第182話:約束はすることに意味がある
環が頼んだイチゴ飴の一つが自分用であるということに、目の前に差し出された赤い砂糖菓子を見て、怜は気がついた。
「二つ食べなくて大丈夫なのか?」
「大丈夫です。むしろ、その言葉の方に傷つきます」
「じゃあ、それもツケておいてくれ。いつか返すよ」
「このシステムだと、レイくんのつれなさも許せそう」
怜は、イチゴ飴の小さな棒を手につまむと、一口食べた。
舌にたっぷりと感じる甘い味わいが、しびれるほどである。
二人で屋台から少し離れたところ、人通りの邪魔にならない道のわきで、イチゴ飴を食べた。
それを食べ終わって、近くにあったゴミ箱に棒を捨てたあと、再び歩き始める。
「他に食べたいものないのか?」
「さっきおばさまにご飯をいただいたばかりよ、そんなにお腹は空いてないわ」
「こういう屋台の食べ物は別腹じゃないのか?」
「じゃあ、レイくんは食べたいものあるの?」
逆に問われた怜は、周囲を見回した。
ちょうど焼き物が集結しているエリアで、お好み焼きに、今川焼、海苔餅を焼いた磯辺焼き、たこ焼きならぬえび焼きなんていうのもあった。
食べるように勧めておいて、自分が食べないというのもなんだからと、怜は、おやきを買うことにした。おやきとは、小麦粉やそば粉を用いて作った皮で、あんを包んだおやつである。
「あんは野沢菜でいいか?」
「野沢菜二つ?」
「別に四つでも五つでもいいけど」
「もうそれはいいよ、レイくん」
いいも何も環から尋ねたことである。説明を促すと、
「野沢菜一つとカボチャ一つを、それぞれ半分個ずつ食べるっていうのはどう?」
一回で二度美味しい名案を得た。
「今ほど、タマキの賢明さに驚いたことはないよ」
「そうでしょ」
そう言って、得意気に顎を少し上げるようにすると、環は笑った。
怜は、売り子の今度はお兄さんに、野沢菜とカボチャのおやきをそれぞれ一つずつ頼んだ。
紙の包みに入ったそれらを、
「どっちから食べる?」
聞いたところ、環が、
「うーん、どっちにしよう。どっちも捨てがたいよね。野沢菜が先かカボチャが先か。これって、ミルクティー作る時の、紅茶が先かミルクが先かくらい決められない問題じゃないかな?」
冗談をやり始めたので、怜は、さっさと野沢菜のおやきを二つに割った。うまく割れなくて、小さめのものと大きめのものができてしまったが、もちろん、怜は大きい方をカノジョに与えた。環は、礼儀正しく一度断ったあと、再度勧められたときには、もう遠慮しなかった。
緑色のあっさりとした味わいの漬け物のあんが入ったおやきを堪能したあと、ぎっしりと黄色のカボチャあんが詰まったおやきへと向かう。
「おいしい」
環が笑顔で言うのを見て、怜も微笑んだ。
屋台の食べ物はいくらでも食べられそうではあるが、帰ったらまた祖母が夕食を用意してくれるだろうから、他につまむのはやめておいた。屋台がいくら美味しくても、祖母の手料理にはかなわない。
再び歩き出そうとしたところへ、前から家族連れが現れた。両親と娘のようである。娘の方は中学生くらいだったが、環と同じように浴衣姿だった。その彼女が、両親に何か言ったあとに、こちらに近づいてくるではないか。怜は戸惑ったが、隣の環は落ち着いたものである。
「こんばんは」
近寄ってきた彼女が挨拶すると、環は、
「こんばんは、ミオ」
と返した。
なるほど環が落ち着いているハズである。澪は、怜の方を見ると、「こんばんは」と同じように声をかけてきたが、しかし、それだけで、そのあとは環に向かった。
「連絡先を交換して欲しいんだけど」
ぶっきらぼうに言う澪に、環は快く応じた。
「でも、友達にはなれそうにないんじゃなかったの?」
環が言うと、
「難しいかもしれないけど、わたしの方が努力してあげる。借りもあるしね」
澪は澄ました顔で答えた。
一歩離れたところから見ていた怜は、澪の雰囲気がすっきりと澄んだものであることを認めた。どうやら、悩みは晴れたようである。お互いにスマホを出して連絡先を交換し合ったあとに、澪は、
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
そう言って、環を脇へと連れていった。
怜は所在ない我が身に、やはり少し離れたところにいる澪の両親に向かって、会釈などさせておいた。
少しして、二人は戻ってきた。
澪は、「お邪魔しました」と怜に向かって軽く頭を下げてから、両親の元へと帰った。
「どうして、悩みの解決を手伝ってくれたのかって、聞かれたの」
怜は、女同士の話だと思って全く訊く気がなかった話を、環から聞いた。しかし、確かに怜も不思議に思っていたことではある。どうして、澪の相談に乗ったのか訊いてみると、
「秘密です」
とのこと。
「何にしても助かったよ。ミオにとってよかった」
「でも、もしかしたら、レイくんがミオにあたってたら、今、連絡先を交換してもらいたいって言われたの、レイくんかもしれなかったんだよ」
「ミオの連絡先に特に興味はないよ」
「可愛い女の子から連絡先の交換を申し込まれても嬉しくないの?」
「タマキより可愛い子だったら嬉しいかもしれないけど、それは、夜空の星の数を数えるよりも難しいだろうな」
