第20話:グリーン・アイド・モンスターを駆る少女
のそりと、闇の中から生まれたそれは餌食を求め、辺りを見回した。周囲にあるはずの明るく輝くものをもてあそび、喰い尽くすのが、それの存在意義である。それが現れたが最後、闇を照らす輝きを持つものはことごとく光を失うのだ。それは人の心の深奥に棲む異形の魔物。
緑色の目をした怪物。
いつもと勝手が違ったのは、探せど探せど光が見つからないことである。そこには闇しかなかった。暗黒に浮かび上がる一人の少女の姿。彼女は、その怪物を認めた。普通、それに気がついたら、見なかった振りをして通り過ぎるか、必死に戦うかするものであるが、彼女は違った。じいっと興味深そうにそれを見つめると、嬉しそうに微笑んだ。まるで旧友にでも出会ったかのような心からの笑みだった。少女の向ける愛しそうな目のその前で、怪物の体がどんどん縮んでいった。ついには、少女の手の上に載るくらいの大きさになった。虜にするはずの少女に逆に捕らえられた怪物は、闇に返ることもできず、少女の言いなりになる他なかった。
「何か良いことでもあったの、タマキ?」
友人の声に、環は夢想から覚めた。放課後の図書室。環が座っているのは図書室出入り口付近の貸し出しカウンターである。図書委員の仕事であった。隣にいるのが、同じ委員で友人の倉木日向である。彼女は、しんと静まり返った雰囲気を壊さないように、口元に手を添えて言葉を継いだ。
「さっきから何にやにやしてるの?」
「にやにやなんてしてた?」
環も日向に倣いひそやかに声を出した。日向はうなずいた。
「教えなさいよ」
促されるままに、環はカウンター下に置いてある自分の肩下げタイプの鞄から、紙細工を取り出して日向に見せた。
「なに、それ?」
日向はうさんくさそうな顔をした。それもそうであろう。茶色いざら紙で作られた鬼の面を得意げに見せられても、その意味するところなど分かるはずもない。
「ナナちゃんにもらったの」
口元を綻ばせる環を見ながら、日向は首を捻った。この少女には何か秘密の趣味でもあるのだろうか。その前に七海である。何を考えてこんなものを贈ったのだろう。
「お守りとかなんか、そういう感じなの?」
日向は最も可能性のありそうな仮説を出した。
環は首を横に振って、
「これは般若の面なの」
と言ったあと、般若が女性の憤怒と嫉妬を表しているということを、説明した。
「ナナちゃんによるとね、わたしはこのお面をつけた方がいいみたい」
日向は、ざら紙の面を顔の前に持ってくる友人を見ながら、
「つまり、それは加藤くんに対して、怒りを表せっていうことなの?」
と回転の速い所を見せた。
「そういうことらしいね」
般若の面をカウンターテーブルに置きながら、環は微笑んだ。
「何よ、あの子は。タマキと加藤くんのことなんか興味無いみたいなこと言ってたくせに」
「興味がないのに心配してくれるっていうことは、それだけ大切にされてるっていうことだと思うわ。いい友達を持って、わたしは幸せです」
日向は内心で口を尖らせた。彼女にしてみれば、環の恋愛事情に関しては、七海などよりも自分の方がずっと心配しているのだ、という自負がある。
「もちろんヒナちゃんにも感謝してるよ。いつもありがとね」
日向の心中を読み取ったかのように、環が語を継いだ。その一言で日向の機嫌はすっかり直った。
「ヒナちゃんは誰かに嫉妬したことある?」
環には些か唐突な所があるが、それは突然な言動にも対処してくれるであろうという自分への信頼だと日向は理解していた。そうした信頼を得た者だけが、環の友人になれるということも。
「当たり前でしょ」
日向はすばやく答えた。現に今も環から感謝の念を捧げられる七海に嫉妬したところだし、日向からすれば、目の前の少女自身が常にその対象になる。そのきめ細かな肌やふわりとしたショートボブ、綺麗な笑い方、賢明さを包む淑やかさなど、彼女を見るときはいつも、八割の憧憬に二割の嫉視が含まれているのである。
「ナナちゃんとかアヤちゃんもかな?」
「その二人はどうだかしらないけど、普通の人はすると思うよ」と日向。
環には、誰かに嫉妬するという経験がなかった。それは、これまで自分と伍して争える人間が周囲にいなかった、ということではない。自分より頭が良かったり、人当たりが良かったり、可愛かったりする女の子がいなかった、ということではないのである。単にそういう能力に価値を認めたことがなかったのだ。他人と自分が比較できる何か、その何かに価値を認めなければ、嫉妬など起こりようがない。しかし――
