第197話:倉木宏人は約束を守らなければならない
宏人は携帯電話の画面を見つめていた。もうかれこれ5分は見つめている。なにゆえ、通信機器とにらめっこなどしているのかと言えば、その原因は、数日前にさかのぼる。その日、宏人は、友人の妹を伴って、夏祭りに出かけた。その妹ちゃんというのが、本当に愛らしくて、宏人の「お嫁さんにしたい女の子ランキング」の一気に最上位へと登りつめた。
そんな女の子と知り合うことができて、さらに、夏祭りに行くと、別の友人にも会うことができて、よかったよかったと思っていたところに、現われたのが、二甁瑛子だった。そのとき、宏人が味わった気持ちは、彼女がいるのに他の女の子と遊んでいる浮気男のそれである。本来であれば、そんな気持ちを抱く必要は無い。なにせ、宏人は、瑛子のカレシではないし、カレシになりたいと……これは以前は、ふわふわ思っていたこともあったが、今ではその気持ちも無い(ハズだ)し、何も引け目に感じることはないのである。
それにも関わらず、やっちまった感を持ったのは、瑛子とは遊びにいく約束をしていたからだった。以前誘ってもらったそのお返しに、こちらから誘うことになっていた。そうした状況があるのに、他の女の子を誘っている――厳密に言えば、友人に騙された結果なのだけれど、そんなことは瑛子には関係が無い――わけだから先約を得ている彼女としては、気分が良かろうハズがない。しかも、以前、彼女から誘われたときに、先約があるからと断ったことがある身としては、いっそう決まり悪かった。
「みなさんで一緒に回りませんか!?」
未来の花嫁候補の少女はそんな恐ろしいことを言い出したが、幸運なことに、瑛子にしても、その時出会った友人にしても、それぞれの連れと回ることを選んだ。別れ際に、宏人は、瑛子から意味ありげな視線を受けるでもなく、
「じゃあ、またね、倉木くん」
とむしろ愛想のいい声を聞いたが、それで、彼女が怒っていないなどという結論には至らなかった。宏人は、女の子と付き合ったことはないが、女の子がどういう生き物であるかということには多少の理解がある。というのも、一人いる姉が、日々それを教えてくれるからだった。たとえ笑顔でいたとしてもそれを仮面として、その下に般若の本心を隠しているのが女の子という生き物である。それは幼い頃から嫌というほど知らされてきたし、その祭りで出会った友人である少女Aにも教えてもらったし、当の瑛子からも以前に教わったことがあったのだった。こんなに勉強させてもらったわけだけれど、宏人は、それを特に有り難いとも思わなかった。というか、ありがた迷惑だった。できるなら、女の子というものが、砂糖菓子のように甘いものであるという幻想を抱いていたかったのである。幻想も一生抱き続けられるならばそれは現実となる。
ともあれ、宏人は、早急に瑛子を遊びに誘わなければいけなかった。女の子を、誘いたいというのではなく、誘わなければいけないという事態に、自身の進歩を見た宏人だったが、これも別に有り難いわけではなかった。
誘うのは簡単である。電話一つで事足りる。しかし、その電話をするのが、困難極まりなかった。瑛子の携帯電話の番号は知っているので、かければいいだけなのだけれど、かけてどういう風に言えばいいのだろうか。それも問題だし、仮に何かうまいこと言えたとして、そのときにどう対応されるか、冷たい反応をされたりしたら、身が縮むような気がした。別に瑛子は、宏人のカノジョというわけでは全然無い。そうして、カノジョにしたいとも思っていないわけだから、そんな子にどう思われたっていいと言えば言えるわけだけれど、そこはそれ、やはり宏人は思春期まっさかりであって、女の子にはそれがどんな子であれ、基本的には好かれたいと思っているので、どうでもいいということにはならないのである。
――ええいっ!
