第195話:出会いの中にすでに別れは芽生えている
ドーナツとストレートティの、素敵な組み合わせを楽しんだあと、怜は、環を伴って、再びバスに乗った。彼女の妹に賄賂を贈るためである。
「外堀を埋めないとな」
「外堀なんて、恋の翼で飛んでいけばいいんじゃないの?」
「飛ぶことはできても、撃ち落とされそうな気がする」
「誰がそんなことを?」
「城にいる誰かだよ。その誰かが待っているのが退屈になって、戯れに銃を持つなんてこともあるかもしれない。そんなところにほいほい飛んで行ったら、撃ち落とされることもあるだろ」
「だったら、待ちくたびれる前に飛んで行った方がいいかもね」
怜はバス停で、再び彼女の手を取って、バスの中へと導いた。それを見ていた大学生くらいのカップルのうち、女の子の方が男の子に手を差し出して、男の子を戸惑わせていたが、怜からは二人のやり取りは見えなかった。
「また眠ったら起こしてね」
「オレも眠ったらどうする?」
「そうしたら、二人で終点まで行きましょう」
このバスの終点は駅であるので、怜は安心して彼女の案に同意した。幸か不幸か、そのどちらでもないのか、眠くならずに駅まで着くと、彼女もとりあえず眠くはならなかったようである。
「もっと夜更かししておけばよかった」
残念そうに言う環の手を取って車外に安全に下ろしてやると、まだまだ高い位置にある日が、しかし、やはり控えめな輝きを世界に与えていた。
「雨の日もステキだけどね」
環が手を放さずに言った。
怜は、確かに、とうなずいた。雨の日は二人で雨音を聞けばいいし、風の日は二人で羽ばたいてみればいい。この「二人で」というところが、大事なところなのかもしれない、と怜は思ったが、言葉には出さなかった。言葉には出さなかったわけだけれど、環は、何もかも分かっていると言わんばかりの微笑みを浮かべていた。もっとも、彼女はたいていの場合、そんな顔をしており、事実、ほとんどの場合、何もかも分かっているのだった。
「手をつないでるところ、向こうから同じクラスのヤツに見られてるぞ、タマキ」
「知ってます」
この通りである。
カレシとカノジョなわけだから、手を握りあっていても何の問題も無いわけだけれど、問題が無いということだけでは、続けるべき理由とはならないような、そんな気がするのはどうしてか、何でも知っているカノジョに訊いてみてもいいかもしれないが、おそらく答えてくれずに、いっそう強く手を握られるだけだろうと怜は思った。
2、3分歩くと、環は手を放した。怜は、駅を横目に見ながら、彼女を歩行者天国になっているストリートへと連れて行った。軒を連ねるショップのうち小物屋に一緒に入ると、平日であるというのに、結構な人だかりであったのは、考えるまでもなく夏休みだからである。
「この中からプレゼントを見つけるっていうのは、砂漠の中から、一粒の砂金を見つけなきゃいけないような気になる」
「妹のために骨を折ってもらって、ありがとうございます」
カノジョの妹のために骨を折るのなら当のカノジョのためには何を折ってくれるのかな、という声がどこかから怜の心にこだました。怜は、男らしくその声を受け止めたわけだが、男がどうとか、女がどうとか、というのは本当にくだらないものだと思った。
「今、アサちゃんが興味を持っているのは何なんだ?」
それが分かれば、プレゼント選びも、ある程度簡単になる。
「そうですね……宇宙と恐竜かな」
「なんだって?」
「この頃、ずっと子ども用の図鑑を見ていて、星座の名前と恐竜の名前に関しては、わたしよりも詳しいくらいなのよ」
「星と恐竜か……」
これは、また深遠なものに興味を持ったものである。人形とかぬいぐるみのようなもっと世俗的なものを予想していた怜は、当てが外れた格好だったが、
「じゃあ、こんなのは喜ぶかな」
良さそうなものがあっさりと見つかった。
怜が手に取ったのは、恐竜の骨格模型だった。何という名前か分からないが、首が長い、おそらくは草食の恐竜だった。
