第198話:自分に起こることのほとんどは自分とは無関係に起こる
勉強会をしよう、と友人の五十嵐俊から誘われたのは、お盆を終えた頃のことだった。
「みんなでやれば楽しいじゃん」
というのが彼の主張理由であったが、そもそも楽しむために勉強をしているわけではない怜としては、その理由には納得が行かなかったし、大体にして、
「近所で祭りがあるから、それに行って、うちの近くで夜は花火でもしない?」
全然勉強会などではなかったので、よっぽど断ろうかと思ったけれど、
「『時に及んで当に勉励すべし』ってね。この言葉を教えてくれたのはレイだよ」
とまで言われては、過去の自分が言った言葉なのであればやむをえない、と行く気になった。メンバーはみな気の置けない人を選んでくれるというわけだったけれど、その中に、佐伯澄と、倉木日向の名前がある時点で、気を遣いそうな話になった。
「大丈夫だよ、川名もちゃんと呼ぶからさ」
「シュン、何か誤解していると思うんだが」
「ボクはレイのことをかなりよく理解していると思うよ」
「そうか?」
「そうとも」
それなら、そういうことにしておいた。
友人宅に出かけることになった息子を、母はあまりいい顔で送り出してはくれなかった。「また遊びに行くのか」という顔である。二日後にカノジョの家にお呼ばれしていることも既に言っているので、よっぽど息子の受験を危ぶんでいるのだろうけれど、初めの塾講師との約束通り、母は勉強に関しては口には出さなかった。
俊の家に集合するということになった怜は、勉強道具を自転車のカゴに入れて、燦々とフルパワーを出す8月中旬の太陽のもと、なかなかいい運動をさせてもらった。
午前中から午後の早い時間にかけては、ちゃんと勉強することになっていた。
俊の家は、平屋の大きな日本家屋で、その広さたるや、悠々と旅館業でも営めそうなくらいである。部屋数は多くあり、
「やあ、レイ」
迎えに出てくれた俊によって、怜は、そのうちの一つに通された。以前に何度かお邪魔したことがあるけれど、庭にある立木の見事さは、怜の中に、何度目かの感動をもよおした。
「みんな来てるのか?」
「いや、まだスミちゃんだけだよ」
「……もう少し遅く来るべきだったな」
「早くたって遅くたって同じことさ」
怜は、十二畳ほどの和室に通されると、でんと鎮座しているテーブルに、まるで調度品のようにきちんと座っている三つ編みの少女の姿を見た。
「おはよう、佐伯」
怜が声をかけると、澄は、どこか居心地悪そうな様子で、それでも、挨拶を返してきた。とかく世間というのは渡りにくくて、できるだけ早いうちにこの世間というものと離れたいもんだ、と怜は、もう随分幼い内から思っていた。おおよそ15年、人生を生きていれば、世の中がどういうところかくらい分かる。中学生が何を知った風なことをと大人は思うかもしれないが、怜は、この世の中では起こることしか起こらず、その起こることというのが大抵は自分とは無関係に起こるということを知っており、それ以外に、知るべきことがあるとも思えないのだった。
「何か冷たいものでも持ってくるよ、レイ。ちょっと待ってて」
俊は微笑しながら去った。その微笑には悪意の影は全くないけれど、古代ギリシア風に言うと、結果が悪であったら、悪意もあったことになる。これは逆もまたしかりで、ゆえに、古代ギリシアには、偽善という概念――結果が善でも、内心で善を求めていないこと――はありえない。結果が善なら、内心と関係なくそれは善なのだ。
怜は、祖父に教えてもらったことを思い出しながら、澄の斜め前に席を取った。隣や正面に座るのは、カレシに悪いし、かと言って、あんまり離れて座るのは、避けていると思われる可能性がある。
「あの、加藤くん……」
「どうした?」
「この前はごめんなさい」
そう言って、澄は頭を下げた。
家に乗り込んできた件である。
怜はもう気にしてないよ、と答えた。それでも、澄は頭を上げなかった。言葉通り、怜は本当に気にしていなかった。基本的に人が何をしようと、怜は別に何も気にしない。政治家の汚職や、芸能人の浮気が気になるのは、チャンスがあったら自分もやりたいのにあいつらだけズルい、という心理に過ぎない。怜は他人が何をしようと、その他人が不当に儲けているなどと、考えたことはなかった。
他人のする行動で怜が気になるのは、自分に関わりがあるときのものだけであって、今回は、まさに関わりがあったわけだけれども、それはもう済んだ話であるから、澄ももう謝る必要な無いと、怜は思った。謝らなくてもいいと思っているのに、謝るのは、謝罪の押し売りに等しい。しかし、さすがに、澄は、
「もう一回だけ謝りたかったの、ごめんなさい」
と言って、事を終わらせようとしたらしかったけれど、折悪しく、
「何してんの?」
他の三人が到達したところだったので、そのうちの、二人はいいとしても、一人からおかしな目で見られることは確実であって、思わず怜は、首をすくめた。
「スミちゃん……泣いてるの?」
倉木日向の声に、怜はぎょっとした。見ると、確かに、顔を上げた澄は涙をにじませているではないか。日向は、目を細めてそれを見ると、近くに立っていた友人に、
「タマキ、ちょっとカレシくんに意見するけど、いい?」
と尋ねた。
怜は、我がカノジョを見た。カノジョというのは、当然にカレシを守ってくれる存在ではないだろうか、と怜は思ったが、そのカノジョが微笑して友達にうなずきを与えるのが、見えた。
