第187話:帰宅後の平穏無事
翌朝、目が覚めた怜は、自分の部屋にいることに気がつくと、しばし呆然とした。
今いるのは祖父母の家ではないということを認めたのである。もちろん、ここ自分の家が素晴らしくないというわけではない。まさかそんなことはない。親に感謝しているのは前述の通りであるし、不自由もない。しかし、祖父母の家とはやはり違うわけであって、その「違い」は、怜にとってはそれなりに大きなものだった。地上と竜宮くらいの違いである。
怜は地上のいいところを考えてみようとした。地上とは、生計を立てるために頑張らなければいけないところであり、いじめっ子への対応をしなければいけないところでもある。うん、とうなずいた怜は、なにゆえ、かの漁師は、竜宮を見限って地上に戻ってきたのかと考えてみたが、どうにも答えは出ないようだった。
今日は何はなくとも塾に行かなくてはならない。祖父母宅で勉強している振りはしていたが、本当に振りだけの話である。
――とりあえず……。
腹ごしらえをして、午前中の塾の時間まで勉強して、勉強体力を少しでも取り返そうと思って、顔を洗ったのち、まずはダイニングにおもむいたところ、朝食の席に着こうとして、シェフがいないことに気がついた。母はまだベッドの中である。日頃できの悪い息子――娘とは考えないところに怜の美徳がある――に手を焼かされて疲れ切っているのだろうと思った怜は、自ら給仕することにして、朝のメニューをサンドイッチに決めた。
キッチンのすりガラスを通して、夏の朝日がぼんやり差し染める中で、卵とベーコンを焼いていると、匂いにつられたのだろう、妹が起きてきた。怜は挨拶してやったが、彼女は寝起きで機嫌が悪いのか、標準装備なのか判断がつきかねるところだったが、「おはよう」を返してこない。とはいえ、別に期待していたわけではないので、再びサンドイッチ作りに戻って、食パンにマヨネーズとケチャップを塗り塗りしていたところで、
「お兄ちゃんっ!」
後ろからいきなり大声が出されたので、持っていたバターナイフを取り落としそうになった。振り返ると、洗面台に消えた妹が、しかし、寝乱れた頭のまま、険のある目を向けてきている。
「どうかしたか?」
怜が平静な声で訊き返すと、
「何で言ってくれなかったのよ!」
切り口上である。何の話をしているのか分からない怜は、妹に先を促す他ない。すると、彼女は地団太を踏むようにして、
「タマキ先輩がおじいちゃんの家に行くことだよ!」
と続けてきたではないか。なんでも妹は、敬愛する学校の先輩とパジャマパーティする機会をみすみす逃したことを残念に思っており、その原因を作った兄に対して怒り心頭に発しているらしいのである。
――そう言えば……。
怜は、昨日家に帰って来てから、妹が全く視線を合わさないので、しかし、それもやはり彼女の標準仕様であろうと特に気にもしていなかったわけだが、どうやらその無視は怒りを表していたようだと気がついた。
怜は一度だけ抗弁してみた。自分は知らなかったのだと。しかし、妹はもちろん納得しなかった。
「そんなわけないでしょ! 知らないわけない! どうせわたしをのけものにするために、お兄ちゃんが仕組んだことなんだ! インケン!」
この妹からたった一つ学ぶことができるとすれば、心ない言葉は人を傷つけるというそのことである。言葉というものは慎重に使わなければいけない。というのも、言葉それ自体が力を持っているからである。
もしも彼女と兄妹でなかったとすれば、このように不用意な言葉の使い方をする子とは、おそらくは一言も口を利く仲ではなかったことだろう。そう考えると奇妙なおかしみを感じるのであるが、
「この借りはきっと返すからね! 冷蔵庫の中にお兄ちゃんのおやつを入れっぱなしにしておかないほうがいいよ!」
感慨にふける前に、妹は言うだけ言ったあと、足早にダイニングを立ち去った。
怜は具をパンに挟むと、トースターにかけた。
やがてできあがったホットサンドを食べやすいように四分割して、紅茶と一緒にダイニングテーブルの上に置く。昨日の朝は祖父母や従妹やカノジョと一緒に食べていた食事が、今朝は一人だけれど、一人の朝があるからこそ余計に、気の置けない人たちと食べる食事が美味しいのだと考えることにした。
お腹を満足させた怜は、食器を洗い終えたあと、自分の頭と体を洗うことにした。シャワーを浴びて、身支度を整えると、しかし、まだ塾には時間がある。
起きてきた母に、朝食は自分で済ませたことを告げると、自室で勉強することにする。勉強する前に、スマホがメール着信を告げているのが分かった。確認すると、従妹からである。
「タマキちゃんの件で、ミヤちゃんに責められたんじゃない? ごめんね。今回の件は、わたしが責められても仕方ないことなのに。でも、許してくれるよね。愛してるよ、レイ」
おそらく、由希も妹から、かなりソフトな形ではあろうが、批難されたのだろう。
「しばらくの間、冷蔵庫のおやつが食い散らかされるだけの話だ。特に気にしてない」
返信した怜は、昨日の朝、由希が許すの許さないの言っていた件を思い出した。
