第183話:湖畔で昼食を
食事を終えた怜は、自室に戻る前に、祖母から、父と母が今年は来られないということを聞いた。
母から連絡があったようである。
怜は父母が来ないことに関して、寂しい様子を見せなかった。事実まったく寂しくないし、父母が来ないということは、妹も来ないということである。まことに結構なことだ。
祖母は苦笑したようである。
「少しは残念そうな振りをなさい。壁に耳あり障子に目ありですよ」
怜も内心で苦笑した。そういうことで我が孫の評価が定まってしまってはつまらない、というのが祖母の思いだということが分かるのだけれど、そういうことで評価を定めてしまうような人と付き合うのはつまらない、というのが怜の考えである。
怜は祖母に就寝の挨拶をして、昨夜と同様に祖父にも、お休みなさいを言ってから自室に戻った。
六畳のしつらえには、布団と怜の荷物、脇に勉強できるように小さなテーブルがあるのみである。
窓を開くと、虫の声が聞こえてきた。見上げると、月は明らかならず、星の光もさやかである。
隣の部屋から、華やかな笑い声が聞こえてきた。
従妹とカノジョの声である。
――それにしても……。
と怜は思う。
隣の部屋に環がいるという稀な事態が、特別な不思議さを持たず、それでいて興味深いのだから、何ともおかしな気分だった。いったい彼女はどこから来たのだろうか、と考えてみて、以前、月の化身か何かかと考えたことがあるけれど、いまだにそれが否定できない質感を持って自分の胸にある。怜にとって、環といる時間は心地よいものであり、たとえ一緒にいなかったとしても、彼女がこの世の中にいるというその事実だけでその胸を心地よくしてもらえるのであれば、もしか環が月の化身だとしたら、できるだけこの世界にいてもらえるように頼むしかない。
そんなことを考えながら、多少の勉強に努めていると、
「レイ、入るよ」
我が従妹の声がして、承諾を与える前に、ふすまが開くではないか。
「今日はもう五知はいいよね?」
廊下から由希が言った。
「今日はいいってどういうことだよ」
「昨日言ったから気が済んだでしょってこと」
「そういうもんじゃないだろ」
「ごちごち言わないでよ」
「ごちゃごちゃだろ」
「噂が立つ前に出ていくから、いいでしょ」
パジャマ姿の彼女のあとから、同じくパジャマ姿の環が入ってきた。
夕食のあとにお風呂に入ったようで二人ともさっぱりとした風情で、満面の笑みである。
「もう勉強はやめようよ。昔の人もこう言っているよ。『時に及んで当に勉励すべし、歳月人を待たず』ってね」と由希。
「だから、『勉励』してるんだよ」
「やだな、レイ。『勉励』が本当は、人生を楽しむことだっていうのは知っているでしょ?」
知っていた。昔、祖父に習ったことである。
怜は、テーブルの上を片付けた。
従妹だけならまだしも、月を迎えたとあっては、それなりの丁重さが求められる。
「邪魔しちゃって、ごめんね。レイくん」
環は、まったく申し訳ないと思っていないような笑顔である。
「ユキの悪影響じゃないだろうな?」
「ユキちゃんからは、いい影響しか受けてません。いろいろ、レイくんの昔のことを聞いてるんだ」
怜は、由希をじろりと見た。
「小学二年生のときのおねしょの話はしたのか?」
「もちろん。それから、レイの淡い初恋の話もしておいたからね」
「オレにそんなロマンスがあったなんて初耳だな」
「自分のことって、意外に自分では分からないものだから」
テーブルに着いた二人から、花のような香が漂ってくる。
「一番負けた人は、一番勝った人に対して、罰ゲームね」
そう言うと、由希は、一束のカードをテーブルの上に置いた。
トランプではないようだが、初めて見るものである。
「この頃、お父さんがカードゲームにはまっててね。『ニムト』っていうドイツのカードゲームなんだ」
そう言って、由希は、三人にカードを10枚ずつ配って、場に4枚のカードを表側にして置いた。
カードには、それぞれ数字が刻まれている。
三人は手札から一枚のカードを選んでいっぺんに出し、場の4枚のカードの数字の一番近いところに並べる。4枚のカードに列を作るわけである。それを繰り返し、しかし、ある列に6枚目のカードを並べてしまった場合は、その列のカードを全て引き取ることになる。その場合、そのカードはプレイヤーの失点となる。
怜は、何度かやってみてやり方をつかんだけれど、しっかりとルールが理解できたころには、勝負は終わっていた。
「タマキちゃんが一番、わたしが続いて、レイはドベだね」
「これは練習で、次から本番じゃないのか?」
「人生には練習なんて無いのよ。いつだって、本番なんだから」
「キミたちは、そっちの部屋でやってたんだろ。卑怯だとは思わないのか?」
「それを受けた方が悪いのよ。孫子にいう、『廟算して勝つ』っていうのはこのことだね」
怜は、兵法書を熟読すべきであるということを認めた。数学の参考書を読んでいる場合ではない。
「それで、罰ゲームっていうのは何をすればいいんだ?」
怜が環に尋ねると、彼女は、うーん、と考え込む様子を見せて、一晩じっくりと考えたい、などとのたまってきた。クーデターを起こした人間に対する罰を考えるわけでもないのだから、何をそんなに熟考したいのか分からないが、負けた立場である、好きなようにさせる他ない。
