第19話:三年五組の品定め
教室の空気が心地よく震えている。その震えが耳に伝わると、三年五組の生徒は誰もがうっとりとした。うっとりとして、その声だけを楽しむために目を閉じたり、逆に目をしっかりと見開いて美声の主に目を向けたりする。水野更紗は、後者だった。彼女の視線の先に、一人の少女の姿がある。しっかりと開いていた更紗の目が眩しげに細められた。初夏の昼下がり、少し強めの光の中にその少女はいた。まるで少女自身からも光が発せられているかのような風情で、外からの光にゆるやかに溶け込んでいるように見えた。
「よし。そこまででいいぞ、川名」
教師の合図で、魔法の時間は終わった。光の少女が席につくと、弛緩したような空気が教室中に漂った。彼女の声の余韻にみな浸っていたのだ。更紗もその一人だった。国語の授業に感謝することがあるとすれば、この瞬間しかあり得ない。クラスメートの綺麗な声で詩文の朗読が聞けるときである。もちろん皆がみな、巧く吟じることができるわけではないが、五組は他のクラスに比べてその確率は高いだろう。美人の偏差値が高い人を特に集めたのではないかと思えるほど、このクラスには佳人がそろっていた。そうして、美しい女の子というのは、声も清澄なのである。
その美少女の一人が、今まさに朗読を終えた川名環だった。その一人、というよりは、そのトップに立つと言った方がより正確であろう。細身でありながらバランスの取れた体つきや、整った顔もさることながら、何よりその所作に輝きがある。彼女が何かの拍子に手を動かすだけで、その手から光が零れる。内面の輝きが外面に溢れているのではないか、などということをふと考えさせるような趣がある。それが、ただ可愛いだけの子と、彼女のような麗人の違いなのではないだろうか、と更紗は感じている。
「水野、どうした、ぼおっとして」
更紗は、はっと夢から覚めたかのように、国語の教師を見た。
「川名の続きを読んでくれって言ったのが聞こえなかったみたいだな。寝てたのか? まあ、確かに、五時限目っていうのは昼メシ後で眠くなるしな。しかもオレの授業じゃ尚更か」
教師の自嘲気味なセリフが教室中の笑いを取った。どうやら、更紗が当てられていたらしい。全然気がつかなかった。更紗はまだ笑いの波が治まらないうちに、慌てて立ち上がると、教科書の該当部分を読み始めた。
――何も、川名さんの次に当てることないのに。
もちろん悪意を持ってそうしたわけではないだろうが、更紗はまだ年若い国語教師を軽く恨まざるをえなかった。川名環の後に読まされるのは苦行以外のなにものでもない。クラスの皆が彼女と自分の朗読を比較し、皆が更紗に敗北者のレッテルを貼っているような、そんな惨めな気分になるのである。とはいえ、更紗も、傍聴者の立場の時は同じことをしているのだから、責めることもできないのだが。
「よし、ストップ」
更紗は、ほっとして席についた。苦行は終わったが、悟りは得られなかった。全く割りに合わないことだ。また次に誰か当てられるのかと思ったが、教師は腕時計を見て時刻を確認したあと、
「じゃあ、後は自習。オレは楽しい職員会議に出かけてくるから。お前ら、騒がしくするなよ」
告げて、教室を出て行った。天井近くの壁にかかっている時計は五時限目の半ばを指していた。今日は五時限目の半分と六時限目が職員会議で潰れ自習となる予定だった。どうせなら、その分だけ早く帰らせてくれれば良いようなものだが、用意されたプリントで学習する自習時間に設定されていた。早く帰らせてもだからといって勉強などするはずがない、という可愛い生徒への不信の念が窺える。もちろん、単なる中学校カリキュラム上の決まりかもしれないが。
騒がしくするな、と言われて大人しくしている中学生がいたら見てみたいものである。教師が出て行って五分ほどもすると、皆、休み時間のような風情でおしゃべりを始めた。更紗も、後ろの席の友人の女の子の方に向き直った。
「勉強の邪魔をしないでもらえるかしら、サラサさん」
真面目ぶった顔で更紗に告げた彼女は、しかし、言葉とは裏腹に、あろうことかプリントで折り紙をしていた。
「何折ってんの、七海?」
「般若の面」
「今、何て?」
「ハンニャ、ほら、これ」
ざら紙で作られた二本の角と裂けた口を持つ鬼女の面が更紗を見ていた。更紗は、彼女の器用さに感心しながらも、
「もっと可愛いの作ろうよ」
軽くひきながら言った。
「でも、うまくできたでしょ」
般若の面を見ながらご満悦の少女に、更紗は呆れたような目を向けながら、内心では微笑している自分に気がついていた。彼女に向かうときはいつもそうだ。その立ち居にはどこか可憐なところがあり心をふっと惹かれてしまうのである。平井七海。五組の誇る美少女の一人。トレードマークはショートカットである。フェイスラインがあらわになるほどのボーイッシュなショートカットだが、それは彼女の魅力をいささかもそこなっていない。普通なら男の子っぽく少なくとも中性的になるはずのその髪型は、彼女のアーモンド型の瞳やふっくらとした唇と不思議と調和し、全体に愛くるしい少女の印象を作っていた。
「さっきはどうしたの、サラサ。また、王子様でも物色してたの?」
七海のからかいの言葉に、更紗は心外な振りを作り、
「そんなにいつも王子のことを考えたりしてないわよ。それにね、王子は、探すんじゃなくて、ある日突然現れるものでしょ」
答えてから、さっきは見惚れてたのよ、と小声で答えた。
