第191話:環、友人のカレシから頼み事をされる
そろそろお盆にかかる頃、環は、珍しい客を得た。
友人の日向と、その幼なじみの賢である。
日向はよく遊びに来るけれど、幼なじみを伴って来たことはない。
「どうしたの、二人揃って」
環は、二人をリビングに通して、お茶を淹れた。
「川名に相談したいことがあるんだ」
ラグの上に腰を下ろし、足の短いテーブルについた賢が切り出したが、特に神妙な面持ちでもない。それほど深刻な相談でもなさそうである。というよりも、この二人であれば、深刻な相談なら自分たちで処理するだろう、と環は考えた。
「なんでしょう?」
環が彼の前に座ると、
「タイチのことなんだけど」
そう言って、賢は、友人の瀬良太一から、環のカレシである怜へのとりなしを依頼するように頼まれたことを告げてきた。二人の仲が、太一の何らかの行動によって悪化したらしく、その修復をしてもらいたいということである。太一が自分で来ればいいのに、賢を通そうとしていることには、慎重さが窺える。自分自身で来たら断られるかもしれない、と考えているのだ。そうして、それはおそらく当たっていた。
「それは、レイくんと瀬良くんの問題だから」
「うん、オレもそう思う」
賢は、はっきりと言った。そう思っていながらも、こうして彼のために行動するところに、賢の良さがある。
環は、賢の隣に座を占めていかにも興味ありそうな顔をしている日向を見た。
「ヒナちゃん。この件に興味無いでしょ」
「分かる?」
と日向は悪びれずに言った。
「分かります」
「はっきり言ったら賢に悪いから言わないけど、でも、自分で仲直りしに行かないなんて、男らしくないと思う。悪いと思ってるなら、そう言って、あとは、許してくれるまで玄関先で土下座でもしていればいいんじゃないの? それを賢に頼むなんてバカみたい。もとから何とも思ってなかったけど、いっそう見損なったよ」
「……それ、はっきり言ってないのか?」と賢。
「うん。お望みなら、はっきり言ってもいいけど」
「いや、いいよ」
日向は何をしにここに来たのかといえば、当然、賢が、親友であると言っても環のところに一人で来ることを快く思わず、ついてきたのだろう。それは一見、賢と環のことを信頼していないかのような行為であるけれど、もしもそんなことを訊いたとしたら、
「信頼はしているけど、自分の目と耳で確認したいの」
そう日向なら平然と答えるだろう。それは非常に好感の持てる話である。信頼という美辞でもって行動を起こさない理由とするような怠惰を、環は好まない。
「お断りします」
環は、はっきりと言った。
賢は怜の友人である。その頼みであればたいがいのことは引き受けたいという気持ちはある。しかし、それが当の怜の件であれば、話は別だった。怜は、環が何をしてもそれでもって嫌うということはないだろうが、だからこそ、怜への対し方、行動には厳しい選別が必要なのだった。
「ありがとう」
賢は言った。特別がっかりした様子もないのは、自分とは直接的な関係がないことだ、というような捨て鉢な気持ちを持っているわけではなく、自分にできることしかできないという不変の真理を知っているからだろう、と環は思った。それもそれで好感の持てる話である。
「西村くんは甘いものは大丈夫?」
環が尋ねると、賢はうなずいた。
「午前中に、ちょうどケーキを焼いたの。自家製で不格好だけれど、よかったら、二人で食べて」
そう言って、環が席を立つと、手伝うよ、と日向もすっと席を立った。
環は、日向の申し出を受けると、ケーキを切り分けている間、もう一杯お茶を淹れてもらうことにした。冷蔵庫から生クリームとミカンでデコレーションされたホールケーキを取り出すと、
「めちゃめちゃ美味しそうだね。お店で売ってるヤツみたい!」
日向が、大げさな声を上げてくれた。
「ホイップクリームも生クリームから泡立てて作りました」
「おーっ」
パチパチパチと手を叩いた日向は、
「今度、お菓子の作り方教わろうかなあ」
言った。
「いつでもいいよ。でも、ヒナちゃんが、お菓子作りに興味あるなんて知らなかったな」
「今唐突に持ったの」
「なるほど」
「誤解しているでしょ、タマキ」
「ちゃんと理解していると思うよ」
「そうかな」
「そうよ。西村くんが好きなお菓子何なの?」
「ほら、やっぱり」
「当たってるでしょ?」
環は、棚から出した陶器の皿に、ケーキを取り分けた。
ノーコメントともったいぶった日向は頬を染めていた。そういう素直さが、環にはまぶしかった。自分には真似できないものだ。だからと言ってうらやましいというわけではない。人をうらやむということは、自分を自分として、他人を他人として、認めていないということである。個人を個人として認めるということは、環にとっては、認めるまでもないことだった。
「この前、加藤くんと会った話、したっけ?」
「初耳です」
「ジュース買いに外に出たら、たまたま会ったの」
