第176話:せせらぎの小道は桜並木
道は、小川に沿って綺麗に伸びている。
緑の葉をきらめかせた桜も一列になって整列していた。
「春はお花見のスポットになるでしょうね」
環が言った。
「今も綺麗だけどな」
桜は、春だけに見るものではない。夏は緑の葉をつけて、秋は紅葉し、冬は雪の華を咲かせる。一年中見られる木である。
「夏の桜の美しさが分からない人が多くて良かった。おかげで、こうやってレイくんと二人きりで歩けるから」
「人が多いと、花を見ると言うよりは、花を見に行く人を見ているようなもんだからな」
「責められてるみたい」
「オレが?」
怜は、春先に環に花見に誘われたことを思い出した。もちろん、当てつけたなどということはない。天地神明に誓ってそうである。しかし、カノジョには誓わないことにしておいた。
怜は環の手を取ったまま、再び歩き出した。
周囲の風景に改めて目をやると、いつかここに環と一緒に来たことがあるような、そんな気がした。もちろん、そんなハズはなかったが、そのような心持ちになるのは今日だけのことではなかった。そうして、仮にここにいつか環と来たことがあったとして、その時の自分がその時の彼女に対して優しく接してくれていればいい、とそんなことを願った。
20分ほど歩いただろうか。怜は小休止を提案した。桜の木陰に入って、土手に腰を下ろすようにする。怜は、自分のハンカチを取り出して、環の座る場所を作った。環は腰を下ろすと、微笑んだ。
怜は、背に負っていた斜めがけの小さなリュックからペットボトルの水を取り出して、環に一本与えた。目の先にある小川が何事かをささやくようにして流れていた。
怜は暑さを忘れた。
「ふふ」
笑い声が軽やかに上がって、隣を見ると、環が笑みを深くしていた。
「どうした?」
「分かりません。ただ、急に楽しくなっちゃって」
怜もつられて微笑んだ。微笑みが素直に伝わる場所だった。
見渡す限りに人影はなく、人の声もしない。
怜はまるで自分と彼女が風景の一部になってしまったような感覚を抱いた。
「願わくば、オレたちが美しい風物だといいな」
「そうだね」
しばらくそこで座って、川の向こう側にあるこちら側とおそろいになった桜の横一列や、そのさらに向こうにある山並みを見てから、怜は立ち上がった。環に手を差し出して、彼女を立ち上がらせると、ハンカチをしまって、リュックを背負った。
「そろそろ帰ろうか」
「レイくん、我がまま言ってもいい?」
環は微笑をおさめて改まった。
怜は、「いいよ」と即答を与えた。
「もう少しだけこの道を先に歩きたいの」
「タマキ」
「分かってます。自分が我がままだってことは」
「それが我がままだったら、世の我がままに別の名前が与えられるだろうな」
「あら」
「そんなの我がままのうちに入らないよ」
「……根が控え目なので」
カレシに黙って、その祖父母の家にやってくるという算段を整える少女が、自らを控え目というのはいかがなものだろうか。怜は、あえてそう言ってやった。環は頬を染めた。
「わたしの乾坤一擲でした」
「タマキにもサイコロを振るときがあるとはな」
怜は来た道を、さらに先に向かって歩き出した。
「誰にでも勝負の時はあります。わたしはこれで二回目」
「一回目があったなんて知らなかった」
「そうでしょうとも」
怜はすぐに環の手を取った。道は険しいものではなかったけれど、どうにもカノジョの足取りがふわふわと浮ついているように思えるのである。
「心が浮ついているからかな」
「それは分かるよ」
「本当に分かってる?」
「桜の下に入れば気分も高揚するだろう」
「ほら、やっぱり」
「ん?」
それ以外に何か理由があるとでも言うのだろうか。
尋ねてみたが、環は前を見て、微笑を煌めかせているばかりである。
五分ほど歩いたあと、怜は復路を取ることを告げた。
環はまだ前方に名残惜しげである。
「いつか、もっと先まで行ってみようよ、レイくん」
「多分、いつか行ってみたことがあるんじゃないかな」
「いいところだったら、何度行ってもいいでしょう?」
「そこがいいところだなんて、どうして分かる?」
「レイくん、桜はどうして綺麗か分かる?」
「桜はただ綺麗なだけだよ。どうしてもこうしてもない」
「そんなことないよ」
「ならどうしてか、教えてくれ」
「桜だけじゃないの。どうしてこの世界はこんなに美しいのか」
「理由があるとしたら分からないな」
「本当に?」
「教えてくれ」
「教えません」
「もったいぶるなよ」
「それくらい大事なことなんだもの。自分で考えてください」
怜は考えてみたが、答えは出なかった。やはりカノジョに教えてもらうほかないと思ったけれど、その横顔は澄ましたものである。どうやら答えは教えてもらえないらしい。ならば自分で考えてみるしかないが、それを考えるのは後回しにすることにした。せっかく、気の置けない人と歩いているのである。考えごとは、入浴中にでもすることにした。
「レイくん、向こうに渡ってみない?」
怜は、環の手の指す方を見た。向こうとは川の向こうのことである。小さな川とはいえ、数歩分の川幅はあるので、橋でもなければ、確実に靴を水に浸すことになってしまう。
