第196話:キミとボクの世界
太一と別れた。
これまで友人と別れたことがない怜は、つまりは、友人を持たない子どもだった。小学生の頃は親しい友人を持ったことが無く、中学生になってから何人か知己を得たわけだけれど、そのうちの一人であり、おそらくは、一番初めに出会ったのが、太一だった。太一は怜にとって、どういう人間だったかと考えれば、そういうことを考えるような関係ではないのが、友人関係ということになるわけである。
その友人関係をどうして解消することになったのか。これを明確にしろ、と言われても中々難しいし、その必要性も感じなかった。ただ終わったのである。何にでも終わりはあって、2時間の映画を、いくら楽しいからといって3時間観るわけには行かないのと同じことだった。そもそもが、彼の手をどうして取ったのか、それを覚えていないのだから、その手を放す理由が分からないのも当然かもしれない。
しかし、それに納得しない人間がいるのも、また当然というものであって、
「俊から聞いたんだけど、瀬良くんと絶交したって本当なの?」
その納得しない人間に詰問されることがあるのも、これまた当然のことかもしれなかった。
環とデートをした二日後の昼間に、佐伯澄が訪ねてきた。澄は、怜の友人の五十嵐俊のカノジョであって、怜にしても二年生のときに同じクラスだったこともあり、少し話すくらいの仲ではあった。
訪ねてきた彼女をまず応対したのが妹であり、運の悪いことに澄が目鼻立ちが整った子であったので、怜はまたあることないこと父母に吹き込まれそうだ、と戦々恐々とした。そうして無駄なスリルを楽しみながら、客に紅茶を淹れて出したのだが、彼女はそれに手を付けずに、太一との件につき、言及してきたのだった。
「そうだよ」
怜は簡単に答えた。
「理由は何なの?」
澄は、その小鹿のように純朴そうな瞳を、まっすぐに向けてきた。怜はどう答えればいいか、迷った。一番簡単なのは、
「キミには関係ないだろ」
と言うことであるが、そうすると、まず間違いなく、
「関係なくなんかない。わたしは、加藤くんのことも瀬良くんのことも知ってるんだから。知り合いなら、関係あるでしょ」
に類することを言われて否定されるのは目に見えた話だったので、言うのを控えた。「価値観の相違」なんていうことを言おうかとも思ったけれど、そんな何年か付き合った男女が別れるときに体裁を繕うために述べるようなことでは、現実的な澄には通用しそうにないことも明らかだった。
とはいえ、それでは、太一との間にこれまで起こったことを一つ一つ語っていけばいいかと言えば、それはそれで、個人情報の観点から問題があるし、そもそもがそういう積み重ねによって別れを選んだわけでもないので、よっぽどだった。結果、怜は、
「詳しくは言えないけど、少しの間、距離を置くことにしたんだ」
とだけ言った。結局、曖昧な言い方になってしまったわけだけれど、そうとしか言いようがないところである。案の定、澄は納得しなかった。それだけではなく、
「瀬良くんのことを嫌いになったわけじゃないんでしょ?」
「そういうことじゃない」
「絶対に許せないことをされたわけでもないよね?」
「ああ」
「だったら、どうして絶交なんてするのよ。話し合って、仲直りすればいいじゃん」
攻勢をかけてきた。澄は悪い子では全然ないが、自分が正しいと思うことを積極的に行うことができる子であって、しかもその正しさというのが、彼女個人のもの、というよりは、世間一般に信じられているものであるという部分が多分にあった。まあ、世間一般に信じられていることが、彼女にとっても信ずるに値することなのだろうから、その線引きは無いに等しいところではあるが。
怜はもちろん、他人の価値観にどうこう言うつもりはないけれど、価値観の押しつけは迷惑だった。しかし、そうはっきりと言うのは角が立つし、角が立つだけなら言ってもいいのだが、角が立った上に、その立った角にぶつからせることによって相手を激高させ、その結果、ますます相手が自身の価値観を強く信じるということになると、いっそう厄介なことになる。そもそもからして、尊敬する祖母に、
「女の子には常に丁寧に接しなさい」
と言われていたので、
「シュンはこの件に関してはどう言ってるんだ?」
怜は切り口を変えてみた。すると、澄は顔を暗くした。
「シュンは……『出会いがあれば別れがあるのは当然だよ』って言って、あんまり関心なさそうな感じだったの」
カレシでもなんでもない身が気を遣っているのというのに、カレシのこの気の遣わなさはどうしたことだろう。怜は、俊が羨ましくなった。
「でも、そんなの……だってさ、死別だったら分かるよ。でも、生きているんだから、やり直せるはずでしょ」
澄は悲痛な声を上げた。澄は、怜と太一のことばかりを言っているわけではなかった。彼女の気持ちは怜にも分かる気がするし、俊の言い方はやはり配慮を欠いているとも思った。それでも、どうしても俊の方が正しかった。出会いがあれば別れがあるのは当たり前であって、いつか来たる別れを意識するからこそ、出会いがそれだけ大切なものともなる。
「絶対にそうするべきだよ」
澄は力強く言い切った。彼女は善人である。それは間違いない。しかし、同じ善人であっても、その善には、たとえば、友人の賢のような想像力が欠如していた。自分の信じる善が、他者にとってもそうであるのかどうか、それをよくよくと考えなければ、神の供物となることで解脱を図った魚を無駄に助けてやった僧侶のごとく、善行は、単なるお節介となりかねない。
「仲直りするなら、わたしが間に入ってあげるから」