祖父母の家よりは二倍も暑く感じる部屋の中でしばらく勉強に励んでから、祖父母の家の周辺より三倍も暑く感じる道の上を自転車でチャリチャリして、塾に至る。
夏休みの塾教室は盛況を極めており、お盆期間中であるというのに、空席がほとんど無い。
「おはようございます」
冷房が緩やかである室内にあって、長袖シャツを身につけたスーツ姿の山内講師は、涼やかな顔をしている。怜は、ここ数日の無沙汰を詫びた。
「しっかりと休めたのであればよかったです」
山内講師は、いつも通りすぐに授業に入った。怜は、山内講師に感謝した。授業を受けているうちに、脳が勉強モードに切り替わることが分かる気がした。スイッチの切り替えを自分だけでやっていたら、かなり大変だったろう。
二時間の授業を受けたのち、いつもよりも詳細に宿題の指定を受けた。ふと、怜は、山内講師にはお盆休みがあるのかどうかと考えたが、特に興味があることではないので、聞かなかった。かなり人気があるそうだから、無いのかもしれない。だとすると、彼女はどうやって気分転換するのだろうか。この仕事をしていること、それ自体が、彼女にとっては、もしかしたら大いなる娯楽なのかもしれず、だとすると、気分転換などいらないことになるが、さて。
「夏休みも半ばですね。残りの期間を悔いなく過ごせるよう、一日一日を大切に過ごすようにしましょう」
まるで日めくりの格言のようなことを講師は言ったが、怜は、カレンダー上の名言をバカにするような気持ちはなかった。名言には時に耐えた普遍性がある。とはいえ、バカにしないことと、信じ込むこととはやはり別のことであって、
「一日一日を大切に過ごすというのは、目的意識を持つということでしょうか?」
尋ねてみることにすると、
「いえ、その日が人生の中でたった一日しか無いということをしっかりと認めて過ごすということです」
と講師は答えた。
これはなかなかの難事ではある。その日が一日しかないということを日々意識するのは難しい。が、逆に言うと、これほど簡単なことはないとも言える。ただ認識すればいいだけなのであるから。怜がそう言うと、
「そうでしょうか。実はわたしには本当に今日という日が一日しかないのかどうか分からないのです」
講師は唇に微笑を含みながら言った。慮外のことを聞いた思いがした怜が耳を澄ましていると、
「というのも、わたしは人生を全て生きたことがないからです。だから、もしかしたら、今日という日がもう一度来るかもしれないという思いもあるんですよ」
軽やかな調子の声が聞こえてきた。
なるほど、と怜は内心でうなずいた。確かに講師の言う通りである。しかし、だとすると、どういうことになるのだろう。まためぐりくるものの一回性とは?
「わたしにはそれは分かりません。しかし、それは人生というものがそのような作りになっているのです。人生というのは、人がそう思っているよりは複雑な作りなのですよ」
怜は、自分が知らないことは知らないとはっきりと言える人を師に持ったことをありがたく思った。
怜は師に別れを告げて、教室を辞した。太陽は容赦なく照りつけてくるけれど、来た時ほどは、暑さを感じなかった。自転車を駆って家に戻ると、昼食を取ってから、自室にこもることにする。
四時頃まで勉強を続けると、まだまだ日は暮れないけれど、一日が終わったことを感じた。これから新しく何事かをスタートしはせず、今行っていることを続け、あるいは明日の準備をするだけなのだから、終わったのと同じことだ。
怜は講師の言葉を思い出して、今日が一回きりしかないということを意識して、過ごせたかどうかを反省してみた。すると、どうやら、答えはノーであるようだった。とすれば、人生の一日を無駄に使ってしまったということになる。
やれやれ、と思ったタイミングで、スマホが着信を告げた。ディスプレイを見ると、我がカノジョである。
「勉強中だった? レイくん」
「その勉強に飽きて、人生について考えていたところだよ」
「人生論?」
「そうだな」
「理論は灰色、緑は生の黄金の樹だけよ」
「その黄金の樹について考えていたんだから、何色になるのかな」
「美術にはあまり詳しくないのよ。多分、あんまり綺麗な色にはならないんじゃないかな」
「じゃあ、もう考えるのはやめておくよ」
「考えること自体はステキだと思う。たとえば、そう、これはただの一つの例に過ぎないんだけれど、付き合っている人を今度はどこに連れていこうかなんて、そんなことを考えるのはいいことだと思うな」
「タマキ」
「はい」
「誰かキミに謙譲という美徳を教えてくれる人はいなかったのか?」
「いたかもしれませんけれど、馬の耳に念仏だったんじゃないかな」
「キミが馬なら、きっと麒麟だよ」
「やだ、レイくん。わたしがいくらバカでも、キリンが馬じゃないことくらい知ってるよ」
「じゃあ、オレが次にキミを連れて行く場所について既に考え済みだってことは知ってるか?」
「本当?」
「モチロン」
「電話してみてよかった」
満足そうに言う環に、近いうちのデートを約束すると、怜は電話を切った。そうして、彼女をどこに連れて行ったもんか、とプランを練り始めた。