倉木日向は、つかつかと畳の上を歩いてくると、怜の頭の上から、
「加藤くんっ! 女の子を泣かせるなんて、男のすることじゃないってことは認めるわね?」
大上段で切り込んできた。
それは確かに認めていた。そういう教育を怜は受けてきたのである。怜がうなずくと、
「じゃあ、どうして、スミちゃんが、泣いてるのよ!? 分かっていることと、それを行動に移すことは、同じことであるべきでしょ!」
再び言ってきたので、怜は、再びうなずいた。いちいちもっともな話である。そこで怜は、環の隣でこちらを見ている少年の姿を見た。カノジョに守ってもらえない限りは、親友に守ってもらう他無い。しかし、賢は、なぜだか怜に向かって手を合わせてくるではないか。仏扱いされても困る怜は、
「どこ見てるの!? こっちを見なさいっ!」
日向の目を見るように言われた。
やむをえず、怜は間近から、整った瞳の中に燃える炎を見ることになった。
「あの……ヒナタちゃん、違うの……別に加藤くんは悪くないのよ」
澄が言ってくれた。怜もその通りだと言わんばかりにうなずいたけれど、
「悪いとか悪くないとか、そんなの関係ないわ。女の子が男の子のそばで泣いているんだから、『タイタニック』でも観ていたんじゃなければ、その男の子が責められるべきなのよ。なにか、わたしの言ってること間違ってる?」
日向は、澄の方を見もせずに、怜を凝視して言った。むちゃくちゃなリクツだと思ったが、怜は逆らわなかった。どうも、日向の様子がおかしい。以前から敵視されていたけれども、ここまで攻撃的であることはなかった。バイオリズムのせいでなければ、きっとプライベートで嫌なことがあったせいなのではないか、と怜は素早く結論づけたが、
「大体、加藤くんは、そういうところ、鈍感なんだよ! そもそも、カノジョ以外の女の子とどうして、二人きりになってるの! あ、待って、うっとうしいこと言わないでよ。『たまたま鉢合わせたんだ』とか何とか。そうじゃないでしょ、今日の場合だったら、加藤くんは、タマキを迎えに行くべきでしょ!? どうして、一人で来たのよ」
そうだとしてもどうしようもなかった。一人で来たのは、環が日向に誘われたからである。だとしても、強引に環を誘うべきだったと日向は言うのだろう。あるいはそうかもしれない、と思い、そもそも、日向の気勢が激しいので、怜は言われるままにしておいた。
そうして、クドクドクドクド、5分に渡って、カレシの心得を説かれた、怜は、いちいちお説ごもっともとうなずいていた。反論などすれば長くなると思ったのだが、
「さっきから、うなずくばっかで、首振り人形じゃないんだから、何とか言ったらどうなの!?」
と言われたところで、
「なんか随分盛り上がってるけど、どうしたの?」
今さらホスト役が麦茶の盆を持って現われた。
少し気勢をそがれた日向が、これこれこういうことだ、と説明をすると、
「そのお説教はボクが受けるべきじゃないかな。スミちゃんは、ボクのカノジョなんだから」
としごくまっとうなことを言ってくれた。内心でうなずいた怜だったが、もちろん、面にはあらわさなかった。
日向は、考える振りをしたけれど、
「もうあらたか加藤くんに言ったところだし……そもそも、スミちゃんなら、自分が言いたいことがあれば、自分で五十嵐くんに言うでしょうから、わたしから五十嵐くんに言うことは無いわ」
というなんとも理不尽なことを言ったが、とにもかくにも、とりあえず終わったので、怜はよしとしておいた。
「じゃあ、気を取り直して、勉強しよう」と俊。
勉強が始まる前から、体力を奪われた格好の怜は、午前中の2時間、さして集中できずに、最低限のことをこなすのみで、勉強を終えた。これでは、母に心配されてもやむを得ないところである。
「じゃあ、そろそろ、お昼にしようか。スミちゃん、運ぶの手伝ってくれないかな?」
俊が立ち上がって言った。怜とは対照的に、すっかりと気分が上向いた澄は、元気よくテーブルを立ち上がった。そのあと、日向がトイレに立ったとき、怜は、隣に座っていた賢を恨めしげに見た。
「悪かったな、レイ。ただ、ちょっと、ヒナタは今日、機嫌が悪くてさ」
「知ってるよ」
「実はさ……ヒナタの弟のヒロト、知ってるだろ?」
会ったことがある。姉と違って、素直でフレンドリーな子だった。
「そのヒロトがさ、今付き合っている女の子がいるみたいなんだけど、その子を差し置いて、他の女の子と出かけるみたいな話になってるみたいで、それで、ヒナタが怒っているんだよ」
賢には悪いが、全く興味が無い話だった。それじゃあ、完全にとばっちりじゃないか。
「今度、ジュース奢るよ」
怜は、賢から、真正面に座っている環に目を移した。
「人には、やり場のない怒りを感じるときがあるそうよ、レイくん」
環はしゃあしゃあと言った。
「いや、やり場あっただろ?」
「弟くんは、出かけたみたいだから」
「違うよ、オレだよ」
プライベートで何かあるたびに、ストレス解消の場にされてはたまらない怜だったが、
「まあ、こんなことは普通無いからさ。甘えさせてもらったよ」
賢は言った。確かに普通は無いのだろう。それだけ、彼女の憤りが大きいということであって、その激怒を代わって受けてあげた怜は、ヒロトくんからもジュースを五本くらい奢ってもらわなければ割に合わないと思った。