澄はそこまで言った。間に入ると言っても、彼女は、袂を分かった二人の少年と特別仲がいいわけでもない。それなのによくもそんなことまで言えるものだと、怜は呆れるのを通り越して、感心した。それだけ澄は本気なのだった。物事に本気で取り組むのは何も悪いことではないが、今回の場合は、怜にとって都合が悪かった。
紅茶は飲まれないままで、冷めたまま放っておかれた。おかげで、お茶のお代わりを勧めることもできない怜は、とりあえず、しばらくの間、沈黙を保ったのだが、彼女に帰ってもらういい案が浮かばない。どうにもこうにも、打つ手に窮したとき、ピンポーンとインターホンが来客を告げた。
ホッとした怜が、来客があったからといって全然安心などしていいわけではないことに、玄関に行くまでに気が付いたが、ドアを開いたときに心から安堵した。
「やあ、レイ」
まるで春風のような柔らかい微笑みでそこに立っていたのは、誰あろう、今まさに怜を詰問している少女の身元引受人だった。
「シュン……」
「スミちゃん、来てるかなと思ってさ」
怜は、俊を玄関に入れて、無言で女物の靴を見せた。
「やっぱりね。悪かったね、とばっちりでさ」
「とばっちり?」
「ちょっと口論になってね」
怜は、俊の、彼女に対する好意を感じた。というのも、合理性が服を着て歩いているような俊は、およそ、他人と口論をするハズが無いからだった。なんちゃって合理主義者は、自分の合理性を、非合理なほど声高に主張するが、俊のような真の合理主義者は、合理性というものが万人のものであることを認めているため、自身の正当性なんてものを主張する必要が無くて、結果、他人と口げんかなどしないのだった。
「上がらせてもらっていい?」
嫌でもそうしてもらうつもりでいた怜は、友人をリビングに招いた。俊がリビングに入ると、ソファから澄が立ち上がった。まさかカレシの姿を見るとは思ってもいなかったのだろう、目を瞠るようにしている。
「ど、どうして、ここにいるの、シュン?」
「決まってるだろ。スミちゃんを迎えに来たんだよ」
一瞬、澄の顔が輝いたのを怜は見逃さなかったが、俊が見逃さなかったかどうかは分からない。
「む、迎えに来てほしいなんて言ってないし、今は、加藤くんと話をしているから」
「レイの答えは、ボクの答えと同じだっただろ。だったら、ボクと話しても同じじゃないかな」
「お、同じじゃない」
澄は、ぷいっと横を向くようにした。
本来であれば、こういうカップル同士のごたごたを見聞きするのは、たとえそれが友人のものであっても、願い下げだったけれど、自分自身にも関わりがあることであるので、怜は耐えた。
「スミちゃん」
俊は、少女の元へと近づいた。
「ボクがスミちゃんと付き合っているのはどうしてだか分かる?」
「な、何よ、急に……」
「どうしてだと思う?」
「どうしてって……わたしが、去年告白したからでしょ」
「きっかけはそうだけど、今でも付き合っているのは、ボクがスミちゃんのことが好きだからだよ」
勘弁してくれ、と怜は思ったが、表情には出さなかった。
澄は言葉を失ったようだった。その沈黙の空間に、俊の綺麗な声が響いた。
「もしかしたら、ボクたちの関係はいつかは消えてしまうかもしれないよね。ボクはスミちゃんを嫌いになるかもしれないし、スミちゃんはボクではない別の人に告白したくなるかもしれない。でも、今この時は、ボクはスミちゃんのことが好きで、スミちゃんもボクのことを好ましく思ってくれているなら、それがいつまで続くかなんてことはそれほど大切な問題じゃないんじゃないかな。むしろ、せっかく付き合っているのに、こうして喧嘩するなんて、付き合っている貴重な一日を無駄にすることなんじゃないかな」
俊の少し高いけれど落ち着いた声音には、人をリラックスさせる力があるようだった。少なくとも怜は、体から張り詰めたものが減じたし、
「……それでも、わたし、加藤くんと瀬良くんに仲直りしてもらいたいの」
澄の口調からも、刺々しいものがなくなっていた。
「ボクは、はっきりと言えるけど、二人は仲違いなんかしてないよ。ちょっと距離を置いただけさ。嫌いになったわけじゃない」
俊の声はどこまでも透明で、怜も思わずうなずかされるほどだった。
「……分かった。シュンがそう言うなら」
澄はそう言うと、目前に置かれていた冷めた紅茶のカップを取ると、ぐいっと一息に飲み干して、
「お節介なことしてごめん、加藤くん!」
と怜に向かって頭を下げた。
怜は首を振って、彼女の行為を許した。
「じゃ、じゃあ、わたし、帰るから!」
そう言って、そそくさと帰ろうとする澄を、俊は、
「送っていくから、外で待ってて、スミちゃん」
声をかけた。すると、少女は、
「う、うん……」
とカレシの方を見ないでうなずいて、玄関へと向かった。玄関ドアが閉まった音がしたあと、俊は、怜に向かった。
「スミちゃんはいい子なんだ」
「知ってるよ」
「タイチから話は聞いたよ」
「今は別れても、いつかまたどこかでばったり出会うことになるかもしれない」
「地球は丸いからね」
「その時微笑み会うために今別れたとしたら、それっていいことだよな?」
怜が言うと、俊は軽く首を振るようにしながら、
「レイ、ボクにはそういう言い方はしなくていいよ。キミたち二人はただ別れただけさ。そこに目的なんて無い」
はっきりと言った。
怜はうなずいた。「キミとボクで話が済めば、事は簡単なんだけどな」
「そういう言い方をしてもらった方が、ボクとしては嬉しいよ」
俊は玄関へと足を向けた。そうして、玄関先で靴を履きながら、
「ボクたちもいずれ別れることになるだろうけど、それまでよろしくね」
と軽やかに言うと、怜の応えを待たずに、カノジョの元へと向かった。