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プラトニクス  作者: coach
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第186話:別れの時

 目が覚めると、すでに朝だった。日の光がふんだんに室内に差しているところからすると、どうやら寝過してしまったらしかった。これで二日目の朝と数えて二回目の寝坊である。やれやれと思いながら、体を起こすと、

「失礼します」

 と外から声がかかって、少ししてから襖が開いた。

 エプロン姿の(タマキ)が、微笑みを浮かべている。

「お目覚めですか?」

「今起きたばかりだよ。起こしてくれてもよかったんじゃないか?」

「いつまでも起こしてあげていたら、レイくんのためにならないでしょう?」

 なるほど、それはその通りである。

「もうすぐご飯なので、顔を洗って来てください」

「はい、ママ」と(レイ)

 環は、器用に片眉を上げて、

「今度そんなこと言ったら、ご飯抜きにするからね」

 そう言って、怜を追い立てるようにした。

 怜は、寝乱れた自分の布団を直してくれている少女をしり目にして、洗面台へと向かった。途中で従妹に会い、

「ねえ、レイ。わたしのこと愛してる?」

 朝の挨拶を受けたので、

「海よりも深く愛してるよ」

 挨拶を返した。

「愛って許すことだよね」

「そういう説もあるな」

「じゃあ、わたしのこと、許してね」

「何のことだよ」

「許すって言って」

「許すよ。何だか分からないけど」

「よかった」

 由希はホッとしたような顔をしてから、

「あ、あとで、それ文書にしてね」

 そう言って、食卓へと向かったようである。

 洗面台で顔を洗った怜はこざっぱりとした顔で、食卓に着いて新聞を読んでいた祖父に挨拶した。

「よく寝られたようだなあ」

「もっと寝られそうだったよ」

「日頃寝ていないんだろう。学生は、なかなか気楽な商売じゃないな」

「そんなことないよ。学校では友達に恵まれているから楽しいよ」

 怜が本心からそう言うと、祖父は、そうかそうか、と嬉しそうに笑った。

 テーブルセッティングは、環と由希がしてくれていた。

 怜が、ぼーっとして座っているうちに、食卓が、大小の皿と椀とグラスで彩られていく。しばらくもしないうちに、準備が整ったところで、現れた祖母が、怜と挨拶を交わしたあと、

「じゃあ、いただきましょう」

 と手を合わせた。五人で、「いただきます」を唱和したあとに、怜は箸を取った。こうして祖父母と食事を取れる機会もしばらく訪れないと思えば、箸の進む速度も、口に入れたものを噛む速度も遅くなるというものである。

 しかし、どんなにゆっくり食べたところで、何時間も稼げるわけではないし、そもそもが帰りの電車の時間もある。いずれ食べ終えた怜は、食後にコーヒーを入れてもらったあと、祖父母の家を辞することにした。

 本当に楽しい三日間だった。名残は尽きないし、しばらくの間、心の水面は波立ち続けることだろうが、そういう気持ちを持てることを幸せに感じて、立ち去らねばならない。

 怜は自分の荷物を背にして、環の荷物を手にして、玄関へと歩いた。

「昨夜も言いましたが、ここはあなたたちの第二の家だと思って、いつでも来なさい」

 玄関先で見送ってくれた祖母の声はからりと乾いている。名残惜しさを感じないのではないが、それをあらわにしては別れの障りになるということが分かっているのである。

「環さん」

 祖母があらたまった声を出す。

「はい」

「不肖の孫ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 そう言って、祖母は頭を下げた。

「懸命にいたします」

 環も頭を下げ返す。

 祖母のすることである。文句のつけようもないけれど、怜は釈然としない気持ちである。その気持ちが顔に表れたのか、

「怜、これもあなたへの愛情ゆえのことですよ」

 そう祖母は言ったあと、

「年寄りにはね、逡巡している時間がないのです。そのときそのときに、すべきだと思ったことを、きちんとしていかなくてはね」

 微笑して続けた。

 それは年高い人だけに当てはまることではないだろう。

 祖母の言葉をまた一つ胸に刻んだ怜は、祖父の車のトランクに荷物を積み込んだ。由希も駅まで見送りに来てくれるということである。エンジンがかかったワーゲンの近くで、

「レイ、会えて楽しかったよ。今度はボクが会いに行ってもいい?」

 拓馬が言った。いつでも歓迎するということを伝えると、従弟は、環に向かって、

「タマキお姉ちゃん、レイのことよろしくね」

 笑顔で言った。環が、

「はい、がんばります」

 微笑みながら答える。

「なに変な顔しているの、レイ?」

 くりくりとした邪気の無い瞳を向けてくる従弟と、

「元からこんな顔だ」

「そうかなあ」

「お前の前にもオレのように素晴らしい女の子が現れることを祈っておくよ」

「ボク、今のところ、あんまりそういうの興味無いんだ」

 別れを惜しんでから、環を後部座席に乗せた。その隣に由希が乗りこむ。怜は、助手席に乗った。

 祖母と拓馬が見送る中、フォルクスワーゲンはゆっくりと走り出した。

 車は、夏の陽光をたっぷりと浴びた緑の田園の中を走る。開いた窓から入る微風が爽やかである。感傷とはほど遠いその明るさと軽やかさに、返って怜は胸を締めつけられる思いだった。さよならだけが人生だ、と詠った詩人もいたが、さよならだけが人生であったとしても、一つ一つのさよならが色あせるわけでは全然無いのだった。