「わたしもそういう偶然が欲しいな」
「お茶をおごってもらいました」
「ヒナちゃん」
環は非難めいた声を上げてみた。
「ペットボトルのお茶だよ」
と日向は断ってから、
「どうやら、わたしが熱射病にかかるのを心配してくれたみたい」
と続けた。
「いい人でしょ」
環がすかさずカレシの株を上げようとすると、
「うーん……」
日向は、言いよどんだ。その行為を礼儀に則ったものであることを認めるのにはやぶさかではないが、怜と幼なじみが仲がいいせいで、そう簡単には彼の価値を認めたくない感情があるのである。
「タマキには悪いけど、苦手だな、加藤くん」
「何も悪くないよ、ヒナちゃん。ライバルが減って、嬉しいです」
「加藤くんには前科があるしね」
以前、環の親友と怜が登校していたことを言っているのだろうと、環は思った。それには事情があるのだけれど、それを語る気はないし、仮に語ったとしても、それでもなお日向は気持ちを変えないだろう。
曇り空のもとを散歩に出ていた小学1年生の妹と、中学1年生の妹が帰宅したようである。リビングに顔を出すと、上の妹は、二人の客人に挨拶した。
「マドカちゃん、久しぶりー」
日向がはしゃいだ声を上げた。彼女は妹のことを気に入っていて、つねづね、
「交換できるもんなら、うちの弟と交換したいわ」
と全くの冗談とも思えないような真面目な声で言うのだった。
「お久しぶりです、倉木先輩」
久しいといっても、夏休み前までは会っていたわけだから、それほどの時間の長さではないと思うけれど、それは、もしかしたら、自分が年を取った証拠なのかもしれない、と環は戯れに考えてみた。
「今度、一緒に遊びに行こうよ、マドカちゃん。お姉ちゃんに、ご馳走させてー」
日向は、円を軽くハグするようにすると、よしよし、と頭を撫でた。円は、戸惑ったような顔をしているが、純粋な好意をぶつけられて、嫌がっている風でもなかった。
「いつも先輩に奢ってもらっていて、申し訳ないです」
「そんなのいいのよ。どうせ、わたしのお金じゃないんだし」
「え、どういうことですか?」
「お小遣いだから、わたしが稼いだお金じゃないってこと。稼げるようになったら、また改めて、ご馳走したいけど」
「そんなにご馳走してばかりいたら、大変じゃないですか」
「それはマドカちゃんが、可愛いからいけないんじゃないかな」
「え?」
「可愛いから、ご馳走したくなっちゃうんだもん、ねえ、タマキ?」
話を振られた環は、曖昧な微笑みで受け流した。環にしても、すぐ下の妹のことを可愛いと思ってはいるが、こうしたストレートな好意の表出はできないし、仮にしたとしても、妹は受け取ってはくれないだろう。すぐ下の妹とは、いつのまにか溝ができてしまったようである。それは少し悲しいことではあるけれど、真正の悲劇とは全く呼べないものであり、人と人が一つところにいれば、たとえ、家族でも何かしらの軋轢があるのは避けられないわけであって、甘受しなければならない類の悲しさだった。
円を放した日向は、きょろきょろと辺りを見回すような振りをしている下の妹に目を向けた。
「アサヒちゃんも、久しぶりー。お姉ちゃんのこと、覚えてる?」
「ヒナちゃん」
「タマキ、今の聞いた?」
日向は、まるで言葉を話し始めたばかりの子どもから初めてママと呼んでもらえた母親もかくやと言わんばかりの、嬉しげな表情を作った。しかし、
「お姉ちゃん、レイは来てないの?」
と言って、今日は来てないよ、と環が答えた後、旭があからさまにがっかりした顔を作ると、日向の表情は凍り付いたようになった。
「あー、ここにも加藤くんがー!」
日向は、髪を振り乱すようにした。
「わたしの完璧な世界が崩れてくー!」
環は、狂乱する友人を尻目にして、ケーキを、リビングへと運んだ。
「西村くん、ヒナタのフォロー、お願いね」
ひとりラグの上に腰を下ろしている賢に言うと、
「それがオレの仕事だよ」
と彼は微笑んだ。
「いつまで続く仕事なの?」
環が冗談をやってみると、
「多分死ぬまでだろうな」
賢は真面目な顔である。
この二人の絆の強さには、計り知れないものがあることを環は知っていた。もちろん、環は、彼らの関係を羨むものではないけれど、しかし、もしも生まれたときから一緒で、そうして将来も一緒であるだろう関係に関して、怜と自分がそのような関係であったらと、空想してしまうことはある。そういうロマンチシズムが自分の中にあるということを認めると、つい口元が緩んでしまって、そういう表情を作れることが、環には嬉しかった。
「どうかした?」
「いいえ、ただ、レイくんに会いたいと思っただけです」
環がはっきりと言うと、賢は驚いた顔をして、しかし、すぐに表情を元に戻すと、
「実はオレもなんだ」
そう答えると、
「二人とも、わたしの前で、加藤くんの話は、しないで、もらえる?」
お茶のポットを持った日向が、言葉を句切りながら言ってきた。