにこやかな顔など見せられたら、それはそれで気持ちが悪いとも思った。つまりは、彼女が変わったように、怜も変わったということである。変わらないものなどない。万物は流転すると言ったのは誰だったか……思い出せないので、カノジョに訊いてみることにした。スマホからメッセージを入れると、
「古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスです」
とすぐに答えが返ってきた。
「もう起きてたのか?」
「おはよう。どうしたの、朝から。存在論について考えてたの?」
「妹の存在というものについて考えていた」
「結論は?」
「不可解」
「謎が多い方が人生は楽しいよね」
一番の謎が何なのかは、彼女には話さない方がいいだろうと、怜は思った。
「レイくん、体調は?」
「快調だよ」
「よかった。お腹空かせてきてね」
「今サンドイッチを食べてる」
「そうなの? わたしも食べたいな。今からお邪魔していい?」
「ダメだ。家で大人しくしてろ」
「ほんの冗談なのに」
それはどうだか疑わしい。
「でも、今度作ってくれるでしょ?」
「いつだって作るよ」
「それが聞けてよかった。じゃあ、待ってるからね」
メッセージのやり取りを終えた怜は、サンドイッチを食べ終えたあと、自室に戻って勉強に励むことにした。夏の日を覆う雲は分厚くなったようで、今にも雨が降り出しそうな様子になった。昼近くまで勉強を続けたあと、怜はシャワーを浴びることにした。汗を洗い流したあと部屋に帰り、何を着ていこうかと考えて、前回は、制服を着ていったことを思い出した。
制服を身につけて行くということが、環の父に会うことに対する心の構えを表していた。すなわち、彼に会うことを公の式典に類するものだと思っていたわけである。それは、ある意味では正しく、その意味を堅持したいのであれば、今回も制服にしておくのがいいだろう。怜は自分が、環の父と、キャッチボールなどに興じるカジュアルな関係を結んでいるところをもやもやと想像してみた。うん、とうなずいた怜は、今回も制服を着用していくことに決めた。
「あちら様に粗相が無いようにね」
母の注意の言葉を受けた怜は、手土産を持って、家の外に出た。念のため、傘も持った。母からは、車で送っていってもいいと言われたのだけれど、断っておいた。神社の参道は、本殿に向かう前に心を静めるためにあるという。同じ目的のために、15分の道行きを使いたかった。
曇天の下を歩きながら、怜は、昨日のようなアクシデントが起きないものかと、周囲を注意深く見回した。もしも、昨日のように困っている人がいて、それが全然自分の手に余ることでなければ、是が非でも助けるつもりである。迷子なんていいかもしれない。交番に彼もしくは彼女を届けて、親が来るのを待つ。そうして、待っているうちに、いつしか日が暮れるという寸法である。怜は、目を皿にして、辺りを見回したが、元気にサッカーボールを蹴ったり、バドミントンの羽を飛ばしたりしている子ばかりで、親を探して途方に暮れて泣いているような子はいないようだった。怜は、自分の不幸を避けるために、他人の不幸を望むような振る舞いをしたことを、大いに恥じた。
そんな風にして、少なからぬ恥を持つ人生にさらなる恥を増しているうちに、カノジョの家の門前に着いてしまった。特に心の構えができたわけでもないようであるので、当って砕けるしかないと思った怜は、えいやっと気合いを入れて、インターホンを押した。すると、
「レイ?」
という可愛らしい声がして、こちらが答える前に、
「今行くね!」
そう続けると、40秒もしないうちに、門のそばにある通用口が開かれた。そこには、小学1年生の少女が、この曇り空を吹き飛ばすかのような輝くばかりの笑みを浮かべていた。
「こんにちは、アサちゃん」
怜は、自分の声が丸みを帯びるのが分かった。
「レイ、ちょっと両手、広げて」
