第192話:身の回りにあるものの価値
姉の友人たちに挨拶した円は、
「マドカちゃんも一緒にケーキ食べようよ」
という誘いを、宿題がありますから、と丁重に断って、階上の自室に引っ込んだ。一緒に妹も連れて行こうと思ったけれど、彼女にはまだ姉と友人たちの邪魔をしないようにするという分別は無く、それでも無理やりにでも引っ張っていくこともできないでもなかったが、当の彼らが許してくれたので、置いてくる格好になった。
自室のドアをぴたりと閉じて階下の賑やかさを閉め出した円は、机の上に乗っている夏休みの宿題があらかた済まされていることを確かめた。ケーキのお相伴のお誘いを断るのに宿題を持ち出したのは方便に過ぎなかった。一つところに姉といることによる居心地の悪さと、先輩から可愛い子ども扱いされることに対する嫌悪感……とは言わないまでも違和感が本当の理由である。
――スズちゃんのところに行こうかな。
その点、姉のまた別の友人である橋田鈴音といるときは、姉たちといるときに感じるプレッシャーというものがまるで無いのだった。
いきなり訪ねたら迷惑だろうか。いや、きっと喜んでくれそうな気がした。とはいえ、家にいないかもしれないので、円が、スマホを使ってメールしてみると、
「ごめんね、マドカちゃん。今出かけてて、今日は夜まで帰れないの」
すぐに返ってきたメールが想像通りだったので、びっくりした。びっくりしてがっかりしたのだが、もちろん、その残念さをメールに表すことはせずに、
「突然、申し訳ありませんでした」
メールを書くと、
「突然会いに来たくなってもらえるなんて、嬉しいよ。今日は難しいけど、明日でも明後日でも空いているからね。マドカちゃんが時間あったら、会おうよ」
と返ってきたので、お言葉に甘えさせてもらうことにした。
円はスマホを机の脇に置くと、勉強することにした。夏空からの明るい光を窓越しに受けながら数学に取り組んで一時間も勉強していると、肩や腕が張る心持ちがして、屈託してきた。円は椅子から立ち上がると、大きく伸びをしてみた。勉強に関しては、それほど面白がっているわけではないけれど、苦にしたこともなく、一時間程度で疲労するということは普段はなかったが、どうやら今はあまりやる気がしないようである。
部屋を出て、階下に行くと、みんなでボードゲームでもやっているのだろう、わいわいとした声が聞こえてきた。円は、賑やかな声を聞きながら、そっと玄関で靴を履いた。妹を遊びに連れ出したばかりであったけれど、もう一度外に出ると、夏空にはうまいこと白雲が伸びていて、天気は良いのだけれど、蒸し暑さは感じなかった。
どこに行こうという当てもなかったが、近くの公園まで行って帰ってくるつもりである。円の住む町には公園が数多くあって、家から、大体同じくらいの距離に三つほどあった。さっき妹と出かけたときにも公園に連れていってやったわけだが、その公園とは別の公園に足を進めた。
時刻は夕方の四時半であり、まだ日は高い。目的の公園までは、二十分ほどで着く。歩道を歩いていると、クラスメートらしき男女を、一人ずつ見かけた気がした。歩いているうちに、円は気分が爽快になってくるのを覚えた。さっき出かけたときは、ちょろちょろと動き回る妹の面倒を見なければならず、爽快どころの話ではなかった。
五時前に公園に着いた円は、犬を連れた老人や、携帯ゲーム機を持った子ども達の姿を見た。彼らの姿を尻目にして、外周をぐるりと一周することにする。しっかりと整備された歩道の上には、夏の木々が緑の天蓋を作っている。それらの影の下を歩くと、空気はひんやりとして、深呼吸すると体の中が綺麗になるようだった。
姉のことも妹のことも、誰のことも何にも気にせずに、ただ自分でいられたら、どんなにか素晴らしいことだろう。そう考える一方で、姉も妹も誰も彼も存在しない世界に住む自分は、すでに自分ではないような気もした。こうして、この世界に生まれたというそのことをまず認めなくては、どこにも行けないような気がする。それはちゃんと理解しているのだけれど、理解しているような気がするのだけれど、それでもなお納得できないものが澱のように心に溜まるのだった。
「あのさ……」
半周ほど過ぎたところで、突然、後ろから声をかけられたので、円は、思わず両肩を震わせた。振り返ると、少年の姿がある。頭を綺麗にスポーツ刈りにした、生真面目そうな顔立ちをした、円と同じ年頃の男の子だった。
――どこかで……。
見たような顔だったけれど、誰かは思い出せなかった。
「何ですか?」
怪訝に思った円が用件を尋ねると、
「ワカナの友達……だよな?」
少年が尋ねてきた。
若菜というのは、円の友人の少女の名である。円がうなずくと、
「おれ、花沢友樹って言うんだけど、おれのこと覚えてる?」
と訊いてきた。
円は正直に首を横に振った。
「すみません。どちらかでお目にかかりましたか?」
と訊いた途端に、思い出した。彼に会ったのは、遊園地でのことだった。若菜と行った遊園地で帰り際に現われて、若菜に告白した男の子だった。若菜から正式に紹介されたわけでもなく、告白が失敗したあとにすぐにその場から立ち去ったので、即座には思い出せなかったのである。円は、自己紹介し始めようとした彼を遮る形で、
「思い出しました」
と言った。
「あ、そう……」
友樹くんは、拍子抜けした表情でそう言ったきり、口を閉ざした。円は彼が口を開くのを待った。全体何の用があって声をかけてきたのだろうかと思った円だったが、考えるまでもなく、それは若菜の件であるはずだった。
円は歩道の脇に身を寄せた。人なつこそうな顔をした中型犬を二匹引いた老婦人が歩いてくるのが見えた。円が動くと、友樹くんも慌てて、彼らを通すようにした。