宏人は散々グズグズと迷った末に、男らしく携帯電話を手に取った。そうして、かけた先は、
「くだらない用だったら切るよ」
瑛子のもとではなかった。天はこの勇気の無さを笑うかもしれないが、宏人は、天から与えられたものは、七難八苦だけだと思っているので、特に気にかけるつもりはなかった。
「オレがくだらない用件で、わざわざ電話すると思っているのか?」
「前置きはいいから、本題に入って」
「……二甁のことなんだけどさ」
そこで宏人は、瑛子との現状を説明して、どうすれば角を立てずに、誘えるか、女の子視点のアドバイスを求めた。
「……あのさ、バカなの?」
「いや、バカじゃない」
「バカでしょ」
「何でバカなんだよ」
「たとえばさ、倉木くんが、わたしのことを映画に誘いたいとするよね」
「お前、映画行きたいの?」
「……切るよ」
「分かった、真面目に聞く。続けてくれよ」
「そしたら、どうやって誘う?」
「どうって……『藤沢、映画行かない?』みたいな」
「それでいいじゃん。二甁さんにも同じように言いなよ」
うーむ……と、宏人は内心でうなり声を上げた。これは、志保にだからできることなのである。瑛子にいきなり、どこどこに行かないか、なんていうのは、いかにも唐突で不自然じゃないか。
「じゃあ、自然ってなに?」
「え……」
「自然ってどういう状態?」
「……いや、だから、その当然の流れみたいな?」
「人が人を誘うのに当然なんて話あるわけないじゃん。もとから、不自然なんだから、不自然でいいのよ」
志保は、はっきりと言った。
これは、またうがった考え方だと、宏人は思った。
「お前って、恋愛経験豊富なの?」
「男子ってクサくて嫌い……あ、リオは別だよー」
どうやら、志保は電話の向こうで、年若い弟の面倒を見ているようだった。少年から姉を取り上げたくない宏人は、そこで礼を言って、電話を切った。誘うための、理論的根拠も得た。というか、そもそも、この前誘ってもらったお礼にという流れなのだから、そう言えば良かったことに、宏人は今さら気がついた。どうやら相当パニクっているらしい。宏人は深呼吸した。誘うことはできそうだったが、冷たい反応をされたらどうするか。決まっている、耐えるしかない。
――よし……。
といよいよ覚悟を決めた少年は、瑛子に電話をかけた。一回二回三回とコール音が響き、五回目で相手が出た。
「あ、あの、倉木ですけど……」
「はい、どうしたの?」
瑛子は特に機嫌悪そうな声音ではなかった。しかし、これにももちろん偽装の可能性があるわけで、安心していいわけでは全然無いが、怒りやいらだちを前面に押し出されるよりは、話がしやすいのは、確かだった。
「前に約束してただろ、今度はおれが誘うって」
「え、ああ……うん」
「だから、その……誘いたいんだけど、時間あるときある?」
そこまで言って、宏人は、これを言うために随分と回り道したもんだと思ったが、石橋は叩いて渡るに越したことはないと思っているので、それはよしとして、あとは、渡ったあとが楽園に通じているのか、それとも地獄に通じているのかを確かめなければならなかった。
「倉木くん……」
「なに?」
「別に無理しなくていいよ」
「え?」
「わたしのこと無理に誘わなくてもいいんだよ」
宏人はムッとした。彼としては、確かに義務感はあったとしても、嫌悪感があることをしているわけでは全然無いし、それに、
「そういう言い方って、人を試してるみたいに聞こえるから、やめた方がいいよ、二甁」
ということにもなるからだった。次の瞬間、
――しまった……。
感情に任せて余計なことを言ったことを、宏人は後悔した。こっちは、下手に出なければいけない立場であるのに、つい上から目線をやってしまった。これは、断られるなと思った宏人は、
「倉木くんの言う通りだね!」
と予想外に明るい声を聞いたあとに、
「じゃあ、お誘いに乗ろうかな」
と続いたことに、びっくりした。
「え、ほんと?」
「うん、ホント。ただし……」
「なに?」
「すごく期待してるから、ステキなところに連れてってね」
明るい声でプレッシャーをかけてくる瑛子は、やはり怒っているのではないかと宏人は考えた。
「わ、分かったよ」
「嬉しい。あ、そうだ、倉木くん」
「な、なに?」
「一応言っておくけど、わたし、男子に誘われたのって初めてなんだー」
いっそう朗らかな声で言ってくる彼女に、宏人は、瑛子みたいな素晴らしい女の子を初めてエスコートさせてもらえる栄誉に浴したことを光栄に思うこと、ならびに、その栄誉を汚す事がないようデートプランを含めてしっかりと振る舞うことを厳かに宣言した。
瑛子は、あはは、と笑うと、連絡待ってるから、と言って、電話を切った。
一仕事終えた宏人は、勝利を祝って、酒でも飲みたい気分だった。もちろん、未成年の彼はそんなことはできないので、ジュースでも飲みに階下に行こうとしたところで、志保から電話がかかってきた。
「どうだった?」
「うまくいったよ」
「それは何よりだけど、うまく行くかどうかは、その誘ったデートでうまくやるかどうかじゃないの?」
「お前はいつも冷静だな」
「褒められてるの?」
「けなしてはいない」
宏人は少し間を置いた。「……今ちょっと考えたんだけどさ」
「却下」
「聞こうよ! 世紀の名案かも知れないよ!」
「どうぞ」
「お前、女だよな」
「そう思ってくれてありがとう。明日から、希望を持って生きていけそう」
「シミュレーションに付き合ってくれないか?」
「はあ?」
「おれのデートプランをお前が試すんだよ。それで、本当にそれでいいかどうか、おれにアドバイスする」
「倉木くん……」
「ん?」
「バカだ、バカだと思ってたけど、そこまでバカだとは思わなかったわ」
「明日から、絶望して生きていけそうだよ。それで?」
「倉木くんさ、他人が履いた靴と、新品の靴、どっちが欲しい?」
「新品の靴かな」
「でしょ、そういうことよ」
「え、おい、ちょっとそれどういう――」
そこで、再び電話の向こうから、
「お姉ちゃん、誰とお話ししてるの?」
愛らしい声が聞こえてきて、
「お姉ちゃんのお友達よ」
と志保は答えた後、
「じゃ」
と一言言って、そのお友達との通話を一方的に打ち切った。取り残される格好になった宏人は、なにゆえ自分の名案が捨て去られたのか分からなかった。一つ分かったのは、この件に関して、志保の協力は得られないというそのことだった。