言われた通り、お土産と傘をそれぞれ持った手を、広げるようにすると、旭はその中に入るようにして、怜に抱き付いてきた。腹のあたりに、旭は顔をグリグリと押しつけるようにしてくる。それが彼女の愛情表現であることを認めた怜は、自分の来訪をこんなに喜んでくれる人がいるのであれば、それだけでここに来た価値もあったのだと思うことができた。そうして価値があった限りは、もう帰ってもいいだろうかと思ったけれど、
「アサちゃん、お客様を中までご案内して」
そのタイミングで、環が現われた。うるわしの恋人は、制服姿であり、まるで、こちらの、服装に関する考えを見透かしているかのようだった。事実、見透かしているのだろうと思った怜は、それでも、
「一張羅がクリーニング中だったんだ」
と言い訳してみた。
すると、環は微笑んで、
「構わないよ。制服もいつも通り似合っているし。それに、そのクリーニング中の一張羅で、今度どこかに連れて行ってくれるんでしょ?」
と応えた。
モチロン、と言うと、怜は、
「あ、今度は、アサヒも一緒に行く!」
と腕の中の少女に、まっすぐな目で見上げられた。
「いいでしょ? レイ」
「お姉さんがいいって言ってくれたらね」
「タマキお姉ちゃん、いいでしょ?」
旭は、怜にくっついたまま、顔だけ器用に姉に向けた。
環は、微笑んだままうなずいた。
「やったあ! どこ行くの!?」
喜びの声を上げる旭に、怜は、よっぽど、今からでも彼女の好きなところのどこにでも行きたかったけれど、さすがにもう観念して、
「とりあえず、アサちゃんのお家の中に行こうか」
自分からそう言った。
「お昼ご飯食べたら、遊んでくれる?」
「喜んで」
「じゃあ、行こう!」
そう言うと、旭は、傘持ってあげると言って、怜の手から傘を取ると、先に立って歩き出した。
「来てくれてありがとう、レイくん」と環。
「まだ来ただけだぞ。これから、何か粗相をして、タマキに恥をかかせるかもしれない」
「レイくんがもし間違ってフィンガーボウルの水を飲んだら、わたしも飲むからね」
「二人で一緒に崖から落ちることないだろ」
「でも、ロマンチックでしょ?」
「根がハードボイルドだから、ロマンチックは、よく分からないな」
「ハードボイルド? レイくんが?」
「ああ。だから、今朝のサンドイッチの具の卵、固めに仕上げたんだ」
「今度ご馳走してくれるんだよね」
「学校の弁当の日にでも作って持って行くか?」
「ステキ。そのときは、タコさんウインナーもお願いね」
「作ったことない」
「大丈夫。まだ、お弁当の日まで時間あるよ」
玄関の方から、レイとタマキを呼ぶ無邪気な声が聞こえてきた。
「行こう、レイくん」
「ああ」
環に導かれて、玄関に着くと、開いたドアの奥に、彼女の母親が膝をついて、出迎えてくれた。恐縮した怜は、
「つまらないものですが」
と前置きして、手土産を渡した。
「ご丁寧に」
と笑顔で受け取ってくれた彼女は、どうぞ、と言って奥に引っ込んだ。案内は娘達に任せるつもりなのだろう。
「行こう、レイ!」
旭に手を取られた怜は、彼女の導きに従って、廊下を歩いた。この前は、ここから地獄の時間が始まったが、今回はどうだろうか。前回の最後に見た環の父親の笑みが、真実のものであるならば、今回は地獄にはならないと思うが、怜は楽観はしていなかった。手塩にかけて育ててきた娘を横からかっさらおうなどというのは、盗人に等しい所業である。それを許すことができるとしたら、よほどの聖人君子だろう。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね、加藤くん!」
この前は部屋の中で鎮座ましましていた環の父は、今日は廊下まで出迎えてくれた。どうやら、彼は、普通の父親から聖人君子へと、華麗な転身を遂げたようである。怜は肩を抱かれんばかりにして、部屋の中へと導かれた。