第185話:小旅行、最後の夜
バーベキューが終わると、この旅も終わりを迎えようとしているということが意識されて、怜は、名残惜しい気持ちでいっぱいになった。帰って行く家に不満があるというわけでは全然無い。父は口うるさいことは言わないし、母も怜が勉強している限りはほとんど言わないし、たまに妹が小うるさいことがあるけれど、そんなものは大した話じゃない。しかし、ここで今感じているような、一点の曇りの無い気持ちで生活できるかというと、それは絶望的に無理な話だった。
「ちょっと遠回りして帰ろうか」
バーベキューセットの片づけを終えてフォルクスワーゲンに乗り込むと、運転席から祖父が言った。来た道と道を変えるようである。昔の峠道であるようだ。
「と言っても、トンネルも通ったので、昔のようにくねくねとしたこともない、まっすぐな道になったのだがね」
道を変えるのは怜とその友人に来た時とは別の風景を見せるためだろう、と考えた怜は、その心配りに感謝したが、風景を楽しむ前に、なにやら眠気を覚えてきた。色々と活動したあと、さらに昼食を終えたあとであるので、やむを得ないところである。
とはいえ、カノジョを隣にして眠りこけてしまっては沽券に関わる。怜が、恋人と一つ所にいる際のマナーを重んじてまぶたの重さに耐えていると、肩のあたりに軽い衝撃があって、見ると、少女の黒髪があった。
ルームミラーで、祖父が微笑む顔が見えた。いっそう眠るわけにいかなくなった怜が、静かな車内から外を見ると、来た道よりも緑が濃いようである。濃緑の美しさを存分に楽しみながらも、それらの木々が秋の衣を身にまとった紅葉の時季の華麗さを想ってもみた。祖父母の家に秋に来たことは一度もなかった。
しばらくすると、肩が軽くなった。どうやら、環が起きたようである。怜は、隣を見ると、
「おはよう」
と声をかけた。環はハッとしたような顔をして、自分が車内にいることを確かめたあと、どのくらい眠ってたか、小声で尋ねてきた。
「ほんの少しだよ」
「ほんの少しって、どのくらい? 十秒くらい? 二十秒?」
「まあ、そのくらいだよ」
「本当は?」
「十分くらいかな」
真実を告げると、環はショックを受けた目をして、申し訳なさそうに、
「ごめんなさい、レイくん」
謝った。
「別に謝ることないだろ。十分くらい。コアラなんて、一日に22時間も寝てるんだから」
「コアラって可愛いよね」
「動かないし、しゃべらないからな」
「今って夢の中じゃないよね。レイくんが意地悪いような気がする」
「じゃあ、まだ寝ぼけてるのかもしれないな」
「レイくんと一緒にいるときに初めて眠っちゃったね」
「いや、初めてじゃない。前にもあったよ」
「ありません。今が初めてよ」
そうだったろうか、と記憶を探ろうとしてみたが、環が、コアラのようなつぶらな瞳でこちらを見てくるので、怜は思い出の検索をやめた。
一山越えて麓に下りると、アイスクリームでも食べて行こう、と祖父が言った。
「ここのアイスはうまいぞ。添加物を使っていないからなあ」
個人の家の一部を店舗にしているようなこじんまりとした作りのお店に着くと、怜は祖父に従って、アイスを買いに出た。
「どれにする?」
豊富な種類の中から、怜は自分には抹茶を、環にはヘーゼルナッツを頼んだ。小さめのカップに入れられたアイスは、この暑気で、車に持ちかえるまでに早くも溶け出しているようである。
「ありがとうございます、いただきます」
環がスプーンを入れると、怜も自分のアイスを食べてみた。
さっぱりととろけるようであって、全く舌に甘さが残らない。
「美味しいです」
環が感嘆の声を上げると、
「そうでしょう、そうでしょう」
と、祖父がまるで自分が作っているかのように自慢げである。
そのとき、怜は、環の目が自分のカップに注がれているのを見た。
「一口食べるか?」
「やだ、そんなもの欲しそうな顔してた?」
「それほどじゃない。ただ、ウサギを前にしたオオカミみたいな目くらいではあったかな」
「ハイエナじゃなくてよかった。気高いもんね、オオカミは」
「毛深い?」
「け・だ・か・い」
「なるほど、気高いケダモノだな」
「くれるんですか? くれないんですか?」
「もちろん、あげるよ」
環のスプーンが伸びてきたときに、怜は、カップを車の屋根に向けて上げた。じいっとこちらを見る環の目がアイスよりも冷たくなっているのを見て、怜が差し出すと、彼女は確かに一口しか取らなかったが、スプーンを豪快に振るったおかげで、怜の分は残り少なくなった。冗談の代償である。
「レイくんも食べてみる、ヘーゼルナッツ?」
「子どもからレゴブロックを取り上げるつもりはないよ」
「そんな風には思わないわ。それに、こうやって、仲を深めていくのよ、女子は」
「オレ、女子じゃないからなあ」
「それは随分前に気がついていました」
せっかくだからということで、怜はお相伴にあずかることにした。いざ、スプーンを向けると、環はカップをあげ……たりはしなかった。