「ええ、きっと喜ぶと思うわ」
「良かった。じゃあ、これを一つ確保しておこう」
「二つも買うなんてダメです」
「いや、一つしか買わないよ。これも喜ぶかも知れないけど、もっと喜ぶものがあるかもしれないだろ」
「わたしと妹の差って何なのかな?」
「突然、何だよ」
「突然、気になったんです」
「そんなの簡単だろ」
「後学のために、聞いておきたいわ」
「アサちゃんは可愛い女の子だ。それに対して、タマキは……」
「レイくん、発言に気をつけてね。乙女心って、その模型細工よりももろいんだから」
「タマキはタマキだよ。それが、二人の差だな」
環は、ふうと息をつくと、
「心がバラバラにならなくてホッとしたわ」
と笑顔で言った。
怜は一通り店内を見て回って、星と恐竜に関するグッズを見てみたが、初めの模型が一番良さそうだった。それを持ってレジに並ぶと、
「ついでに、クレープも食べていくか?」
環に訊いてみた。
「レイくんは、何か誤解していると思うんだけれど」
「そうかな」
「そうよ。わたし、ひっきりなしに何か食べたいと思っているわけじゃありません」
「そんなことは思ってないし、食べているときは静かでいいとか、そんなことも思っていない」
怜は、環の片眉が綺麗に上がるのを見た。
「わたしだって、その気になれば、しゃべらないこともできるわ。赤毛のアンみたいに」
「アンはおしゃべりの代名詞じゃないか」
「美しいものを見ているときは、アンも静かになるのよ」
「じゃあ、今度、美術館でも行くか?」
「海まで行って朝日を見るっていうのはどう?」
「それをまだ約束していなかったっていうのは、驚きだな」
「約束……してたかもしれません」
「だろうな」
会計を済ませると、怜は、環をどこに誘おうかと思った。このまま帰ってもいいけれど、まだ日は高く、せっかく付き合わせたのだから、もう少しエンターテインメントを提供しなければならないという義務感を持っていた。行こうと思えばどこにでも行けた。カラオケもボーリングもゲーセンも、それらは得意というわけではないけれど、行けないことはない。映画を観てもいいし、美術館に行ってもいい。本当にクレープを食べに行ってもいい。本屋で参考書を見るというのもいいし、図書館で小説を買うのもいい。しかし、そのどの選択肢も環は取らなかった。
「今日はもう十分です」
「明日があるとは限らないぞ」
「明日があるとは限らないからって、今日を無理やり目いっぱい楽しまないといけないとしたら、それって、すごく不自由だと思う」
環の言う通りだと、怜は思った。
「でも、我がまま言っていいかな?」
環は目を伏せ気味にしながら言った。
「なぜか我がままには耐性があるんだ」
怜が言うと、
「レイくんって、時々、ほんの少しだけど、意地悪くなりますね」
環はすぐに目を上げた。
「だから、いつもキミの心の広さに感謝しているんだ」
「その感謝の気持ちを行動に移してもらえるなら、ここから歩いて家まで帰ってもいい?」
駅前から歩くと、自宅まで30分ほどの道行きであって、何ほどのこともない距離だった。それを我がままと称するのだから、怜は、カノジョの謙虚さを褒めた。
「全然謙虚なんかじゃありません」
「そうかな」
「だって、時間ってもう二度と元に戻らないものでしょ」
なるほど、そう考えれば、お金よりもよっぽど重要なものということにもなる。
怜は、環を伴って、国道沿いの歩道を歩き始めた。
「時間が元に戻らないっていうのは、本当なのかな」
「レイくん?」
「いや、塾の先生が、以前言っていたんだ。『人生を全て生きたわけじゃないから、今日という一日が本当にもう一度巡ってこないのか、わたしには分からない』って」
「山内先生ね」
環は、夏休み期間中だけ、怜の在籍する塾に通っており、彼女の担当も、怜が担当してもらっている女性講師だった。
「祖父母以外で、初めて尊敬できる大人に会ったよ」