犬たちと婦人が去ったあと、円は彼に話を促すことにした。せっかくいい気分で歩いてきたのに、声をかけられたことでそれが台無しになりかけていた。用件があるならすぐに言ってもらって、それを済ませて、残りの半周も同じ気分で歩きたかった。
「あの、どんなご用件ですか?」
「……ワカナと仲いいんだよな?」
「普通だと思いますけど」
若菜とはクラスメートの縁で多少おしゃべりをするのと、休日に一度遊びに行ったことがあるくらいのものである。その一度の遊びというのは、件の遊園地だった。
「ワカナはさ、その……瀬良のこと好きなのか?」
友樹くんは、実直そうな顔立ちを苦しげに歪めながら訊いてきた。瀬良というのは、円の学校の先輩男子の一人である。円は呆気に取られていた。若菜が誰のことが好きかなんて、そんなこと、分かるはずもない。しかし、今にも吐きそうな気分の悪そうな顔をしている彼を、そう言って突き放すことはためらわれた円は、
「ワカナちゃんは、瀬良先輩からの告白を断りました」
と言ってやった。すると、
「それはワカナからも聞いたよ。でも、告白を断ったけど、好きなことってあるだろ?」
いっそう円を呆然とさせるような言葉が返ってきた。普通は、告白を断ったということは、好きではないということにしかならないと思うけれど、そういう単純な考え方は、恋愛初心者だから持つものなのだろうか。円は、恋愛に関しては造詣が深くないことを認めるものであるけれど、だからこそ、自分にその手のことを訊かれてもどうしようもないと開き直ることもできた。しかし、そうはせずに、
「ワカナちゃんは、瀬良先輩のこと好きになりかけていたけど、でも好きにはならなかった。だから、告白を断ったんだと思うよ」
と答えてあげた。大して知りもしない男子に対して、最大限の好意を示したのである。自分で自分を褒めてやりたい所作だった。だが、友樹くんは特にそれに感謝した風でもなく、
「おれのこと、何か言ってないか?」
次の質問を出してきた。
円はムッとした。いったい何なのだろうか、この時間は。円は彼のカウンセラーではない。時間を割く義務もなければ、大して知っている仲でもないわけだから、義理だってなかった。それにも関わらず、好意を与えたのである。そもそもが、いきなり呼び止めて、相手に時間があるかどうか聞きもしないうちから、質問し出すこと自体が、失礼だった。
「特に何も聞いてないです。それじゃあ」
そう言って、背を向けて歩き出そうとしたところ、円は、進行方向に回り込む少年の姿を見た。
「ちょっと待ってくれよっ」
その顔に必死の表情がある。
「ワカナにおれのことどう思っているか、訊いてくれないか?」
すばやく出された言葉に、円はその瞳を大きく見開いた。当然に断るために、口も開きかけたところ、
「この通りだ!」
先手を打って、彼は両手を合わせて、頭を下げるようにした。友樹くんが真剣であることは分かったけれど、彼の肩を持てば若菜に迷惑をかけることは分かり切った話であって、若菜と彼を天秤にかけたとき、どちらが乗った皿が沈むかはっきりしている現状では、できない相談だった。
「ごめんなさい。できません」
円は、はっきりと断った。
「ちょっと聞いてもらうだけでいいんだよ、頼むよ!」
友樹くんは坊主頭を上げずに続けた。
今言ったことを聞いていなかったのだろうか。できないと断ったのにまた頼んでくる彼の図々しさに、円は呆れた。
「自分で聞いてみたらいいんじゃないですか?」
話を早く終えたくてそう言ってみると、友樹くんの顔が上がった。その顔はみるみるうちに赤くなって、
「自分で聞いてみても、ちゃんと答えてもらえないから、頼んでるんだよっ!」
彼は怒鳴り声を上げた。そのあと、すぐハッとしたような表情をして、
「ごめん……」
としょんぼりとした様子を見せた。気はいい子なのかもしれなかったが、怒鳴られて、なお円の気分は悪くなった。
「自分で聞いてみたんですか?」
「ああ……」
「ワカナちゃんは、なんて答えたの?」
「友達としか見られないって」
「じゃあ、ちゃんと答えているじゃないですか。それがワカナちゃんの本心じゃないの? どうしてそれを信じられないの?」
「だって、おれとワカナはずっと一緒で、おれはワカナのことがずっと好きで、ワカナだって、おれのこと好きなハズなんだ」
円は頭がクラクラするのを覚えた。好きな「ハズ」なんてことを言い出して、相手の気持ちを勝手に決めつけたら、本心を知ることなんてできようはずもない。ここに至って、円は、若菜が彼とは付き合えない理由が明確に分かった気がした。二人は幼なじみであるらしいけれど、単に幼なじみであるということでもって、相手も自分が好きなハズだという幻想を抱き続けて、好かれ続ける努力もしないような人がいたら、そんな人と付き合うのは円だって願い下げである。
「おれさ、本当に、ワカナのことが好きなんだよ……」
友樹くんはボソボソと言った。
本当に本当に好きだとしたら、相手から好かれていないのならば、身を引くべきなのではなかろうか。
「頼むよ、なっ」
円は、静かに首を横に振った。
「お断りします。ごめんなさい」
そう言って、はっきりと彼の目を見つめてやると、友樹くんは、泣きそうな目をしたあと、いつかの遊園地と同様に、その場からダッシュで走り去った。円はホッと息をついた。途端に、疲労を覚えて、その場に座り込みたくなった。理屈が通じない人と話をすることが非常に体力を使うものであるということを知った思いである。円は、普段自分がいかに周囲の人に恵まれているのかということを認めた。その周囲の人には、当然に、姉やその友人も入っていた。