「わたしね、ナナちゃんの言うとおり、嫉妬してるみたいなの」
環は晴れやかな顔で言った。日向は眉を顰めた。まるで、「わたし恋をしてるみたい」とでも言っているかのような楽しげな口調だったのであるから、彼女の当惑はもっともである。嫉妬するということが、そんなに愉快なことであろうか。
「嫉妬って、あの橋田さんっていう人に?」
と日向が確認すると環はうなずいた。日向の頭に鈴音の姿が浮かぶ。環と同じ程度に綺麗な子を初めて見た、というのが日向の偽らざる心情だった。二、三度姿を見かけたことしかないが、それで十分に印象に残る子である。思わず声をかけたくなるような人を包み込むような柔らかさがある。一言も話していないのに、その歩く姿だけでそこまで強烈に魅了されたのは、環以来始めての経験だった。
「環の方が可愛いけどね」
どうしても日向はそう言わざるを得ない。例え鈴音がどんなに魅力的であろうと、それを口に出したくない事情がある。彼女が怜と一緒に登下校しているということがどうしても気に入らない。日向にしてみればその神経が信じられない。環と小学校からの付き合いだとすれば、その小学校来の友人のカレシに引っ付いているというのはどういう了見であろう。考え出すと義憤を感じてきた日向はやはり怜に一言言わなければという気になってきた。この前は、七海や幼馴染みに邪魔されたが、今度こそという気持ちになる。
「ヒナちゃんのそういうところが好きだよ」
日向は不服そうな顔を作った。日向の感は悪くない。環が婉曲に止めていることが分かったのだった。
「何で加藤君なんだろうね?」
「素敵な人よ」
「そーお?」
「何だか妹もライバルになりそうだし」
「円ちゃんが?」
「文化研究部に入るっていうことはそういうことかなって」
「ウソでしょ」
「他に理由がないもの。好意じゃないとしても興味はあるんじゃないかな」
「やっぱりとりあえず殴ってくるわ、加藤君のこと、グーで」
「ヒナちゃん」
「だってそうでしょ。わたしの可愛い円ちゃんまでさ、許せないわ!」
拳を作って高らかに宣言する日向。自分が衆目を引いていることに気がついたのは、その一瞬後のことである。図書係の教師も先ほどからひそひそとおしゃべりばかりしている二人の女子に白い目を向けていた。
「恥ずかしいな、突然大きな声出して」
俯いた日向の上に聞きなじんだ声が降ってきた。
「げ、いたの、賢?」
「あんまり川名に迷惑かけるなよ」
すらりとした体躯の少年は本気でたしなめてるような声でそう言うと、本を差し出した。
「ヒナちゃんを迎えに来たの、ケンくん?」と環。
「本を借りに来たついでだよ」
どこか照れた様子で答える幼馴染みをむっとして見上げた日向は、貸し出しの手続きをしながら、
「ケンが本読むなんてめずらしーこともあるよね。明日辺り、隕石でも落ちてくるんじゃないの?」
と揶揄してから、書名を確かめた。
「『シェイクスピア物語』? シェイクスピア? どうしたの、熱でもあるの? 季節外れのインフルエンザ?」
「レイが読んでたからちょっと興味持っただけだよ」
日向はうんざりした目を幼馴染みに向けた。次いで、隣の少女を見ると、
「環、ここにもいたよ、あんたのライバル。この子も嫉妬の対象になるの?」
と言って環を微笑ませた。
「男の子は対象外よ」
分からない顔をしている賢に、しかし日向は説明しなかった。
「女同士の話よ」
そう言われると男子にはどうしようもない。賢は貸し出し処理の済んだ本を受け取ると、
「終わるまでコレ読んで待ってるから、声かけろよ」
と言って大人数がかけられるテーブルの一つに向かっていった。
「何よ、えらそうに」
少年の背に向かって毒づく日向だが、その口調のきつさと打って変わって少女の瞳には嬉しそうな色がありありと見えた。
隣にいる環は、二人の様子を好ましげに見るとともに、日向に嫉妬している自分に気がついた。好きな人が迎えに来てくれて一緒に帰れるというのは素敵なことである。怜の隣にいられるということが環にとってどういう意味を持つのかということが、彼と会えないここ十日間くらいではっきりとしていた。
環はたなごころの上にある醜悪な緑色の目の怪物を見つめた。たとえ美しくなかったとしても、自分の心から生まれた新しい感情である。貴重なものだった。
そういう感情が彼女にあるということを教えてくれた少年に今はただ会いたかった。