怜は本心からそう言った。たとえ、受験が失敗しても、講師への尊敬の念は変わらないだろう。そうして、そういう大人がいるということが分かったことが、怜にとっては大変な収穫だった。人は子どもから大人になることを成長と言うが、
「それは必ずしもいいことだけではなく、そこには、失われるものもある。それを失っていない人が山内先生なんだとオレは思う」
と怜が言うと、環はうなずいた。
「最初に会ったときにね、わたし、『学校の勉強って何の役に立つんですか』って訊いてみたの」
怜は少し驚いたが、環の意図はすぐに理解できた。
「そうしたら、先生、『あなたが言う、役に立つ、っていうのはどういう意味なの?』って訊いてきて、わたしが答えないでいると、笑いながら、『あなたは加藤くんのお友達でしたね。わたしの首実検はこれで済みましたか?』って言われちゃったわ」
環の意図が分かったのは、初めて山内講師に会ったとき、怜も同種のことをしたからである。それでも、環が人を試すことをするのは、少々意外だった。
「わたしも乙女ですから」
環は謎めいたことを言った。といっても、大抵彼女は謎めいているのだが。
「何にしても、いい方に担当していただけて、よかったです」と環。
「それ以上、成績を伸ばすつもりなのか?」
「わたしは、レイくんのことを言ってるのよ」
「ありがとう、母さん」
「次にそんな口利いたら、向こう1ヶ月間おやつ抜きにするように、おばさまにお願いするから」
前から来た自転車を避けるために、怜は脇に寄って、一緒に環も自分の元に寄せた。自転車は道路を走らないといけないことになっていたが、大型の自動車やトラックがビュンビュンと風を切って走る道路を走る気になれないのは、ある意味で、当然のことだった。
「ありがとう、レイくん」
「どういたしまして」
「今のこともだけど、今日付き合ってくれて」
「いつだって付き合うし、おれの方も、その分付き合ってもらうさ」
怜は環の手を取って、そのまま歩いた。そうして、しばらくも歩かないうちに、
「しまった」
「どうしたの?」
「忘れてたよ」
「何を?」
「円ちゃんへのお土産」
「……レイくん」
「いや、これは純粋に儀礼的なものなんだ。他意は無いよ」
「妹が二人だけで良かったわ。もしもう一人いたら、発狂しそう」
「オレは一人でもノイローゼ気味だけどな」
そうやってじゃれ合っているところに、前から、同じくらいの年の少年が歩いてきて、思わず立ち止まって避けようと思ったところで、
「太一……?」
怜は、友人の顔を見た。よく見知っているはずの友人のルックスに関して、頭の上に疑問符が乗ったのは、彼がいつもしっかりと整えている髪を、その髪ごとさっぱりと切って、スポーツ刈りにしていたからだった。出会ってからこれまで、太一が頭を丸めたことはなかったので、戸惑ったわけだけれど、顔のパーツは、確かに彼なのだった。
「笑えるだろ、レイ?」
太一はいきなり言った。隣に環がいるのだが、そちらの方は全く見なかった。
「ああ、笑える」
「じゃあ、これで水に流してくれないか?」
そう言って、太一はまっすぐに怜を見た。
怜は、ほとんど間を置かず、答えた。
「お前の気持ちは見せてもらったよ。でも、それはそれ、これはこれだ」
そう言うと、怜は、痛みに耐えるように目をつぶっている友人のそばを、環と一緒に通り抜けた。
太一は、一言も発せず、追いかけても来なかった。少し歩いたあとに、
「知ってたのか?」
隣に聞くと、少女は、
「二人の関係の修復について、瀬良くんからではなくて、西村くんから頼まれました」
と簡単に答えた。
怜は、篤実な友人である賢がしたことであれば、おそらくは彼の方が正しくて、自分の方が間違っているであろうことを認めた。しかし、人は正しいことばかりを選択できるはずもないのであれば、その都度の自分の選択を受け入れて進んで行くしかないのだった。
それから、およそ15分の間、環の家に着くまで、彼女は無言だった。まるで、何かに哀悼の意を表するかのようなその沈黙が、怜の胸に静かに浸みた。