第180話:夏祭りの夜
五時半を回って、しかしまだまだ夕闇に遠い頃、祖母が軽食を作ってくれた。
おにぎりと味噌汁と漬物で簡単に腹ごしらえをしたあとは、夏祭りである。
「さて、と。タマキちゃんと着替えてこようっと」
後片付けを終えたあと、由希が言った。お祭りの正装に着替えるのである。少女は、瞳に楽しそうな笑みをきらめかせて、
「着替えてるところ、覗く? レイ」
言ってきたので、怜は、昨晩のことを思い出して、毎回それを訊かないといけない決まりでもあるのか尋ねてみた。
「念のためだよ」
「なんでも念を入れておくのはいいことだ」
「そうでしょ」
少女二人が別室に去ったあと、同室にいた従弟を見ると、彼はにこにこしていた。
「楽しんでるか?」
「ボクは、レイという従兄がいることを誇りに思うな」
拓馬は、小作りに整った顔で、言った。
「何か誇りに思ってもらえるようなことしたか?」
「レイが来ると、お姉ちゃんも一人の女の子なんだっていうことが分かるから」
「いつもは?」
「鬼だね」
「鬼は言い過ぎじゃないか?」
怜は、従妹を擁護しようとしたが、
「そうかなあ。レイは普段のお姉ちゃんのことを十分に知らないからなあ。この前だってボクのイチゴショートケーキを勝手に食べたあとに、その代わりに小麦粉と砂糖を冷蔵庫に入れておいたんだよ」
すぐにその気をなくした。
「またなんでそんなことを?」
「さあ、面白いと思ってるからじゃないの。イチゴショートの材料なら、せめてイチゴをいれておいてもらいたいよ」
「よく耐えてる」
「試練だと思ってるんだ。お姉ちゃんに耐えられたら、将来、女の子と付き合う時、どんな子にも耐えられると思ってさ」
「予定があるのか?」
「ないけどさ。でも、そう思わないとやってられないからね」
怜は果たして、姉の対応をすることが、カノジョの対応をすることと比べてキツイことになるのかどうか、カノジョの方が楽なのかどうか、実感を話すのはやめておいた。おそらく肉親の女性とは別種の辛さがあると思うが……。従弟はいい子である。せめて夢だけは見せてやりたい。
怜も従弟とともに、祖母が用意してくれた浴衣に着替えた。
夏祭りは近所にある神社で催される、この辺りの夏の風物詩だった。しばらくして、
「お待たせー」
浴衣に着替えてあらわれた二人の少女は、室内を明るく染めた。
由希は黒地に桃色の花を咲かせており、環は青地に白いツバメを飛ばせていた。
二人ともきちんと髪を結い上げてある。
怜は二人ともに、よく似合っている旨伝えると、ありがとうと答えた由希は弟に向かって、
「美人の姉を持って嬉しいでしょ?」
言った。拓馬が答える。
「百歩譲ってお姉ちゃんが美人だったとしても、ボクは美人よりも優しいお姉ちゃんの方がいいね」
「百歩も譲らなければいけないとしたら、それもう美人じゃないよね。それに、わたしのどこが優しくないっていうのよ、わたしの半分は優しさでできてるのに」
「確かに半分は優しさでできてるかもしれないけど、9割はいたずら心でできてるから」
「ん? なんか計算が合わないけど」
「人間の心は計り知れないから」
由希は上機嫌で、環に向かった。
「本当に賢い子でしょ」
家を出た怜は、暗さがほんのりと立ち昇る田舎道の上を、二人の少女と従弟を伴って、歩いた。
近くにある家々からも、三々五々、祭りへと赴くのであろう、浴衣姿の少年少女や、家族連れが見える。
「タマキお姉ちゃんって、本当に天使みたいだね」
夕闇の中に、拓馬の声が高い。
「ありがとう。タクマくんもステキだよ」
前を歩いていた怜は、隣から、
「タクマは、おばあちゃんの最後の弟子だから」
由希が笑いながら言う。
祖母は、女性に対する接し方というものを厳しく教えてくれる人である。
「それだからってわけでもないだろう」
怜はカノジョのために抗弁した。
「だとしたら、自然な気持ちってこと?」
「そう。オレもいつもそういう気持ちを持ってる」
後ろから、抗議するような咳払いが上がった。
怜が首をすくめるようにすると、
「お姉ちゃんも、タマキお姉ちゃんを見習った方がいいんじゃない?」
拓馬が綺麗な声を上げて、しかし、姉との間に怜を挟むようにする位置に移動する。
由希は、怜越しに弟を見た。
「タクマ、人は自分にしかなれないんだよ。だから、人から習うことなんて何もないの」
きっぱりとした姉の言い方に、しかし、拓馬は納得しなかったようである。
「そうかなあ。ボクは、みんな違ってみんないい、なんて思わないな。だって、いい人と嫌な人っているもんね」
これは従弟の方に軍配を上げたい怜である。いい人と嫌な人がおり、いい人には惹かれ、嫌な人には惹かれない。惹かれた人と同じような振る舞いをしたいと思うのは自然であり、それは習うということだろう。由希が、そのような考えに至らないとしたら、自分に自信があるのである。しかし、それも何も悪いことではない。
「タマキお姉ちゃんは、どう思う?」
「わたしは二人ともが正しいと思うよ」