「ガラスの靴が汚れるぞ」
「いいんです。どうせ片方は王子様に預けるんだから」
そう言うと、環は怜の手を放して、ワンピースの裾で夏草を揺らすようにして、土手を下り始めた。
怜は彼女の背を追いかけた。
「あのあたりの石を渡っていけば、なんとか濡れずに向こう岸に辿りつけるんじゃないかな」
川岸で環が指差したところをみると、確かに、おあつらえむきに、大きめの石がまるで橋のように並んでいる。自然にできたものでなければ、おそらくは、子どもが面白がってやったものだろう。なんにせよ、濡れなくて良さそうであるのでホッとした怜だったが、自分の運動神経の程度を思い出して、気を引きしめた。
先に渡ろうとしたが、
「わたし、先に行くね」
と言って、環はまるでバレエダンサーのように華麗に小ジャンプを繰り返して、あっというまに向こう岸についた。何もジャンプする必要もないほど、石と石の間の距離は短い。怜は、カノジョの真似をしなかった。一歩一歩着実に石を伝っていくと、最後に河原に下りるときに、ほっそりとした手が差し出されているのを見た。
怜は、その手を取って、岸に降りた。
「たまにはいいでしょ?」
「どうかな」
怜はあえて口をとがらせるようにしてみた。
環は、声を上げて笑った。
今のジャンプの件といい、淑女らしからぬふるまいは、もしかして、彼女の本質なのかもしれないと思えば、
「無理させてないか?」
訊いてみたくもなる。
環は笑顔で首を横に振った。
「人と付き合うということは、そもそも無理をするということだと思います」
「気の置けない関係もあるだろう」
「親しき仲にも礼儀ありっていう言葉もあるよ」
「好きな言葉だな」
「わたしを責めたいならこの散歩のあとにしてね。それに、無理するのって素敵なことじゃないかな。理のうちのことをしてても、それってあんまり面白くないと思うな」
だとすると、自分のできることというのは何だろうか、と怜は改めて考えてみた。そうして、目前の少女のために何かをしてあげたいと思っている自分のこの気持ちが、問うまでもなく自然であるように思えるのがやはり不思議だった。
「泳ぎに行きたがってたよな」
怜が口に出すと、環はきょとんとした顔をした。そうして、ハッとした顔を作ると、
「言ってました、うん」
そう言って大きくうなずいた。
怜は環の手を取って歩き出しながら、彼女の顔をじっと見た。環はその目から逃れるように前を向いている。どうやら、自分の記憶に誤りがあるか、それとも、
「これから、タマキの言うことを話半分で聞いた方がいいかもしれないと今思ったよ」
ということになる。
「そんなのダメです」
「ダメか?」
「全然ダメ」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「よかった」
土手を上がってから道に出て、しばらくまた緑の桜の下を歩くと、川岸に、黄色いやや大ぶりの花が群生しているのが見えた。
「なんていう花なんだ、タマキ?」
「多分、カンナじゃないかな」
何でもよく知っているものである。
「花の名前、一つずつ教えて差し上げますか?」
「そうしてくれると人生が豊かになる」
「お花屋さんで花束を作る時にも役立ちますしね」
「花束だって?」
「そういうこともきっとあるでしょ」
きっとあるどころの話ではない。現にあったのである。怜は、環に以前、デンファレという花を贈ったことを思い出した。
「これは催促だよな?」
「催促なんかしてません。ただ、花を贈られるっていうことが、一般的に考えて――ねえ、レイくん、あくまで一般的な話だよ――すごく嬉しいことだってことは言えると思います」
怜は、自分のあまり覚えがよくない脳の一ページに、カノジョに花を贈ること、と大書しておいた。
しばらく、カンナを遠目から眺めていると、依然として、周囲には人の姿もなく、ただそよ風が吹くばかりである。
「ここにもいつか来た気がします」
環が言った。
「多分来たんじゃないかな。オレたちが光だったときに」
「ロマンチックですね」
「オレの半分はロマンスでできてるから」
「残りの半分は?」
「愛とか勇気とか友情とかだよ。複雑な男だから」
「わたしは単純な方が好きだな」
怜は環をじっと見てやった。こんなに複雑な子は見たことがない。それはもちろん怜の理解力が不足しているからかもしれないが。
「どうして見てるの?」
「いや、花よりも花みたいな子だと思っただけさ」
「ありがとう」
感謝をしたいのはこちらの方である。
怜はカンナに別れを告げて、環の手を取ったまま、歩き出した。
心は、夏空を吸い込んだように爽やかで、満たされている。
「いつかこういう心持ちで生きていけたらいい」
怜が素直な気持ちで言うと、
「わたしは今だけでももう十分です」
環が答えた。
確かにその通りだと思った怜は、幸福を感じる繊細さという点で、自分が彼女に及ばないことを認めたが、そのように自分より細心に幸福を感じられる人の隣にいるということがより幸福なのではないかとも思った。