「じゃあ、やっぱり王子様じゃない。それで? サラサ姫が見惚れてたのは誰なの?」
事柄の性質上、七海も声を低くすると、
「だから王子じゃないって言ってるでしょ」
と更紗は言って、見惚れていたのは環だということを足して言った。
七海は納得した顔になった。うんうん、とうなずくと、
「確かにね。女の子でも思わず見つめちゃうね、タマキは可愛いから」
いう。そんなことを言っている彼女自身も、見つめられる側の人間だということは気がついていないらしい。小学校からの付き合いで、七海が自分の容姿についてはあまり評価していないことは分かっている。気取ってそう見せているのではなく、どうやら心からそう思っているらしいので、全くこの世の中は不思議である。しかも、そういう自分の外見上の美しさに関して無頓着な所が七海の人気の一端を担っていた。自分を可愛く見せようという意識がない彼女は、男子だけでなく女子にも人気が高かった。
「このクラスさあ、やたらと美人が多いよねえ」
更紗はしみじみと言った。「美人」は単に「可愛い女の子」とは違う。「可愛い」というレベルならば、あるいは対抗のしようがあるかもしれないが、「美人」には競争意識が芽生えようもない。淡い諦観のもと逆に、例え同性だとしても綺麗な子を見ることができる幸運を噛み締めるような気持ちになる。
「だね。アヤもいるし」
七海が名前を挙げた少女、伊田綾は、彼らから少し離れた席に座っていた。その席だけ、別な時間が流れているかのような、周囲の喧騒に侵されない静謐な雰囲気があった。整然とした姿勢でプリントに一心に向かうその姿が凛としている。前髪が眉の高さで切り揃えられ、左右側面の髪が顎の高さで水平に切り揃えられている髪型が、幼い印象を与えるが、切れ長の瞳には大人びた落ち着いた色がある。そのアンバランスが彼女の魅力の一つだった。
「なんか、女の子って感じだよね、伊田さんは」
更紗が惚れ惚れとした声で言う。七海は大きくうなずいて同意を与えたあとに、
「ただね、中身はちょっと違うんだよね。外見はあんな感じで女の子女の子してるけど」
穏やかでないことを言った。思わず、どういう風に違うのか、尋ねると、
「知りたい?」
七海は瞳を不気味に輝かせた。更紗は、小さく首を横に振った。知らなくても良い真実というのはあるものである。ちょっと興味のある所だが、綾のイメージが崩れて欲しくないという気持ちの方が強い。
「残念だな。アヤの本性を教えてあげようと思ったのに」
楽しそうに言う七海のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女の体に影が差した。更紗の目が軽く見開かれた。噂をしていた当の本人が七海の横に来ていた。
「ナナミ、シャープペンの芯、ちょうだい」
綾はそのほっそりとした白い手を七海に向かって差し出していた。数本の芯がその手の平に置かれると、綾はシャープペンに補充して、礼を言ったあとに、
「わたしのこと、何か言ってたでしょ、ナナミ?」
いった。
「ね、ちょっと分かったでしょ。この子の本性」
綾の問いには答えず、七海は更紗に笑いかけた。と言われてもどういうことかさっぱりである。さっぱりであったが、本人の手前、七海に説明を求めるわけにもいかない。更紗は曖昧に微笑むしかなかった。
「サラサちゃん。七海の言うことは真に受けないでね。この子は基本はいい子なんだけど、たまにわたしやタマキをからかいのネタにするっていう悪い癖があってね」
綾はその切れ長の目に叱責の色を表して、七海を見下ろしながら言った。更紗は、名前で呼ばれたことに軽い感動を覚えながら、
「あの……伊田さん。わたしたち、別に何も……ただ、伊田さんが、その、可愛いって言ってただけで……」
誤解を解こうと力を入れすぎて、しどろもどろになりながら言った。
綾は慎ましやかな微笑を浮かべて、更紗を魅了すると、
「ありがとう」
と、可愛いと言われたことに対して素直に謝辞を呈したあとに、
「わたしのことはアヤって呼んでね。水野さんのこと、サラサちゃんって呼びたいから」
と言って、更紗を喜ばせた。綾は、無愛想というのではないが寡黙なタイプで、クラス内で言葉を交わす人は、男女合わせても数名しかいない。そのうちの一人に選ばれたのである。綺麗な女の子と仲良くなれるのは、男子でなくても嬉しいものだ。
「アヤ、タマキにこれ渡して」
七海が綾に、先ほど折った般若の面を手渡した。
「なに、これ?」
「般若よ。今のタマキには必要でしょ」
綾は、聞こえよがしにため息をついて、呆れたように首を振ると、
「悪趣味」
と一言いって、しかし、ざら紙の小さなお面をつき返すことはせずに、席に戻って行った。
「どういうことなの?」
綾が席についたのを見届けたあと、取り残された感のある更紗が、今のやりとりについて解説を求めると、七海は艶のある唇を笑みの形にすると、
「般若っていうのはね、女の憤怒と嫉妬の象徴なの」
と簡単に答えた。へえ、と七海の博識に感心した更紗だったが、それだけではまだ分からない。その面を環に渡すということが、どうして、綾の言うところの「悪趣味」になるのだろうか。
「タマキは嫉妬心を外に表したりしないだろうから、代わりにお面をあげたのよ」
それ以上の説明をする気はないように七海は口を閉ざした。
おぼろげではあるが七海の言いたいことが理解できた気になった更紗。その理解によると、綾が言った通り、確かに七海の行為は悪趣味なものと言えた。