「あーあ、あーあー、あーあーあー」

 由希はため息なのか、発声練習なのか分からない声を出し続けた。いい加減で祖父にたしなめられると、

「だって、おじいちゃん。ダイアナがいなかったら、アンの生活ってすごくつまんないと思わない?」

 言うので、

「ギルバートを見つけるしかないなあ」

 と祖父は答えた。すると、由希は、

「頭を割りたいと思う男の子がいないんだよなー」

 と答えた。同じクラスの男子にとってはありがたかったことだろう。

 視界に全くなかった人影が、ぽつりぽつりと現れるようになると、駅だった。駐車スペースにワーゲンが停まったあと、

「はい、これ、レイ」

 由希は、電車のチケットを二人分渡してくれた。

 怜はありがたくそれを受け取った。

「本当にありがとうね。ミオのこと」

「やったのはオレじゃない。タマキだろ」

「でも、タマキちゃんを連れて来てくれたのは、レイだから」

「オレが、連れて来た?」

「今回のことじゃなくて、もっと大きな意味でね」

 それがどんな意味なのかは聞かない方がよさそうだと思った怜は、従妹と別れの握手でもしようかと思ったが、

「プラットフォームまで見送りに行くよ」

 そう言って、さっさと先に立った。祖父も来てくれるようである。入場券を買った二人と一緒に、怜は環と改札を抜けた。時間はぴったりである。もう少しで電車が現れる。

 怜は最後に祖父に対して滞在の礼を言った。

 環も、お世話になりました、と頭を下げる。

 祖父は怜に対して、「またできるだけ早く来るように、明日だっていいんだからな」と冗談めかして言ったあと、環の手を取って、

「怜のことをよろしくお願いします」

 真面目な声を出した。

「はい。お任せください」

 環が綺麗な声で答える。

 祖母のときと同じく釈然としない気持ちになった怜だったが、その視線を環に込めてやると、彼女は心からにこやかな笑みで対してくる。ふと由希を見ると、従妹は何やらニヤニヤしていた。

「何も言うなよ」

 怜が言うと、

「無理だよ」

「なんで?」

「面白いから」

 そう答えた由希は、

「タマキちゃん、わたしの従兄をよろしくお願いします」

 便乗した。

 環はそれにも、はい、と答えた。親しい人たち四人から身の上を心配されて恋人に託される自分の情けなさを感じつつ、怜は、それを自分への叱咤なのだと考えることにした。「もっとちゃんとしなさい!」という激励である。たとえそれ以上の意味があったとして、しかし、あえて考えないようにしていると、電車到着のアナウンスが聞こえてきた。女の子二人がハグをして再会を約している間に、電車が到着したようである。

 怜は祖父と従妹に最後の別れを告げると、電車にまず環を乗せて、そのあと自ら乗り込んだ。窓際に席を取ると、窓から、二人が見える。どうやら電車の発車まで待ってくれるようである。

「もう一日泊まりたいって言ったら、笑うか?」

 怜が多分に本気の色合いを込めた声で言った。

「笑わないよ。だって、わたしもそうしたいから」

「なんだ。笑うって言ったら、もう一泊しようと思ってたのに」

「ウソですね」

 環が断定口調である。

「どうして分かる?」

「だって、このまま別れた方が綺麗だから」

「綺麗なことってそんなに重要か?」

「残念ながらね。そんなに重要なことでなければよかったんだけれど」

 そう言って笑う少女の微笑は綺麗なものだったが、怜はそれには言及はせず、外にいる二人を見ていた。

 少しして、発車のベルが鳴る。

 祖父が満面に笑みをたたえ、従妹も楽しそうな顔で手を振ってくれていた。怜は、環とともに、二人に手を振り返した。

 すぐに祖父と従妹の姿が小さくなる。

 怜は、二人の姿が見えなくなる前に、自らシートの背に体を預けて、視線を外した。

 実に楽しい四日間だった。

「本当に素敵な時間でした」

 正面から環が言った。

 怜は、もうお礼を言わないように、釘を刺した。そうして、カノジョに対して、礼を言った。

「ミオのこと?」

「いや、一緒に来てくれたこと」

 環の同行は、社会的・家族的に見て好ましからざることであることは確かだった。

 しかし、もしも今年も一人で来ていたら、これほど楽しい四日間になっただろうかと思えば、おそらく答えはノーである。とすれば、怜個人としては、今回の彼女の同行は好ましいものだった。その好ましさを自分で招き寄せたわけではないところが、悔やまれるといえば悔やまれるけれど、そこまで高望みはできないし、全てを自分の思い通りにしないと気が済まないような我がままさとは無縁であるのが怜だった。

「一緒に来てくれたお礼に、帰るまで寝ててもいいよ」

 怜はそう言うと、

「じゃあ、そうします」

 と答えた環は、立ち上がった。そうして怜の隣に腰を下ろした。

「なんでこっちに来るんだよ?」

「この方が都合がいいから」

 我が町の駅に着くまでにそれがどんな都合であるのか、怜にはちゃんと理解できたのだった。

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