「さっきおやきの大きい方とってごめんね。そんなこと言ってもらえるって分かってたら、小さい方を食べたのに」
怜はそんなことは気にしていないと言って度量の大きいところを見せた。
そうして、また環の手を取ると、前の人の背をゆっくりと追うようにして、道の端を歩き始めた。
少しすると道の向こう側に、従弟の姿が認められて、どうやら無事友達と合流できたようである。
鳥居のもとまで帰ってきたけれど、まだいとこたちとの合流時間までには間がある。怜は、少し祭りの喧騒から離れることにした。周囲は田畑であるので、少し神社から離れるだけで、そこは全くの闇である。見上げると、満天の星だった。
怜が名前の分からない星座を見ていると、星が落ちたようである。
「もう一回願いをかなえるチャンスがきたぞ」
怜が言うと、
「願いはもうかなっています。だから、さっきもお願いなんかしていないの」
環は答えて、
「レイくんとおんなじで、感謝していたんです」
と続ける。
「なにに?」
「今ここにこうしてあることに。わたしの周囲の全ての人に感謝していたの。さっき、ここに来るときに、タクマくんが、この世の中にはいい人も悪い人もいるって言っていたけれど、それをひっくるめてこの世の中なら、悪い人にも感謝できる道理でしょう?」
なるほど怜にもそういう心持ちになることがある、ごく稀にだけど。
「だから、わたしもその稀な瞬間が今なんです」
そう言うと、環は手をつないだまま、体を正面に向けてきて、
「ありがとう、レイくん」
またそう言って、軽く頭を下げた。
随分と長く下げている上に、頭を上げるように言ってもあげないので、やむなく怜は、環の頬に手を触れさせて、その顔を上げさせた。闇の中だけれども、その頬の白さはまるで星の光を集めたかのようだった。怜は、環の頬から手を離した。
「いつかまたここに連れて来てください」
「いつがいい? また明日も来られるけど」
「もうちょっとしてからがいいな。ここに来たことが思い出になったころに」
怜は約束した。
「きっとだよ」
「分かったよ」
「ありがとう、じゃあ、もうその言葉だけで十分」
「ん?」
「もう連れて来てもらえなくても、約束してくれたことだけで満足しました」
「そう言われると、是が非でも連れて来たくなる」
「それが狙いです」
「じゃ、狙いは当たりだ」
怜は、星影の下を、環の手を取って、神社へと帰った。
まだ時間にはもう少し間があったけれど、いとこ二人はすでに鳥居の下にいた。
提灯の光が届くところで、怜は環の手を放した。
「待たせたか?」
怜が言うと、由希も拓馬も、今来たところだよ、と答えた。
怜には、たとえそれなりに待っていたとしても、二人がそう答えるだろうことは分かっていた。
「じゃあ、帰ろう」
怜たち四人は、田舎道を帰り始めた。
もう一度星が降りそうな空である。
「この星空の美しさが分かる自分であることに感謝したいなあ」
由希が言った。
「じゃあ、わたしは、星空の美しさが分かる人と一緒に星空を見られることに感謝したいと思います」
環が言う。
不意に怜は、今日の朝に、環と一緒に桜並木を見た時のことを思い出した。なぜ桜は美しいのか。環に問われたことの答えが唐突に出た。それは桜を美しいと思う人と一緒に見るから美しいのである。そんなことも分からないとは、怜は自分の頭の大らかな造りに絶望した。
祖父母宅に着くと、浴衣を着替えたあとに、夕食になった。いとこ二人は、それなりに屋台で食べたようで、あまり食べられない様子だったが、怜と環はよく食べた。怜にしてみると、一年に何度も食べられない料理なのである。食べておかないと損だという気構えで食べていると、
「怜、よく噛んで食べなさい」
祖母から注意を受けた。
くすくすと隣で環が笑っている。
怜は、
「おばあちゃん、夜食も作ってくれない?」
半ば本気で半ば冗談をやると、
「睡眠に障るので、これを食べたら夜はもう食べないようにしなさい」
祖母ははっきりと言って、疑わしげな目を怜に向けた。
「まさか、お家でそんな食生活を送っているわけではないでしょうね?」
怜は、慌てて首を横に振った。もしもここでほんの少しでも肯定したら、祖母から母へと叱責が行くことになり、当然に叱責の原因を作った怜がその余波を浴びることになる。祖母は、結婚して十年以上になる娘に対しても容赦しない。それは、娘のことをいつまでも子どもであると思っているからではなく、
「自分で自分を律することができる人が少ないからです」
ということのようである。
「環さん、怜のことをよろしくお願いします」
祖母が、環に向かっておかしなことを言い出したので、怜は口に含んでいた煮物を噴き出しそうになった。
「何をしているの、あなたは? 言わないことじゃない」
環は崩していた足を直して、食卓から少し離れ、すっと祖母に頭を下げた。
「謹んで承りました」
「ありがとう。これで少し安心しました」
なんだか妙なことになっている。
なにが妙かと言って、食卓には他に、祖父といとこ二人がいるのに、特に祖母の発言を怪しんでいる人間がいないというのが妙だった。
「肩の荷がおりました」
祖母が心からの笑顔で言うのを、怜は聞いた。