第190話:覚えず君が家に到る
インターホンに応えると、嬉しい来客だった。
友人の椎名巧である。
約束をしたわけでもなく、不意に現われた彼は、
「『覚えず君が家に到る』っていうヤツさ」
と言って、青空の下で、澄んだ笑みを浮かべた。
「よく知ってるな、そんな言葉」
「何言ってるんだよ、怜に習ったんだよ」
そうだったかな、と思った怜は、彼をリビングに通して、お茶を入れた。冷やしたほうじ茶をグラスに入れて彼の前に出すと、
「夏休みは楽しんでる?」
と問われた。いつだってそうしようと努めていると答えると、
「偉いな、レイは」
巧は微笑んだ。「偉い」という言葉が、何の皮肉でも褒め言葉でもなく、単に心からそう思っているからそう言っているにすぎないと思わせる力が、巧にはあった。巧は、グラスのお茶をうまそうに飲んだ。
「お茶の入れ甲斐があるよ」
「オレでよければ、いつでも飲みに来るよ」
「是非そうしてくれ」
カノジョである環とも沈黙が長くなるけれど、この巧ともその時間は長い。出会った頃からそうだった。特に何かを話さなければいけないという気持ちにさせない子である。話をしているより、話をしていないそういう時間の方が貴重であると思える、そう思わせる希有な人だった。
「恋の話はどうなったんだ?」
しばらくして、ふと思いついたことを、怜は訊いてみた。
巧は苦笑したようである。
「それ、ホントに興味を持ってくれてるんだろうな?」
「もちろん」
「別にどうもなっていないよ。『彼女はぼくの名字さえ知らない』んだ」
「結婚式を遠くから眺めるようなはめにならないように、名乗っておいた方がいいんじゃないか」
「レイ、実はオレもその子の名字を知らないのさ」
「じゃあ、全く見知らぬ二人じゃないか」
「この前、お茶したけどね」
互いに名字も知らないのに、どうしてお茶するに至るのか、怜にはさっぱり分からなかった。
「レイ、オレは多分、他人の幸せを願うけれど、他人を幸せにしようとは思わないと思うんだけど、それについては、どう思う?」
「他人の幸せを願うことが、そのまま、他人を幸せにしようとしているそのことじゃないのか」
「それはそうかもしれないけど、オレが言っているのは、もっと具体的な話さ」
「現実的ってこと?」
「そう」
「つまり、もっと理性的ってことか」
「どういうこと?」
「理性的なものは現実的なものだっていうのは、誰の言葉だったかな」
「それ、付き合ってるカノジョさんの言葉じゃないだろうな」
そういう事態は避けたかった。カノジョの言葉を金科玉条のように守っているなどという事態は、男としての沽券に関わる。
巧はソファにつけていた背を伸ばした。
「つまり、オレはあの子の幸せを願うけど、オレ自身が結婚できなくてもいいってことだよ」
「なるほど」
怜は自分に置き換えて考えてみた。すると、巧の言っていることが自分に当てはまるのかどうかは、微妙だった。そもそもからして、怜は環の幸せを願っているかどうか分からない。悪いことが起こるように願っているなどということは全く無いけれども、だからといって、幸福を祈るということが、彼女にとってどういう意味を持つのだろうか。
彼女が自分といると幸福であるかどうかも分からない。祈るとしたら、その一点においてだろう。とすれば、それは、自分の力によって彼女が幸福になることを望んでいることになるのかどうか。
「そういう人間が、たとえば告白してOKをもらったとして、それで、相手に対して失礼にならないかなと思って、なかなか踏み切れないでいるんだ。そんなことを考えながら歩いていたら、レイの家に着いたんだよ」
「オレにはよく分からないな。大体にして、人と人が付き合うってことの意味すら、よく分かってないんだ」
「現に付き合ってるのに?」
「現に生きているけど、生きていることの意味が分からないんだから、その中であれこれやることの意味だって分からないリクツだろ?」
「確かにその通りかもしれないな」
「意味は向こうに決めてもらえばいいんじゃないか?」
「向こう?」
「こっちの価値はあっちに決めてもらえばいい。それなら、はっきりと言える。オレはもうずっとそうしてる」
「レイの価値は誰の目から見ても明らかだよ」
「茶菓子が無かったな」
そう言って、怜が立ち上がる素振りを見せると、巧は笑って、手を振った。
「本当はただ怖いだけなのかもしれないな」
「怖い?」
「うん。オレはこれまで自分から他人の手を取ろうとしたことはないんだ」
「オレは?」
「レイは気がついたらそこにいてくれたじゃないか」
「そうだったか?」
「そうだよ」
確かに怜は巧から手を取られた記憶も無ければ、巧の手を取った思い出も無かった。
「だから、それが怖いのかもしれない。ただ、その恐怖が同時に愛おしくもある。この気持ち、分かるだろ?」
「初めて立ち上がったときに感じた気持ちかもしれないな」
「覚えてるのか?」
「いや、覚えてない。でも、確かに感じたはずだろ?」
「確かかどうかってことを言えば、前世だってあることになるじゃないか」
「どうしてもそういうことになるかもしれないな。頭では納得できないけど」
「前世でも、オレたちはこうして話していたかな」
「きっとな」
――想いが繰り返すのよ。
今度こそ、怜はカノジョ自身の言葉を思い出したけれど、しかし、巧には言わなかった。
「たとえ、それが何千回繰り返されていたとしても、それだからって、今この時がそれだけ価値がなくなるってわけじゃないね」
