第179話:夕刻までのつれづれの豊かさ
目前にアルファベットがある。
アルファベットというのは偉大なものだと、怜は考えてみた。この世の中にあるあらゆる事象を、たった26文字で表してしまうのである。その素晴らしい文字を勉強できるというのはなんという幸福か。
そんなふうにして、英語を勉強するモチベーションを上げようと思ったけれど、さしてうまくはいかなかった。
昼食を終えたあと、従妹の依頼を引き受けようと、澪を待っていたところ、玄関先で応対してくれた環が、彼女と出かけると言う。
自分が引き受けた依頼を彼女が代わって受けるということになっても、怜は、特に断らなかった。大事なのは、誰がそれを行うかではなく、依頼者にとってよい結果になるかどうかである。環なら自分よりもずっと上手くできる。
和室の足の短いテーブルについている怜に、開け放された窓からそよ風が吹いてくる。夏の日はじんわりと暑い。祖父からはクーラーをつけるように言われたけれど、そもそも冷房は苦手であるし、この辺りは耐えられないような暑さではなかったので、窓を開いているだけで十分である。
従妹の依頼を実行に移さなくてよくなって空いた時間を、怜は勉強に使っていた。理想郷に来ても勉強をしなければいけない気持ちになるのが受験生の性である。怜は、自分がしっかりと受験生という人種になってしまったことを、母のために喜んでおいた。
怜は、「彼は一生懸命勉強しなかったので、試験に失敗した」という一文を英訳した。なんという教育的な文だろうか。間接的に、一生懸命の勉強を促してくるのであるから、問題集もなかなか侮れない。
「He didn't study hard, so he failed the exams.」
そう書いて満足していると、
「ご精が出ますねえ」
従妹がやってきて、麦茶を差し出してくれた。
「事情は聞いたか?」
怜が言うと、彼女はうなずいた。
「おばあちゃんに、タマキちゃんとミオが出かけたこと聞いたよ」
「よかったか?」
「いいも悪いもないよ。ミオが決めたことなんだろうから」
彼女は、どこか嬉しげである。
「タマキちゃんの奥深さを知ってもらいたいと思って。きっとびっくりするよ、ミオ。あとで感想聞いてみないと」
「闇だったか?」
怜は、以前に、由希が環を評した言葉を思い出した。
奥深い暗黒の闇が彼女の中にある、と由希は言っていた。
由希は苦笑した。
「そういう言い方すると、なんか心に何か抱えている人みたいじゃんか」
「お前が言ったんだよ」
「逆に何も抱えていないからこその闇なんだけどな」
「なるほど」
「レイはどう思うの?」
「オレが思うのは、タマキがいないところで、タマキの噂話をするのはあまり褒められた行動じゃないだろうということだよ」
「一途だね」
「何本も道を作る甲斐性がないだけだ」
「女の子にとってはその方がいいんじゃないかな」
「その方がいいのか?」
「わたし? さあ、どうだろう。カレシいたことないから分からないな」
「だとしても、理想像はあるだろ」
そう言うと、由希はいたずらっぽい目をして、怜を見つめてきた。
「なんだよ?」
「べっつにー……あ、そうだ、レイ」
従妹は今思いついたかのような顔である。
「今日、この辺で、お祭りがあるの。一緒に行くでしょ?」
「『連れていってください』じゃないのか?」
「まさか、わたしのこと、小さな女の子だと思っているわけじゃないよね?」
「昔はよく手を引いてやってただろ」
「誰だって昔の時はあるでしょ」
「誰にも手を引かれた覚えがない」
「覚えてないだけよ」
「そうかな」
「それが悲しいなら、今から手を引いてもらえばいいじゃない」
「今から?」
そう言われて、さきほど、まさにカノジョに手を引いてもらったことを思い出した。それを知っているわけでもなかろうが、
「タマキちゃんなら、レイを違った世界に導いてくれるんじゃないかな」
由希が言う。
「オレは、ユキをどこかに導いたのか?」
「ん? もちろんだよ。感謝しているよ、レイには」
この聡明な従妹を自分が導いたなどということは考えようもないが、謝辞は素直に受け取っておいた。
「わたしもあっちで勉強していようっと」
「ここでやればいいだろ」
「レイ、わたしもそこそこ自分に自信があるんだ」
「そうだろうな」
「タマキちゃんが帰ってきたときに、カレシのそばに可憐な女の子がいたら、どう思う?」
「従妹だろ」
「緑目の怪物は対象を選ばないのよ。見境ないんだから」
由希がそう言うならそうなのだろうと、彼女の背を見送ると、ほどなくして環が帰ってきた。
「ただいま帰りました」
「お帰り」
怜は、環を座らせると、キッチンに行って、彼女のために麦茶を注いできた。
「美味しい」
白い喉を見せて、環はグラスの半ばまでを飲んだ。
怜は環にカウンセリングの首尾を聞くことはしなかった。首尾を聞けば、澪の事情を聞くことになる。それは、澪に対して失礼になるだろうと思ったのである。
「ミオはもう大丈夫だとわたしは思います」
環が言った。
「レイくんみたいには上手くできなかったと思うけど」
そんなことはない。環が自分よりもなんだってずっと上手にできるということを、怜は認めていた。
「クッキー作りは?」
「それはオレの方がうまい」
「いつその腕前を発揮してくださるんですか?」
「タマキがダイエット中でさえなければ、いつでも」
「もしかして、警告されてるのかな」
