第175話:二日目のお散歩
目を覚ますと、目前に少女の顔があるので、びっくりした。
仰向けになっている怜の顔を、布団の横から覗き込んでいる格好である。
「天上でどんな悪事を働いて、地上にやってきたんだ?」
天使さながらの少女に言ってやると、環は微笑んで、
「天井でできることと言えば、室内を盗み見ることくらいじゃないかな?」
答えてから、
「だから今レイくんの寝顔を見てました」
続けた。
怜は布団の上に体を起こした。朝の光が燦々と差し込んでおり、隣にいる少女の黒髪を輝かせている。彼女は既に寝起きのしどけなさを綺麗にぬぐって、簡素なワンピースを身にまとっていた。どうやら寝坊したようである。
「いつもは6時に起きているんだ」
怜は、言い訳するように言った。
「知ってます」
「キミは何でも知ってるな」
「よく眠っているようだったので、気が引けたんですけど」
そう環は前置きして、部屋に入ってきたことを詫びてから、
「でも、そろそろ朝ごはんの時間ですから」
言った。
それなら是非とも起こしてもらわなければならなかったわけだ。しかし、その割には、起こす声が聞こえなかったような気がする。
「心の中で呼びかけていました」
「じゃあ、聞こえない道理だ」
「でも、もう少しで声を出そうとは思っていたのよ」
「『もう少し』ってどのくらいあとのこと?」
「五分くらいかな」
「五分もただ何をしているつもりだったんだ?」
「悪事です」
怜は、環に自分の顔に目やにがついていないかどうか、尋ねた。
「ついてます」
「だと思った。朝顔を見られたくない」
「わたしは気にしないよ」
「オレが気にするんだよ。よだれは?」
「大丈夫です」
「よかった」
「お着替え、お手伝いしますか?」
怜は環をじっと見てやったが、目やにがついた目で見ても逆効果であろうと思って、手伝いたいなら今すぐ部屋を出ていってもらうよう、はっきりと告げた。
環は、はい、と笑顔で立ち上がった。
彼女はいつも微笑しているような表情をしているけれど、昨日今日とその笑いが大きいような気がする。
「楽しいことはいいことだよな」
環が室内を出たあとに、怜は立ち上がりながらつぶやいたが、楽しいのはいいことだとしても、その楽しみの材料が当の自分であるということになると、多少微妙な話になりそうである。窓からは綺麗な青空が覗いていた。こんな素敵な朝に、繊細な話も無いだろうから、怜はその件に関して考えるのをやめて、着替えると部屋を出た。皆に挨拶をする前に、洗面台で顔を洗っていると、
「おっはよー、レイ。よく眠れた?」
後ろから、従妹が現れた。
顔を拭いた怜は、挨拶を返してから、はわはわとあくびをしている由希を見た。
「昨日はずっとタマキちゃんと話しててさ。それであんまり寝ていないの。ねえ、レイ、人と話して、話が尽きないってこと、これまであった? 昨夜だけでも、タマキちゃんに来てもらった甲斐があったわ。これがまだ三日は続くんだから、楽しいよね。レイも夜、こっち来たら?」
「昨日、五知を教えてやっただろ」
「そんな言葉無いんじゃなかったの?」
「無いって言ったって、現にあるじゃないか。ただ、歴史に耐えていないだけだ」
「じゃあ、わたしたち三人だけの言葉っていうことにしようか」
由希は上機嫌で言った。
「ところで、今日、お昼食べたあと、澪が来るから頼むね」
「何も期待するなよ」
「無理だよ、わたしの従兄なんだから」
「じゃあ、期待してもいいけど、覚悟はしておけよ」
「いつだって、覚悟して生きているよ」
それは結構な話である。
怜は台所にいた祖母に挨拶してから、朝食の席に向かった。畳の部屋に足の短い円卓があり、祖父がその一角で、新聞を読んでいる。怜は祖父に、おはようございます、と言うと、その隣に腰を下ろした。すでに卓上には、果物にサラダ、焼き鮭、納豆に海苔、玄米ご飯などが並べられており、その朝食セットを完成させるために、エプロン姿の環が働いていた。祖母は環のことをまるで孫娘ででもあるかのように遠慮なく使っている。
いつもであれば、環の役を演じるのは怜であるので、怜は何となく落ち着かない気持ちだった。
隣から祖父が言った。
「男はなぜ朝食の時に新聞を読むか分かるか、怜?」
怜は少し考えた。
「男は外に出れば七人の敵がいるっていうから、その敵に対するために知識という武器を磨くためかな」
そう言うと、祖父は、ニッと歯を見せた。
「いやあ、朝ごはんを給仕してくれる間、することがない身を持て余すからさ」
「オレも持てあましてるよ、おじいちゃん」
「一枚読むか?」
そんなことを言って、祖父は本当に新聞の内、生活面を一枚くれた。
中々興味深い記事である。
その記事を読み終わったとき、
「お二人とも、もう新聞を読むのはおやめになってください。朝ごはんの準備が整いましたので」
味噌汁を運び終わった環が言った。
怜は、食肉の代わりに根菜類を食べた場合に、どのくらい温室効果ガスの削減になるかということに関して新たな知識を得て、新聞を畳に置いた。