「仕返しはしないよ。大人だから」
それならということで、怜も、抹茶アイスのかたき討ちはしなかった。しかし、そうすると、自分の方が圧倒的に損をするような気がしたが、気にしないでおいた。
家に帰ると、時刻は4時を過ぎた頃だった。
まだ夕飯には時間がある。
怜は縁側で祖父の将棋の相手をした。
環は祖母の手伝いをするらしい。
「今日はありがとう、おじいちゃん」
「ん? なになに、礼を言いたいのはこっちだよ。おばあちゃんが喜んでいたからなあ」
祖父は人懐こい笑みを浮かべると、
「そら、王手だ」
パチリと駒を動かした。
夕飯になると、本当にいよいよである。
「いっそのこと、こっちに住んだらどうだ、怜」
ほろ酔い加減の祖父が上機嫌に言うのを、横から祖母がたしなめる。
「可愛い子には旅をさせよと言うでしょう」
「はは、あんなものは旅をさせなければどうしようもない子どもについて言えることだ」
怜は、本当にありがたいと思った。酔っていたとしても祖父は軽々に発言する人ではない。とすれば、この発言は半ば本気なのである。つまりは、もしも明日からここに住みたいと言えば、祖母はともかくとしても、祖父は許してくれるというそのことなのである。
「でも、本当に嫌なことがあったときは、いつでも来なさい。ここはあなたの家なんだから」
祖母は真剣な目を向けた。
怜は、はい、と頭を下げた。
「環さんもですよ」
「ありがとうございます。きっとお言葉に甘えます」
環が爽やかな声を出すと、祖母は微笑した。
「あなたみたいな娘を持つことができたお母様はきっと自慢でしょう」
「どうでしょうか。母を驚かせることが多いおてんばですので」
「あなたはあなたで、お母様はお母様なのだから、あなたはあなたでいることです。遠慮はいりません」
「お言葉、肝に銘じます」
あっという間の三日間だった。
また明日から、いや、明日の午後からおなじみの日々に戻るのかと改めて思えば、とはいえ、しかし、日常には友人がおり、カノジョがおり、尊敬できる家庭教師もいるのであるから、恵まれていると言えば言えるわけで、そう言えるかどうかというのが人品骨柄に関わるところであると、怜は反省した。
昨日と同じように、隣から笑い声が聞こえる中で勉強していた怜は、そのうちに笑声が絶えたので、どうやら今日は彼女たちの後から寝ることになるのだと思った。一人取り残された気分の怜は、それでも少し長く勉強を続けた。
11時を過ぎた頃に勉強道具を片付けて、電気を消した。
そうして、布団に入って寝ることにした。
すると、少しして、襖がすっと開いたようである。
月光の中に現れたのは、どうやら我がカノジョのようだった。
「どうした?」
怜は起き上がった。環は何も答えずに、
「失礼します」
とだけ言って、布団の中に滑り込んできた。
「おいおい」
「さ、レイくんも横になって」
何のつもりか分からないが、言う通りにしないとこのゲームが終わらないのであれば、するしかない。
怜は再び身を横たえた。
環の顔がすぐ近くにある。
「ふふっ、こうして一緒に寝るのは久しぶりですね」
「人聞きの悪いこと言うなよ。一度もないだろ、そんなこと」
しばらく無言であったあと、怜は、どうかしたのかと重ねて尋ねた。
「ユキちゃんに聞いたの。レイくんと一緒に寝たことがあるって。だから嫉妬したので来ました」
由希と寝ていたのは遠い昔、それこそ幼稚園とか小学校低学年のときのことである。
「本当にそれだけですか?」
「ん?」
「もっと最近あったんじゃないの?」
それで思い出したことがある。以前泊まりに来た時に、彼女は夜のうちに怜の部屋に滑り込んできたのだった。しかし、それはあくまで怜が夢の世界にいた時の話である。そんなことまで話すとは、怜は由希の良識を疑ったが、常識にとらわれるような子ではないということは知っていたはずだった。
「でも、すぐに帰ります」
「そうしてもらえると助かる」
「もっとくっつこうかな」
「ストップ」
「はい」
すぐ近くから花のような香が漂って来て、怜は、まるで花を抱いているようだと思ったけれど、抱いてはいないということに思い至って、もう出るように促したかったが、彼女がすぐに帰ると言った以上、こちらから催促はできない。
「この旅行は、わたしの人生にとって大切なものになりました」
「いつだって人生には大切なことしか起こらないだろう?」
「そうだけど、女は順位をつけたいものなの」
「やっかいだな」
「だから、覚悟してくださいね」
どんな覚悟が要るのか怜にはよく分からなかったが、人と付き合うということにおいて、大抵の覚悟はできているのが、怜という少年だった。
環はするりと布団から出ると、ちょこんと正座して、
「また明日からよろしくお願いします」
綺麗に頭を下げた。
怜は身を起こすと、こちらこそ、と言って、頭を下げ返した。
「じゃあね、いい夢を」
そう言うと、環は部屋を後にした。
残された怜は、少女の残り香がある布団で、すぐに眠りに落ちたようである。