「お前はいいヤツだよ、タクミ」
「そう言ってもらえて嬉しいって感じられる、そういうことを感じさせてくれる人がこの世の中にいてくれて、本当に幸運だとオレは思うね」
怜も同意だった。そうして、そう思える人が巧だけではなく、もっとたくさんいるというところに、宇宙大の幸せがあった。
玄関が開く音がして、ついで、
「たっだいまー」
という元気な声がした。どたどたとした足音とともに、
「あー、疲れた」
とダイニングに突入してきたのが我が妹であることを、怜は認めた。玄関先に兄のものではない靴があって、しかもリビングの扉が閉まっていれば、普通は客がいることを推量して、静かに入ってくる。そういう配慮を全く行わないのが彼女だった。怜は、もしもカノジョの妹だったら、同じ状況でどういう行動を取るだろうか、と考えてみて、そういう想定が品の無いものであるということを認めて、自省した。
「こんにちは」
巧がわざわざソファを立ち上がって、ダイニングの冷蔵庫を開けて、何か飲み物を物色している妹に声をかけた。
「はーい、こんにち……」
都は振り向きながらそこまで言うと、言葉を止めた。あいさつもロクにできないとは、兄の教育がなってないと思われたらどうするんだ、と怜はひやりとしたが、
「椎名巧と言います。いつもお兄さんにはお世話になっています」
と声をかけると、冷蔵庫をパタンと閉めた妹は、突然背筋を伸ばすと、行進でもするかのように近づいてきて、
「加藤都といいます。兄がいつもお世話になっています。ふつつかな兄ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
と、ちょっとおかしくはあるが、丁寧な口調で言って、頭を下げた。
「これまで紹介してくれなかったな、レイ。こんな綺麗な妹さんがいたなんて、初めて知ったよ」
巧が言うと、
「そ、そんなそんな、綺麗だなんて……」
都は手をふりふりして、頬を染めたようである。怜は苦笑いするしかなかった。綺麗かどうかは別として、もしも自慢の妹だったら、すぐに巧に紹介している。それができないということは、怜にとっての不幸だったが、都にしても兄のことをそう思っているのだろうから、互いの不幸を相殺してゼロにするほかない。
「先輩、ケーキお好きですか?」
「甘い物は好きだよ」
「よかった。ちょうど二つありますので、兄と一緒に召し上がってください。今、用意しますね」
空調が利きすぎてきたようである。怜は身ぶるいした。そのケーキは、都が自分用に二つ買っておいたものだった。
「可愛い妹さんだね」
ダイニングでいそいそやり始めた妹を横目にしながら、ソファに座った巧が言った。
「そう思うか?」
「思うさ。レイの妹だからな」
「心眼はどこに行ったんだ?」
「多分、レイと会ったときに、閉じたんだな」
「どうして?」
「レイがまぶしすぎてじゃないか」
「なら、サングラスをかけた方がいいな」
「身内には甘いか厳しいか、どっちかの評価しかしないものじゃないかな」
「かもしれないな。オレはかなり甘くつけてる方だ」
妹は、盆にストロベリーショートケーキを二つ乗せて、紅茶まで淹れてきた。それは、いつもは怜が彼女のためにやっていたことである。
「ごゆっくりなさってください」
そう言って、妹はペコリと頭を下げて、入ってきたときとは打って変わった静かさで、部屋を出て行った。
「お前に意中の人がいることを、妹に言っておいてもいいか?」
「考えすぎじゃないのか、レイ。何でもかんでも恋に結びつけるのは、良くないんじゃないか?」
巧は、いただきます、とフォークをケーキに向けた。
「考えすぎて悪いことがあるか? 人間から考えることを抜かしたら、ただの草になるだろう」
「葦ね」
「いや、悪くないから、よしだよ」
「よし。じゃあ、レイの言うとおりにするよ。オレは、親友の妹じゃなくて、名字も知らない子にアタックすることにする」
「本心から、そうした方がお前のためだと思う」
「レイと兄弟になるという魅力もあるんだけどな」
「人類みな兄弟だろ」
「そんなグローバルな視点、持ってないんだ」
「じゃあ、持った方がいい。みんな、バカみたいに、英語をありがたがってる世の中なんだから」
「グローバルな視点って必要なのか?」
「その方が儲かる」
「オレは金儲けには興味ないな」
「オレもないよ。だから、英語には興味が無いんだ」
「金儲け以外には?」
「さあ、何かあるかな」
「より広い視野で物事を見られるようになるっていうのは?」
「井の中の蛙大海を知らず、か。ただ、オレは、井戸の中のことを知るだけで精一杯だよ」
怜が言うと、巧はショートケーキを一口頬張って、
「井の中の蛙大海を知らず、されど、天の高きを知る」
言ったあとに、
「知っている方が知らないことよりもいいことだなんて、誰が決めたんだろう」
そう続けた。
「オレは知らないな」
怜は首を横に振った。
「何かを知らない代わりに何かを知っているなんて考え方、オレはあまり好きじゃないね」
巧が言う。
怜も全く同意だった。
巧が帰ったあと、怜は妹に巧のことについて根掘り葉掘り訊かれた。怜は、知りうる限りの情報を教えてやったけれど、最後に、恋の悩みで今日来たということを言うと、
「じゃあ、付き合っている人いないんだ、ふうん」
となにやら顔を輝かせていたので、どうやら逆効果であることを悟った。