拍子抜けしたことに、二人の少女は、それからすぐに腰を上げて部屋を出た。
一人きりになった怜は、再び勉強することにして、しかし、それから三十分もしたら、もうやめることにした。このくらいやっておけば、勉強をした、という体裁も立つことだろう。
道具を片付けて、電気を消して布団の中に入ると、隣室からまた笑い声が聞こえてきた。
その笑い声を聞きながら、怜は眠りに落ちた。
翌朝は、起こされる前に起きられたようである。そうそうカノジョに起こされていては沽券に関わる。とはいえ、やはり彼女たちの方が早く起きていたようであり、怜はトイレと洗面のために足早に動いた。今朝も、空にはちらほらと雲の切れが浮かぶばかりのよい天気である。気温も上がりそうだ。
「おはよう、レイくん」
パジャマ姿で食卓に着くと、すでに着替えている環が、エプロン姿でやはり朝の給仕を行っていた。
怜はエプロン姿への褒め言葉を朝の挨拶に代えておいた。
「ありがとう」
と答えた環は、怜を検分するように見た。
「一つアドバイスをしたいと思うんだけど、レイくんって、それを嫌う人じゃないよね」
「アドバイスの内容によるかもな」
「もうちょっとちゃんと髪を梳かした方がいいと思うな」
「そうか?」
「うん、その方がいいと思う」
「別にいいんじゃないかな、このくらいで」
「わたしがあとで梳かしてあげようか?」
にっこりと環が言ってくるので、怜は素直に洗面台へともう一度向かった。そうして、よくよく自分の髪のはねかえり具合を調べてみた。カノジョの心根のはねっかえり具合に比べれば特に問題はないようではあるが、もういちどブラッシングしておくことにする。そうして、また食卓に戻ると、今度は事なきを得られたようである。
「おはようございます」
新聞を読んでいる祖父に挨拶をすると、祖父は顔を上げて微笑んだ。
「今日は湖にでも出かけようか」
「湖?」
「タマキさんの歓迎パーティをしないといけないからなあ。湖畔でバーベキューでもしよう」
歓迎といっても、もう今日は三日目であり、宿泊する最後の日である。歓迎というのは、最初に迎えるときにするものなのではなかろうか。
「そんなミクロな考え方をしてはいかんぞ、レイ。もっと大きな視点で物事を見ないとな」
怜は、鳥になったような気持ちで考えてみた。すると、確かに答えは呆気なく出た。つまり、環をより大きな意味で迎えるためのものだと考えれば簡単である。例の話はどこまで祖父母の本気なのかよく分からないけれど、彼らがこれまで自分に対して冗談をやったことがあるかどうか考えてみれば、おのずと答えは明らかであるようだ。
朝食を済ませたあと、叔父夫婦と従弟もつれて、総勢八名で、湖まで移動ということになった。怜は、祖父の車で後部座席を環とシェアすることになった。怜は隣から、環のシートベルトの装着具合を確認した。
「ありがとう、レイくん」
環と車で隣り合わせになるのは久しぶり……というか、今回が二度目である。
一度目は、彼女の服を買うために、彼女の母の車に乗ったときだった。
「またお付き合いください」
「どんな服がいいのかなんてよく分からないな」
「じゃあ、適当に褒めてくださっていればいいです」
「適当だったら怒るじゃないか」
「怒りますね」
「そうしたら適当に済ますわけにいかないだろ」
「じゃあ、そうしてください」
車で三十分も走り、山を一つ越えれば、湖がある。
軽快に走るフォルクスワーゲンの中で、環の目がキラキラしている。
「そんなにバーベキューが好きだとは思わなかったよ」
「こう見えてアウトドア派なんだよ」
「どうもこうもそう見えてるよ」
「あら、じゃあ、もっとおとなしやかにしなくちゃ」
そう言って、環は、口にチャックをする振りをした。
「別にアウトドア派が良くないとは言ってないけど」
「レイくんはインドア派なの?」
「そんな派閥には入ってないよ。気の置けない人が隣にいれば、インドアでもアウトドアでも楽しめるだろ」
「わたしに悪いところがあったら言ってね。直せないかもしれないけど、その努力はしてみるから」
「タマキに悪いところがあるとしたら、そうやって、プレッシャーをかけてくることだな」
「わたしは人にプレッシャーをかけたことなんてありません。ハンカチにアイロンでプレスしたことはあるけど」
「それは女の子としてはプラスの点だな」
「何点取ったら合格になりますか?」
「ただの合格なんてタマキは目標にしないよな。理想が高いから」
「じゃあ、たくさんハンカチにアイロンかけなきゃ。いつも泣いてるから、アイロンかけるハンカチには事欠かないしね」
「オレのハンカチも貸すよ。涙に濡れたハンカチならオレも事欠かないから」
「二人で泣いているなんて、悲しくない?」
「一人が笑っているよりはマシだろ」
「うん、でも、二人で笑っている方がもっといいね」
「了解。じゃあ、もうタマキに点数をつけることはやめることにするよ」
「よかった。わたしはどうすればいいか分からないから、レイくんのハンカチは洗わせてもらうね。せめて、その洗濯の分のストレスが減って、涙も少なくなるでしょうから」
助手席に座っていた祖母から、くすくすとした笑いが起こったので、怜はこのときこそ祖母孝行をしたと思ったことはなかった。