環は静かに言った。
拓馬が不服の声を上げる。
「えー、二人とも正しいことなんてあるかなあ。正しいのは、どっちか一つのハズでしょ」
「この辺はおじいちゃんの弟子だね」とやはり笑いながら由希。
「でも、たとえば、ある人のことが好きだけれど、嫌いなところもあるとき、その人のことを『好き』か『嫌い』かでは分けられないでしょう? 好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、この気持ちはどういうことになるんだろう」
環がそよ風のような優しさで言うと、拓馬は、「うーん」と唸ったようである。
「タクマは生まれてくるのが遅かったね」
由希が言う。
「もっと早く生まれてくれば、レイやタマキちゃんと同年代の友達になれたのに」
「お姉ちゃん、さっき、人から習うことなんて無いって言ってなかった?」
「もちろん覚えてるよ。習うことはないけれど、自分であるということを認めるためには、やっぱり人が必要なのよ。タクマにもそういう機会があるといいね」
「そういう言い方、すごく姉っぽいね」
「姉ですからね」
由希は得意気に言うと、「何かおごってね、レイ」と隣に声をかけた。
「お前も同じだけお小遣いもらったろ」
出がけに環を含めてみな祖母からお祭りの屋台に使うようにと渡されていた。
「おごりで食べる屋台の食べ物が美味しいんだな」
それを聞いて、もう一方の隣から拓馬が言った。
「ボク、着いたら別行動でいいかな」
「いや、心配だから、一緒にいてくれ」
「レイ、ボクを巻き添えにするつもりじゃないよね?」
「そんなわけないだろう。ただ、勇気を与えてもらいたいだけだ」
「勇気は与えられるものじゃなくって、自ら振りしぼるものだって」
「誰の言葉だ?」
「誰どころか、みんな言ってるよ。マンガ読んだ方がいいよ、レイ」
怜が確かに読んでおくことを約束すると、薄闇を押しのけるような提灯の群れが見え、祭囃子が響いてきた。
わあっ、と拓馬が歓声を上げる。
「お祭りって何度来てもドキドキするよね」
そう言って、早足で、神社へと向かって近づいていくと、
「まったく子どもなんだから」
と言いながら、由希も先に立った。
怜は、立ち止まると、後ろにいた環をそのまま自分の背に立たせて、すぐ後ろを歩いていた家族連れを先に通した。「すみません」と母親が小声で言って、家族が先を通り過ぎたあとに、怜は環を隣にした。
「浴衣、褒めたっけ?」
怜が言うと、環は、
「褒め言葉って一回限りっていうルールでもあるのかな?」
答えるので、二回目の褒め言葉を言うことにした。
「すごくよく似合ってる」
「ありがとう。浴衣のおかげでいつもの十割増しくらいに見えると思います」
「浴衣も着る人を選ぶんじゃないかな」
「髪も結い上げてます」
「今言おうと思っていたんだ」
「あら、じゃあ、どうぞ」
環は立ち止まると、ちょっと顔を動かして、頭の下の方で銀のかんざしで留められた黒髪を見せるようにした。
「うん、よくまとまってる」
「レイくん」
「いや、可愛いよ」
「マジックワードですね」
環は、怜に顔を見せないままである。
「タマキ自体が魔法だからかな」
まだこちらに顔を向けようとしないカノジョに、怜はさらに、
「ありきたりなことしか言えないカレシを許して欲しい。キミの素晴らしさを形容する言葉を見つけるだけの能力が無いんだ」
言うと、環はようやく顔を向けた。
「その言い訳は今日しか聞きませんよ」
「肝に銘じておくよ」
星が出始めたようである。
「レイくん、いつか星を一つ取って、ブローチにしてくれるっていう約束覚えてる?」
環が下駄を履いた足をそっと前に進ませながら言うと、怜は隣を歩きながら、
「それが中々難しいんだ。まだ少し時間がかかるから、その約束を叶えるまでは一緒にいさせてもらいたいな」
答えると、
「おばさまの教えはどこまで細かく施されるんですか?」
環の声が興味深い調子である。
「おばあちゃんは、こういうときにこういう風に言え、なんてことは教えないよ」
「臨機応変ですか?」
「それ、もともとは将軍の言葉だったはずだよな」
「日々が戦いなんです」
「もっと穏やかに暮らせないのか?」
「それは、レイくん次第じゃないかな」
そうだろうか、と怜は内心で首を傾げたが、外には表さなかった。
神社の大きな鳥居の下へと近づいていくと、人のかたまりが濃い。そのかたまりから少し離れて、
「レイ、早く早く!」
拓馬が、片手を大きく振っている。
「落ち着きなよ、タクマ、お祭りはなくなったりしないでしょ」
隣から彼の姉がたしなめるように言ったが、
「お祭りに来て落ち着いていられるわけないじゃん。大体、落ち着きたいなら、家にいるよ」
拓馬は興奮気味に答えた。これも彼の方に軍配が上がるだろう。
怜が隣を見ると、環も同意するように微笑んでいる。
隣にちゃんとカノジョがいることを確認してから、怜は、大鳥居をくぐって、夜の下をぼおっときらめかせている提灯と屋台の光の中へと入っていった。