第200話:戦場へおもむく準備
その日、怜は、母のお供で、ショッピングモールに来ていた。荷物持ちとして母の役に立てる幸せを噛みしめた怜は、口の中を苦くしながら、翌日のためのお土産を見ることにした。明日は、カノジョの家にお呼ばれしているのである。手ぶらで行って、カノジョを辱めるわけにはいかない。
「じゃあ、ここで待ち合わせましょう」
モールの一角で母と別れた怜は時間を決めて、モール内のお土産コーナをぶらぶらした。今日持って行くわけではないから、生菓子は避けなければならない。日持ちするものを物色していると、この前のお呼ばれのことを思い出した。怜は、過去に起こったことを根に持つタイプではないけれど、だからといって、さらりと水に流すことができるタイプでもなかった。以前の訪問のときは、随分嫌な思いをした。もちろん、あれは、あちらなりに理由があったことなのだろうけれど、理由があれば何でも許されるという考えは、人を卑しくする。そういう考えを持たない怜は、首を横に振った。
「ご試食いかがですか?」
売り子のお姉さんのお愛想を丁重に断った怜は、焼菓子のセットを買うことにして、母と別れた場所へと足を向けた。手土産は、母が買ってくれることになっていた。自分でお小遣いの中からお金を出すと言ったのだけれど、
「あなただけのことじゃないから」
と言われた。個人と個人の話が、家同士の話にまで広がるのは、あまり気持ちのいいことではなかったけれど、やむを得ないのであれば、受け入れるほかない。
母を待っていると、不意に、子どもの泣き声が聞こえた。見ると、通路で、ベビーカーを押した女性が立ち往生している。そちらに歩を進めた怜は、女性が抱っこひもで赤ちゃんを抱いていて、さらに、ベビーカーの中に2歳くらいの女の子がいるのを認めた。すえた匂いがした。どうやら、その子が、もどしてしまったようで、ベビーカーと床が汚れているようだった。もどしたことにびっくりしたのか、それとも、そもそもそうしていたのか分からないけれど、その女の子が泣いているのだった。
何人もの大人がそのあたりを通り過ぎていたが、一様に眉をひそめるだけで、手を差し出そうとしない。怜は、もしもカノジョがいたら、きっとするであろうことを、自分が代わりに行った。
「大丈夫ですか」
と声をかけて、肩掛けタイプのバッグからティッシュを取り出すと、ベビーカーの汚れを拭ってやった。
「あ、ありがとうございます!」
泣きそうな目をしている女性に、怜は、落ち着くように言った。
「お母さんが落ち着けば、お子さんも落ち着きますから」
そうして、軽く床を清掃していると、怜と同い年くらいの少女が現われて、
「赤ちゃんを抱かせてください」
そう言って、母親から赤ん坊を受け取ると、泣き続けるベビーカーの中の女の子の世話を母親にさせる余裕を作った。赤ん坊は少女の腕の中で、大人しくしている。
「着替えはあるんですか?」
「え、ええ……」
「じゃあ、トイレまで行きましょう」
女性は、怜の方を見た。
怜は、自分のことは気にしなくていいことを伝えた。
「ああ言ってますから、行きましょう。まず、お子さんを優先しましょ」
少女はそう言って、母親を促した。
フロアに残って一人、汚物の片付けを続けた怜は、なかなか見事な手並みを見せた少女を内心で褒めたたえた。まるで、カノジョのような手並みである。とりあえずフロアを綺麗にし終えたあと、まるで計ったように店員がやってきたので、怜は簡単に事情を説明した。そうして、汚れた手を洗いに行こうとしたところで、さっきの女性がトイレから現われたのを見た。
「本当にありがとうございました!」
中学生の自分に深々と頭を下げる大人を助けることができてよかったと思った怜は、お礼の申し出を丁重に断って、手を洗った。
少女の方は既にその場を後にしていたようだった。
そのとき、スマホが着信を告げた。母からだった。どうやら、いつまでも待ち合わせ場所に現われない息子に苛立ったようである。
「今向かってるよ」
母に答えた怜は、言葉通り、待ち合わせ場所へと歩を進めた。
「随分迷っていたようね。決まったの?」
怜は、今あったことを母には説明しなかった。取り立てて話しておくようなことでもない。焼菓子にしたことを言うと、売り場まで連れて行くように言われたので、そのようにして、母にさっき選んだ菓子を買ってもらった。これで、カノジョ宅に行く準備は整ったわけである。あとは、心の準備だけだが、そっちの方はどうにも整いそうになかったので、無理に整えようとするのはやめた。
家に帰った怜は、塾に行く準備を始めた。朝は、彼女の家への手土産選びで、昼からは塾。まことに結構な身の上である。夜にも用事があれば最高だと皮肉げに考えても、忙しさが緩和されるわけでもないが、どうしてもそんな風に考えてしまうのは、ひねくれているせいである。そのひねくれた中三生を、塾の山内講師は、実に公平に遇してくれた。ありがたいことである。授業の最後に、
「来週が夏休み最後の週です。その週の土曜日に、模試があることは以前お伝えしていますね。夏休みの成果を測る重要な試験です。残り期間わずかではあります、調整を怠らないように気をつけてください」
と念を押された。
分かりました、と怜は答えた。調整も何も、プロのスポーツ選手ではないのだ、一つでも多く知識を蓄えるのみである。
「同じことを以前に言ったかもしれませんが」
講師は前置きしてから言った。