「体重なんていくらあっても構わないよ」
「それフォローになってないと思う」
怜は、澪の件の礼に、今度クッキーを焼くことを約束した。
「ありがとう。あと、わたしの悩みの相談にも乗ってくれる?」
「悩みがあったのか?」
「お年頃ですから」
「じゃあ、聞こう」
「せっかく素敵なところに来たのに、カレシがどこにも連れていってくれないんです」
自分の記憶が正しければ、確かに朝この辺りの小川沿いの道を歩いたハズだった。そう言って抗弁した怜だったが、環が小首を傾げて、「だから?」と目で笑ったときに、自分の考え違いを素直に認めた。朝のことは朝のこと、今のことは今のこと、そういうことである。
「近所で夏祭りがあるみたいだ」
「じゃあ、夕べを待ちます。平安時代みたいに」
「平安時代のキミはもっとおしとやかだった」
「時代が変われば理想とされる女性像も変わってくるんですよ」
「それは聞かないことにするよ。その理想像のように振る舞われたら面白くないことになりそうだ」
怜が言うと、環は器用に片眉を上げたが何も言わず、テーブルから立ち上がった。
「おばさまのお手伝いをしてきます」
楽しそうな顔をして部屋を出る環の後ろ姿を見送ったあと、怜は、再び勉強に戻った。
しばらくしてから、環が再び現れた。
怜は環に役回りを交代することを提案した。
環は渋い顔をした。
「今、おばさまに料理を習っているんです。勉強なんてしたくないです」
「オレだってそうだ。誰だってやりたくないことでも少しはやらなくちゃいけないんだ」
「でも、つまんない」
「人生、面白いことばかりじゃないんだ」
「そんなこと、父にも言われたことないわ」
「だからオレが言ってる。代わるよ」
「参考書とルーズリーフ、筆記用具もお借りしていいですか?」
「何も持ってきていないのか?」
「キャリーバッグには、他に色々と大切なものを詰め込んでいるんです」
「たとえば?」
「夢や希望とか」
「そんなに大きなものがよく詰め込めたもんだ」
「根が控えめなので」
「さっきも聞いたぞ」
「忘れないようにと思って」
怜は席を譲った。
「ついでに、オレの代わりに宿題もやっておいてくれると助かるな」
「誰もその人の代わりになんてなれません」
「それは昔よく言われたな」
「知ってます。忘れてるかと思って、もう一度言ってみました」
部屋を出た怜は、祖母を探した。
祖母は台所で、やはり料理をしているようである。
「スイートポテトを作っていたんだよ」
手伝いを申し出たけれど、
「環さんが全てやってくれたので、大丈夫よ」
とのこと。料理以外の手伝いも申し出てみたが、もう何もすることはないとのことである。祖母は、いつも厳しくしている顔を少し和らげるようにして、
「それにしても、いい子を連れてきたものねえ。ひとつ心配がなくなったわ」
ふうと息をついた。
「心配って?」
「怜のお嫁さんのことよ。これを決めてやらないことには、死んでも死にきれないからね。そうしたら、自分で見つけてくるんだから、案ずるより産むが安しだね」
「見つけたというか、見つけられたというか」
「どっちも同じことです。それが縁ですよ」
「実はもう向こうの両親には挨拶を済ませてあるんだ」
「まあ、まあ」
祖母が驚いたような顔をしたので、普段物に動じない祖母を驚かせて、怜は得意になった。
「じゃあ、向こう様にご挨拶差し上げないと」
「冗談だよ、おばあちゃん」
「いいえ、これはあなたが思っているより、ずっと真剣な話なのよ」
祖母があまりに真面目な顔をしているので、怜は戸惑った。お嫁さんがどうとかいう話は、そう軽々に話していいことではないだろうし、まだ早過ぎるだろう。
「何事にもね、早いということはないんだよ。いつまで生きるつもりでいるの? 向こう様がお許しになれば、明日にでも式を挙げてあげたいくらいの気持ちです」
そんなことは法律が許さないハズである。
「まあ、それはそれだね。ところで、怜、あなたには環さんに対して、あなたにしかできないことがあります」
自分にしかできないこととは何だろうか。
環に対してそんなことがあるとは、ちょっと信じられない思いである。
怜は祖母の言葉を待った。
「それは、あなたでいること、い続けることよ」
「自分でいること?」
「そう。それだけでいいんだけれど、それがなかなか難しいんです。でも、怜にはできると思っているけれどね。わたしの孫なのだから」
「おばあちゃん、自分は自分でしかいられないと思うよ」
怜が言うと、祖母は情けないと言わんばかりの顔で首を横に振った。
「ああ、まったく、そんな哲学はおじいさんとしなさい。わたしは、いつも現実のことしかよう話しません。人間の細胞は三カ月で入れ替わるという話です。つまり、三カ月後には別人なんです。それに逆らって、同じ人間でい続けるためには不断の努力が必要なのよ」
変わるけど変わらないものがある。そういう言い方の方がよほど哲学である。
怜は自分でい続けるということがどういうことなのか、それがどうして環のためになるのか、問い返したりはしなかった。もう小さな子どもでない限りは、噛んで含めてもらうようなことを要求するべきではない。そのための頭であるならば、自分で考えるべきだろう。幸い、考えることは嫌いではない。学校の勉強でなければ。
怜は祖母のもとを辞して、環のもとへと帰った。
夕べにはまだもう少し間があるようである。