途中から給仕に参加していた由希を合わせて一家五人で、「いただきます」を唱和したあと、心から食事を楽しんだ。普段の朝食は栄養補給以上の意味を持たないけれど――もちろん、栄養補給ができることはありがたいことではあるが――今は、共に食べる人との絆を強めるためのものでもある。
「美味しいよ、おばあちゃん」
怜は祖母に言った。
祖母は口の端だけで笑みを見せた。この祖母には、祖父母宅を訪問するたびに礼儀作法の指導を受けたものであり、今でも何か無作法があると注意の声が飛ぶ。しかし、その注意は、責めるようなものではなく、あくまでこちらの改善を促すためのものであるので、反感を覚えることはなかった。
怜は環の食べる所作を見た。美しい食べ方である。祖母は何も言わなかったが、内心では驚嘆しているに違いないと思えば、面白かった。
食べ終わったあと、怜は後片付けを手伝おうとしたが、さきに環が立って、その立つ姿があまりに自然であるので、何もできなかった。
「オレの趣味を奪うつもりか?」
「お皿洗いが趣味だったなんて知らなかったわ」
「人の趣味は説明できないっていう諺あっただろ」
「今度から気をつけます」
うむ、と大仰にうなずいた怜は、環の顔が輝いているので、祖父母宅における皿洗いの特権を譲るつもりになった。
従妹の用の時間まで、間があるので、怜は環と少し辺りを散歩することにした。ちょうど、案内係もいることであるし。
「ユキ」
「ん?」
「この辺りを案内してくれるだろ?」
「この辺りなら案内するまでもないでしょ。レイが、タマキちゃんを色々案内してあげたら?」
「お前は行かないのか?」
「やだ、気を利かせてるのが分からないの、レイ?」
「なんのことだよ」
「カレシと二人きりになりたいのが、乙女でしょ」
「タマキは、普通の乙女の範疇には入らないと思うけどなあ」
「そういうことはもしも思っていたとしても、口に出さない方がいいってこと、おばあちゃんに習ったでしょう?」
「普通なんてつまらないだろう。みんなが踏み固めていない道を歩いた方がきっと刺激的だ」
「その刺激はとりあえず、自分だけで受けてね」
そう言うと、由希は環を連れて来て、従兄の失言について彼女に話した。
「いつからスパイになったんだ、ユキ?」
「友情の証よ」
「オレへの愛情はどうなる?」
「もちろん感じているけれど、友情の方がもっと繊細なものだから」
怜は、環を外に誘った。
「普通の乙女じゃなくてもいいんですか?」
「それがタマキなら、乙女じゃなくたっていいさ」
そう言うと、環は微笑んで、祖母に外出の許可を貰ってくると言ったあと、キッチンへ行った。
「カレシが欲しくなってきたよ」と由希。
「ユキなら誘う水も多いだろ?」
「わたしの根は太いから中々絶えてくれないんだな」
「じゃあ、欲しがってもしょうがない」
「ないものねだりが好きなのよ。あるものをねだってもしょうがないからね」
戻ってきた環は、
「帽子をかぶっていきなさいって、おばさまが」
言ったので、怜は玄関の帽子掛けにあるキャップを拝借した。環も麦わら帽子をかぶった。それらは二つとも真新しいもので、二人のためにおろされたものだということが分かった。
「よく似合ってる」
「ありがとう」
外は夏の光に輝いているが、それほど暑くはないようである。雲もあれば、そよ風もある。怜は念のためにペットボトルの水を入れてきた、小さめの肩掛けバッグの位置を直すようにした。
門を出て、少し行くと小川があり、きらきらと日を反射しながら、穏やかに流れている。川の土手沿いには桜並木があって、まだ植えられてそれほど経っていないのだろう、小さめの木々が緑の葉を茂らせている。
二人は桜の影の下を歩いた。
「ステキなところですね」
「まだ名前はつけられてないから、好きなように呼ぶといいよ。『恋人たちの小道』とかどう?」
怜は環に手を差し出した。
環がその手を取って、木の根を飛び越える。
「なかなかいいと思うけれど、もうひとひねり欲しいかな」
「たとえば?」
「カントリーロードとか」
「この辺いったいの道全部がカントリーロードだろ」
「じゃあ、ロマンティック街道は?」
「こういう小さな道を街道とは言わない」
「名前をつけるのって難しいね。普段しなれていないから」
「タマキでも難しいことがあるなんて驚きだな」
「わたしには難しいことだらけです。男の子の怒りをどうやって解けばいいかも分からないし」
「オレは怒ってなんかいないよ」
「どうかな。そう見せているだけかも」
怜は立ち止まって環を立ち止まらせると、よくよくとカノジョの目を見た。
「タマキ、ここにキミと一緒にいられて、こんなに楽しいことはないよ。来てくれてありがとう」
怜は衷心から声を出した。
環はその綺麗な瞳を見開くようにしたが、「こちらこそありがとうございます」と言って頭を軽く下げ、その目を隠すようにした。