「成果につながる努力というものを、常に意識するようにしてください。世の中では、努力それ自体に価値が置かれる傾向があります。がんばることが尊いという風潮ですね。がんばれば結果自体はどうでもいいという人さえいます。しかし、これは、本当にそうでしょうか。例えば、自転車に乗るということを考えてみましょう。乗れない子が乗れるように頑張る。ある日の練習で乗れなかったとしますね。そのとき、彼、もしくは、彼女は、『乗れなかったけど、今日はがんばったからよしとしよう』とそんな風に思うでしょうか。それに周囲も、『がんばったことが尊いのであって、乗れても乗れなくてもどっちでもいい』と思うでしょうか。もし親であれば、そういう言葉がけをするかもしれません。しかし、それは、明日の練習のモチベーションとするためであって、結果的に乗れなくてもがんばればいいとは考えないでしょう。こういう風に言うと、成果主義のように聞こえるかもしれませんね。成果が最も大事であって、努力はつまらないものだと。しかし、そういうことではないのです。努力は尊いものであることに違いはありません。しかし、それはあくまで手段として尊いのです。目的を達成するために必要であるという点において尊いのであって、努力それ自体が尊いわけではありません」
講師の言うことは、怜にはよく分かった。目的地に到達しようとするときに、車で行くとして、車が尊いのは、目的地に速く安全に到達できるからであって、車自体が尊いわけではないということである。もちろん、ドライブそれ自体が楽しいという人もいるだろうが、それは目的が変わったというべきである。
「ああすればこうなる、なんていう話はありません。こうなるためにはどうするか、それを常に考えるようにしてください。わたしは、ヒントを提示することはできますが、加藤くんに代わって、受験をするわけにいかないのであれば、究極的には、答えを見つけるのは、加藤くん自身であるということになります」
怜はうなずいた。言われるまでもなく、誰かに代わって、この人生を生きてもらいたいなどと思ったことはなかった。
講師のもとから帰ろうとしたとき、怜は我がカノジョの姿を認めた。
「次の授業が川名さんなんです」
山内女史が言った。
怜は環が終わるまで、教室のすみっこで、自習させてもらうことにした。それを、カノジョに伝えると、
「待っていてもらえるのが嬉しくて、先生の授業が耳に入らないかも」
そんなことを言ってきたので、そんな甘えを許すような講師ではないことを、こっそりと注意した。
怜は、家に連絡しておいた。帰ってくるべき時刻に帰ってこない息子が、道草を食っていると誤解されるのもつまらない。そうして、隅のテーブルについて、片付けたテキスト類をもう一度出して、勉強を始めた。どのみち、家に帰ったところで、勉強を続けるわけだから、これはこれで都合が悪い話ではなかった。
二時間、机に向かっていると、たまに山内講師と環の声は聞こえたが、それほどの頻度ではなかった。講師も環に対しては、特に言うことも無いのではないか、と怜は思った。
「お待たせしました」
近づいてきた環が言うと、怜は、荷物を作り始めた。
「ここまではどうやって来たんだ?」
「母に送ってもらったの」
「お母さんへは?」
「『レイくんに送ってもらいますから、帰りのお迎えは結構です』って、さっき、休憩時間にメールしておいたわ」
それなら、何も問題なく、カノジョを家まで送り届けるという栄誉に浴することができる。
「お疲れじゃないですか?」
「勉強して疲れたなんて言ったら、先生に殺されるよ」
「その『先生』というのは、わたしのことじゃありませんよね、加藤くん?」
二人の所にやってきた山内講師が、言った。
「も、もちろん、違います」
怜は軽口を恥じた。それもこれも、環が来たからであると、自分の軽はずみをカノジョのせいにしようとする心性をさらに恥じた。
「それはよかった。それじゃあ、二人とも、気をつけて、お帰りなさい。では、また」
講師に見送られて、怜は、環とともに教室を出た。まだ日は高い位置にあり、自転車を引いて歩いて帰るには億劫だったが、そんな様子は、ちらりとも見せなかった。
家までのつれづれに、今日の午前中にあったことを怜は話した。
「そのお母さんは、ホッとしたことでしょうね」
「だといいけどな」
「一つ文句を言ってもいい?」
「一つだけでいいのか?」
「控えめなたちなので」
「知ってたよ」
「もし、そのお母さんを一緒に助けられたら、今日という一日が、いっそう特別なものになったのに、と思うの」
「ご挨拶のための手土産を買ってたんだぞ?」
「誘ってくれてもよかったのに」
よくよくと考えてみれば、その方が手間が省けたような気もする。怜は今度からそうすることを誓ったが、彼女の父親に会うのが今回だけにとどまらないことを、自ら認めたようなその振る舞いに、再び、口の中を苦くした。
環の目が疑いを含んでいる。
怜は言い訳した。「いや、本当に、お父さんのことは嫌っているわけじゃないんだ」
「知ってます。ピーマンだっけ?」
「ピーマンは好きだよ」
「あら、じゃあ、明日、ピーマンの肉詰めでも作ろうか?」
「あまりお構いなく」
「もしも父から逃れられても、わたしには妹がいるからね」
「マドカちゃんとアサちゃんは、好きだよ」
「じゃあ、2対1で、勝ちね」
その勝負のシステムが怜には分からなかったが、カノジョが勝ちだというのなら、きっとそうなのだろう。明日は長居することになることを、怜は、覚悟した。