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プラトニクス  作者: coach
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第194話:幸せまでの距離

「父が(レイ)くんに会いたがっているんですけれど、お時間くださいませんか?」

 電話から流れるカノジョの声に、怜は不審を覚えたりはしなかった。もちろん、カノジョの言葉に疑念を抱くなどということはあってはいけないことであって、あってはいけないことを無いことにするくらいの分別を怜は備えていた。

「わたしがいつもレイくんのお家にお呼ばれしているので、そのお礼を申し上げたいそうです」

「お父さんには、『お気持ちだけいただきます』と伝えてくれないか?」

「父はきっとこう答えると思うわ。『そう言わず、是非とも』」

「はっきり言っていいか? 率直に、正直に」

「わたし、捨てられるのかな?」

「なんだって?」

「別れ話かなと思って、先手を打ちました」

「捨てるって、誰が誰を? 逆はあっても逆はないよ」

「あら」

(タマキ)の話じゃなくて、お父さんのことだよ」

「どうぞ。自分のことじゃないならオブラートに包んでもらわなくても、気が楽だわ」

「お父さんのことは少し苦手なんだ」

 そう言ったあと、怜は、

「でも、誤解しないでくれよ。苦手っていうだけだからさ。ブロッコリーみたいなもんだ。それ自体は素晴らしい食品だけど、いざ食べるとなると勇気がいる。分かるだろ?」

 続けた。

「ええ、分かってる。歯医者みたいなものだよね、行かなくてはいけないんだけれど、気が進まない。でも、行かなければいけない」

 怜は観念した。もともと彼女に勝てるとは思っていない。思っていないことをするのはどうしてか。思春期ゆえか、それとも男の意地か、あるいは、彼女とじゃれあいたいと思っているのか、どの答えも気に入らなかったので、怜は考えるのをやめた。そもそも、行動の理由をいちいち探すのは卑しい(わざ)である。

「レイくんには、もっと乙女心を勉強していただきたいと思います」

「乙女って、お前のことか?」

「そうはっきり言われると照れちゃう」

乙女(おとめ)がいるなら、甲女(こうめ)もいるのかな」

「こうめ?」

「乙があるなら甲もあるだろ」

「参考までに、それはどういう女の子になるの?」

「乙より上等なわけだから、そうだな、まあ、付き合っているカレシに無茶を言わないとか、無茶をさせないとか、プレゼントをねだらないとか、そんなんじゃないのか?」

「分かったわ」

「本当に?」

「うん。甲女なんていうものがどうして存在しないのか。そんなのつまらないもの」

 カノジョのお父上との会合は、お盆が終わった後の土曜日ということに決まった。怜は、嫌なことは先に済ませたい主義だったが、カノジョの父親に会うことは、モチロン、嫌なことなんかではないので、もっと予定を先にしてもらっても問題なかった。一年後とか、あるいは、十年後とか。

「ところで、レイくん、今お暇ですか?」

 暇と言えば暇であり、暇じゃ無いと言えば暇では無い。つまり、勉強中だったのだ。怜は、春先に、勉強にかまけてカノジョの相手をするというカレシとしての責務を、まったく怠り、その結果、カノジョの友人の一人から激しく糾弾されるという憂き目に遭ったことを、忘れていなかった。

「暇だよ」

「ホント!? 実はわたしも暇なの。こんなグウゼンってある?」

「キセキだな」

「今日この日を二人の記念日にしない?」

「記念日にはそれにふさわしい行動をしなくちゃいけないよな。こんな風にただ電話で話をしてるだけじゃなくて」

「催促したみたい」

「まさか」

 怜は、二人の家の間あたりにある公園で、待ち合わせることにした。時刻は昼の1時を少し回ったところである。孟夏の太陽には、しかし、時折雲がかかって、歩きやすい日和だった。さして汗をかかずに公園に着くと、子どものはしゃいでいる様子と、その様子をどこか気だるげに見ている親の姿を、ちらほらと見かけた。

「お待たせしました」

 怜が到着してから、二三分して環が姿を現した。身に着けていたワンピースは白色のノースリーブで、いかにも涼しげだった。

「今日は日焼けの心配もあまり無いようですから」

「よく似合ってるよ」

 怜が言うと、環は何も答えずに、そのつぶらな瞳をカレシに向けてきた。

「夏の妖精がいるとしたら、きっとキミみたいな子だろうな」

「ありがとう。レイくんも素敵だよ」

 怜はその言葉だけで満足して、カノジョを見返すような真似はしなかった。そうして、環を伴って歩き出したわけだけれど、どこに行く当てもない。どこか行きたいところがあるかどうか訊いてもよかったが、ただ彼女に訊くのも、何にも考えていない男のようで、そういう人間であることに怜自身は特段痛痒(つうよう)を覚えないのだけれど、そんな男と付き合わせているということになれば、彼女に対して失礼であるとの思いから、

「ドーナツでも食べに行くか?」

 訊くと、環は、嬉しそうに微笑んだ。

「そんなにドーナツ好きだとは知らなかったよ」

「ドーナツももちろん好きだけど、レイくんが約束を覚えていてくれたことが嬉しいの」

 怜は以前、町内一周ツアーという、非常にお財布に優しいデートをしたとき、カノジョとそんな約束をしていたのだった。

「キミとの約束を忘れるなんてこと、あるわけないだろ」

「本当?」

「トーゼン」

「じゃあ、クレープは?」

「覚えているよ」

「ケーキバイキング」

「……したか、そんな約束?」

「今したでしょ。この件に関して、議論する?」

 せっかくの過ごしやすい夏の日に、負け戦をする気分では無かったので、怜は遠慮した。

 ドーナツ屋へのアクセスは(つまび)らかではなかったので、勢い適当な行き方になるが、それもそれでいいだろう、と怜は考えた。なんとかなると特に根拠も無く思いみなした怜は、近くのバス停まで、カノジョを隣にして歩いた。

