第184話:歓迎の意味
山道を少し登るようにして、トンネルを抜けると、湖が一望できる。
広々とした湖面は、日の光を受けてキラキラと輝いている。
怜は、隣の少女から感嘆の吐息が落ちるのを聞いた。
湖のそばに車をつけて、荷物を取り出すと、しかし、まだまだお昼には早いので、つれづれを埋めるため、怜は環をボートに乗せることにした。由希と拓馬も誘ってみたが、
「二人が乗っているのを岸辺で見ているよ」
「ボクもボートは随分乗ったから遠慮しとくよ」
断られたので、怜は、祖母に言われて麦わら帽子を装備したカノジョと二人だけで乗ることにした。
環の瞳が現在の湖面のように輝いている。
「これまで大したところに連れて行ってなくて悪かったな」
「全然、そういうんじゃないの、誤解しないでね、レイくん」
「そういうんじゃないのか?」
「うん、でも、レイくんと色々なことをしてみるのはすごく楽しい」
「町内ツアーでも楽しいって言ってたのは、キミのおしとやかさがなせるわざだったのか?」
「あれも本当のわたしよ。だって、これまでしたことなかったでしょ」
なるほど、と思った怜は、これから色々なところにカノジョを連れて行けるという特権を得て、満身に力が入るのを感じた。
以前に、まさにこの湖で何度かボートに乗ったことがある怜は、漕ぎ方も心得ている。ボートに乗った怜は環を座らせたあと、ゆっくりとオールを使って、湖の水を動かした。小舟が静かに岸を離れていく。
湖面を渡る風は涼味を帯びて、恋人たちに優しく吹きかけた。遠くの山並みが、静かな水面に映っている。広い湖に他のボート客はおらず、怜と環の二人は、天地のはざまにある孤影となった。
「レイくんって何でもできるんだね」
環は、感じ入ったような声である。
「ボートのことか?」
「うん」
「やろうと思えば大抵のことはできるもんだ」
「そうかな。やろうと思うだけじゃできないと思う。やろうと思って、現にやってみて、最初はうまくいかないけど、それでもやり続けた人だけができるようになるんじゃないかな」
「そんなに努力家じゃあないと思うけどな」
「努力なんてつまらないわ」
「そのつまらないことを、こと勉強に関してはしないといけないんだな」
「ご迷惑をおかけします」
やりたくもない勉強をしているのはカノジョと一緒の高校に入るためであるという建前であるので、環は謝った。しかし、その顔は笑っている。彼女はほとんどの場合穏やかに微笑しているが、その点、彼女にはまだ遠慮があるということだろう、と怜は考えている。もしか、相応の無理をさせているのであれば、それを減じてあげたいと思わないでもないが、かといって、全てをありのままさらけ出してほしい、とは思っていなかった。「人間だもの」は、人の心性を貧しくする、と怜は考えている。
環は岸に向かって手を振った。
「レイくん、今度ボートの漕ぎ方、教えて」
「今教えてもいいよ」
「今はいいです。今度がいいの」
「それ、昨日の罰ゲームか?」
「まさか、これはただのお願いです」
「いいよ、じゃあ、今度な」
「はい」
環はかぶっている麦わら帽子の前を少し下げるようにして、目元を隠した。
怜は、ボートを岸へと寄せた。
バーベキュー会場へと戻ると、大人たちがゆっくりと準備を始めている。由希と拓馬もそれに加わっているので、怜も手伝いを申し出たが、
「ここはいいから、環さんとこの辺りを散策でもしてきたらどうだ」
と祖父に言われた。
今ボートから帰ってきたばかりだったが、怜は言われた通りにした。怜が手伝いをすれば、当然に環もすることになる。主賓を働かせては歓迎会にならない。つまり、このバーベキューは、本当に環のためのものなのである。
怜は、湖畔の道を案内することにした。
湖のぐるりにある林道である。
木道が綺麗に整備されており、頭上は道沿いにある木々の枝葉が密になっているが、淡い光は降っている。ひんやりとした林の空気を吸い込むと、まるで体が透明になったかのように爽やかである。怜が案内を始めると、
「みなさん、いい方ばかりですね」
と環が言った。
「昔はここがオレの唯一のハイドハウトだったんだ」
「そうだったんだ。でも、一つあれば十分じゃないかな」
「ずるがしこいウサギは、三つの隠れ穴を持つって言うだろ」
「『狡兎三窟』ですね。でも、レイくんはずるがしこくはなれないと思うよ」
「根が単純だからな」
「複雑より単純な方がいいです」
そんなことを言う彼女自体が相当に複雑に思えた怜は、ふと、彼女には昔隠れ家があったのだろうか、と思ってみた。そこに行けば本来の自分でいられるようなリラックスした場所があったのか、いや、昔のことはさておいて、今はどうなのだろうか。もしもその隠れ家が……と思って、怜は自分の厚かましさを笑った。
木道に響く足音は柔らかく、時折、カッコウの鳴き声があった。道は湖をめぐるように作られているわけだけれど、湖は広く、一周するだけの時間はない。
怜は環に回れ右を促した。