「他に約束していることがあったら、確認しておきたいんだけど」

「うーん……そうね、色々とあるけど、それはわたしがしかるべきときにお教えします」

 怜は、対カノジョとの間に、情報の非対称性があることを認めた。こっちは知らないのに、あっちは知っている。確かこのテーマで、ノーベル賞を取った学者がいるということだったが、その彼、もしくは彼女に、この不均衡はどうやって是正されるのかということを尋ねてみたかった。

 バスが来た。開いたドアからステップを上がると、怜は続いて入ってくる環に手を差し伸べた。彼女は、まるでそれが分かっていたかのように、スムーズに手を取って、車内の人になった。折良く、二人がけのシートが空いていたので、怜は、環を窓側に座らせた。

「ありがとう」

 礼を言う少女の隣に腰を下ろした怜は、すぐに、バスが動き出すのを感じた。

「下の妹が、レイくんに会いたがってました」

「アサちゃんは、まだ小さいのに、人の価値というのを正確に把握することができるんだ。大したもんだ」

 怜が大仰にうなずくと、

「妹のことながら、わたしもそう思います」

 環は真面目な声を返した。しかし、怜が目を彼女に向けて、その横顔を確かめると、窓外から差す夏の日に照らされて、微笑しているようだった。楽しんでもらえれば何よりである。

 バスは何回か停車と発車を繰り返した。そろそろだろうか、と思った怜は、次の駅で降りるために、停止のボタンを押そうとして、他の人に先に押されてしまったため、空中に指を止めるという失態を犯した。しかし、その失敗をカノジョに見られることはなかった。というか、彼女は何も見ていないようだった。目をつぶっていたからである。

「タマキ……」

 怜がそっと声をかけると、環はハッとして、目を覚ました。

「ごめんなさい、何だかレイくんの隣でうとうとするのが癖になっちゃったのかな」

「昨日、夜更かししてたんじゃないか?」

「昨日寝たのは11時頃だよ」

「なるほど、じゃあ、睡眠不足ってわけじゃないんだな。体調不良は?」

「少なくとも自覚症状は全然無いわ。わたしの何かしらの病気が移って、レイくんがダウンして、わたしが元気だったら、看病に行ってもいい?」

「来てもらったって、ただ寝てるだけだよ」

「だからいいんでしょ」

 なるほど、確かに、眠っていてもらった方がいいということもあるかもしれない、と怜は、今まさにカノジョがそうしてくれていたときの平和を想って心中でうなずいたが、口には出さなかった。

 バス停でバスを下りると、目的の店は向こうに見えていた。童話に出てくるお菓子の城のようなたたずまいは、受付がカギ鼻の老婆ででもあればより雰囲気が出たところだけれど、席まで案内してくれたのは、鼻筋の通ったお姉さんだった。

 テーブルに着いたあとに、

「店内で良かったか?」

 今さらなことを怜が訊くと、環は考える振りを作った。

「レイくんが、わたしのドーナツとロイヤルミルクティを持ってくれるなら、テイクアウトしてもいいよ」

「そうしたら、オレのドーナツとストレートティは、誰が持ってくれるんだ?」

「それは、世の中にある解決不可能な問題の中に新たに加えるべき、難問ね」

 うら若きウエイトレスさんは、中学生カップルのやり取りに、にこやかな笑みを作りながら、注文を取ってくれた。

「美味しいものを食べると、幸せな気持ちになるよね」

 環は、ちっちゃなテーブル越しに、微笑みを投げた。

 怜はうなずいた。「なぜだかそういう風にできているな」

「幸せってほんのちょっとしたことなのかな」

「それは感受性によるんじゃないか」

 大金を持っていても幸福を感じられない人もいれば、立って歩くだけでも幸せを認められる人もいる。

「わたしは今まさに幸せだよ」

 環はアーモンド型の瞳を、キラキラと輝かせた。

「ドーナツが来てないのに?」

「ドーナツが来てないのにね」

「じゃあ、ドーナツ屋に来た意味が無いんじゃないか?」

「そういうことじゃないよ。でも、あえて、ドーナツ屋さんである必要は無いかな」

「じゃあ、やっぱり意味が無かったってことにならないか?」

「なりません」

「どうしても?」

「どうしてもです」

 なるほど、と怜はうなずいておいた。彼女の幸せは彼女のものである。そうして、今日ここに来たことが彼女の幸福に寄与するのであれば、それはまた怜の幸せでもあった。

「オレも幸せだよ」

「ドーナツが食べられて?」

「何を食べるかは関係ない。誰と食べるかだろ」

「何を食べるかが関係ないなら、じゃあ、今度はまた別のものが食べられますね」

「クレープも好きなんだよな」

「前に言ったことあったっけ?」

「ああ」

「ケーキは?」

「聞いた覚えがある」

「おだんごとおまんじゅうの話はしたっけ?」

「今聞いたよ」

「よかった」

 色々と一緒に食べられて、そのとき、彼女が幸せになるのであれば、結局はそれが怜の幸せになるわけである。いつからそんな関係が成立してしまったのか分からないが、今はカノジョの相手をさせていただく栄えある時間である、その問題に関しては、あとからじっくり考えることにして、とりあえず「難問フォルダ」に放り込んでおいた。

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