「この思い出をもって、今年は過ごすことができそう。もう何にも楽しいことがなくても大丈夫。残りの日々が部屋の中に閉じ込められていても、耐えられそうよ」
「もしもそんなことになったら、オレの方が耐えられないだろうな」
「あら、どうして?」
「その間に溜まったお願いをあとから一気に聞くのが怖いからな」
「もしも、部屋の中に閉じ込められたら、ただレイくんに会うことそれだけを望むようになると思うけどな」
「……閉じ込められた場合、差し入れは何がいい?」
「あっ、わたしが閉じ込められた方がいいんだ。レイくんの重荷になっていたことに今まで気がつかないなんて、ああ、なんていう鈍感さ、自分が嫌になっちゃう」
そう言って環は顔を覆った、歩きながら。
その状態では前が見えないので、怜は、そっと環に身を寄せて、その腰に軽く手を回すようにして、彼女の動きを数歩で止めた。
両手から現れた彼女の顔はもちろん笑っている。
「タマキは重くはなさそうだな。もっと食べた方がいいんじゃないか?」
「ふっくらした女の子の方がお好きですか?」
「それがタマキなら、細くてもふっくらしてても、どっちでもいいよ」
「でも、もしも、レイくんがわたしのことを、妹にしてくれたみたいに背負わないといけない状況があったとしたら、その意見も変わるんじゃないかな」
「じゃあ、そのときのために体を鍛えることにするよ」
林の小道を抜けて、歓迎会場に戻ると、ほとんど準備はできているようだった。
怜が環を伴って近づいて行くと、青天のもとで、万雷の拍手が起こった。
怜も驚いたし、環も驚いたようである。
立ち尽くしているわけにも行かないので、
「……行くか」
と声をかけると、
「うまく歩けそうにないみたい」
環が答えた。
怜はそっと手を差し出した。
環の手がそれに重ねられるのを確認したあと、ゆっくりと彼女の手を引いて歩き出す。
六名の中心にいた祖父が、
「わたしたちの友人として、家族として、ここに、環さんをお迎えします」
厳かに言うと、また拍手が起こった。
怜から手を放した環は、麦わら帽子を脱いだあと、祖父と新しい友人・家族に向かって、深々と頭を下げた。少しして、顔を上げた彼女は、
「みなさんのご厚情に感謝します」
答えた声が少し震えている。
怜は環の頬が上気しているのを見た。常に無い表情は、言葉通りの気持ちによるものなのだろう。
「家族ってことは、お姉ちゃんだと思ってもいいってことだよね。これで、長女の重責から解放されるね、やった!」
近づいてきた由希が、はしゃいだ振りで言った。
「お姉ちゃんは、どんな責任を果たしてたの? 好奇心から訊くんだけど」
姉の隣から拓馬が訊くと、
「弟の教育でしょ」
と由希。
「ボクを教育?」
拓馬は怜を見た。怜は、オレに訊くなという意を込めて、首を横に振った。
「時に手本を示し、時に反面教師となり、日に陰にキミを教育していたんだよ。タクマもね、もうちょっと大きくなったら分かるよ。姉の偉大さが」
拓馬はまた怜を見た。怜は、うなずいておけという意を込めて、首を縦に振った。
会食になった。
怜は、環が一人一人と話をして、今日の主賓の役目を果たしているのを遠目に見ていた。
この会がどういう意味を持っているのかは、あまり考えないことにしておいた。どんな意味を持っているのであれ、環が喜んでいるようであるなら、それだけが大事なことである。
「勝手なことをしたが、老い先短い身だ、許してくれるかな、レイ」
祖父が茶目っけたっぷりの目をして言う。
「おじいちゃんがオレにしてくれることに対して、許すも許さないも無いよ」
「そうか? じゃあ、連れ合いのことも聞いておかないとな」
「おばあちゃんなら、ましてなおさらだよ」
「なら安心した」
そう言って微笑む祖父を見て、どうやらこれは祖母の企画であることを知った怜が、祖母の方を見ると、彼女も楽しそうである。祖母が気持ちをオープンにしているところをあまり見たことがない怜は、環に感謝した。
ふと、怜はこの場に両親と妹がいたら、と思ってみた。彼らの戸惑う姿が見える気がした。もちろん、彼らがいても、祖母はこの会を必ず行ったことだろうけれど。両親に比べると、叔父夫妻に弾性があるのは、祖父母の近くで生活しているかもしれない、と怜は思った。
「おじいちゃんとおばあちゃんに何か返せるものがあればいいんだけど」
怜が言うと、祖父はからりと笑って、
「与えられたものは、わしたちが与えたのではないんだよ。天が与えたのだ。だから、お前は、それをただ受け取るだけでいい。もしも、返したくなったら、それはお前の大事な人に返してあげなさい」
と答えた。
怜は、この祖父母のもとに生まれてきたことを、心の底から感謝した。
「レイくん」
環が名を呼びながら近づいてきたので、怜は祖父のもとを離れた。彼女が、
「本当にありがとう」
祖父母宅に来て何度目になるか分からない感謝の言葉を口にするので、さすがに怜は、もうやめるように言った。
「でも、何度でも言いたいから。だって、何度言っても言い足りないんだもの」
そう言った環の頬はなお紅潮しているようだった。




