第174話:故郷の初日
怜は環の部屋の隣の部屋をもらった。いつも使わせてもらっている部屋である。一年に一回か二回しか来ない部屋だけれど、自宅の自室と同じくらい愛着があった。広さは環の部屋と同じ六畳である。怜は中央に置いておいた荷物を脇に寄せると窓を開いた。遠くの山並みに白い大きな雲が影を落としている。爽やかな風が怜の額を撫でた。
昼食は、祖母お手製の、夏野菜を使った冷製パスタだった。オクラとトマトを巻き込んだパスタにツナが降りかかっており、刻み海苔がトッピングされていた。見た目にも涼やかな一品を楽しんだ怜は、カノジョに祖父母宅の周辺を案内する栄誉を頂こうと思ったが、
「お家のことをおばさまに色々と教わりたいので、折角ですが、また今度にしてください」
そう言われて、すげなく断られた。
祖母に何を教わるつもりだろうか、と首をひねった怜は、すぐに彼女が長袖長ズボン姿になったのを見た。
「裏の畑を手伝うんだって」
環の隣で、由希は微笑んだ。彼女はさっきまでと同様の全くの普段着である。怜は着替えを借りようと思ったが、
「レイくんは休んでいて。これはわたしの我がままだから」
環は、はっきりと言った。
「見ててもいいよな?」
環は由希を見た。すると、由希は、
「初めて鍬を持つへっぴり腰を見られたくないっていう乙女心が分からないレイじゃないでしょ?」
言った。
「乙女は鍬を持たないと思うけどな」
「いまどきは乙女でも鍬も持てば鋤だって持つのよ」
「時代は変わったな」
怜は環を送り出した。それから、由希を見た。
「やだな、レイ。もしかして、わたしがおばあちゃんの手伝いをしないことに関して、誤解してないよね?」
「タマキとおばあちゃんを二人だけにするためだろ」
「あ、分かってたんだ。じゃあ、何でこっちを見たの? わたしが可愛いから?」
「もうこれ以上隠しごとはいらないぞっていう意味を込めて見た」
「乙女は隠しごとをするものなのよ」
「どうも、その乙女ってやつと付き合いたくなくなってきた」
そう言うと、怜は、与えられた部屋で勉強をしたり、遊びに来た従弟とボードゲームをやったりして、その日の午後を過ごした。
夕食は、怜とその友人を迎えるために、両家そろってのものとなった。
祖父母の家の居間に、総勢で八人が集合する。
環はまるでもとからそうしていたかのようにして、祖母のエプロンを身につけると、祖母の料理を手伝っていた。
「いやいや、不思議な子だなあ、環さんというのは」
しみじみと言った祖父は縁側に腰を下ろして、まだ夕景に届かない、日のもとにある庭を眺めている。その前に将棋盤が置かれており、怜は祖父の相手をしているところだった。
「人の評点に辛いおばあちゃんにもう気に入られてしまったよ」
環の不思議さに関しては十分に身にしみていると思っていた怜であるので、さすが環だと思うのと同時に、しかし、まだ素直に驚く気持ちもあった。
祖父は、将棋盤越しに身を乗り出すようにすると、口元に手を当てるようにして、
「もしかしたら、おばあちゃんは環さんを、怜のお嫁さんにする気かもしれんなあ」
ひそやかに言った。
怜は、環とは今年の一月から付き合い出したばかりであるということでもって、おだやかに抗弁した。
祖父は大げさに驚いたような目をしてみせると、
「そうすると、まだ七カ月くらいか。まるで七年は付き合っているように見えるぞ」
言ったので、実は自分もそんな気がしているのだということを怜は正直に告げた。
「わしに見えるということは、おばあちゃんにも見えるということだからなあ。孫が七年付き合った女の子を連れてきたのだから、考えることはそれほど多くないだろうなあ」
祖父の言葉を、怜は、「まさかそんなこと」と笑って聞き流すことが、なぜだかできなかった。
「人生を楽しんどるか、怜?」
祖父は、いきなり言った。しかし、それは、ここに来るといつも訊かれる問いだった。
祖父の問いに対しては真摯に答えたい怜としては、
「楽しもうとして、楽しめることも多々あるけれど、楽しくないことも残念ながらあるよ」
そう答えた。
祖父は笑った。
「人生は楽しんだものの勝ちなのだ。そういう風にできている」
「人生は勝ち負けなの?」
「まあそうだな。ただし、相手は他人じゃない。他人なんてものはなあ、本当にどうでもいいものだよ。たとえば、あと一日しか生きられなかったとしたら、他人のことなんて気にしているヒマはない。それを、百日、千日に伸ばして考えられるかどうか、そういうところが、大事なところだな」
「じゃあ、勝負の相手は自分自身なの?」
「いや、そうじゃない。あえて言えば、天だなあ」
「天?」
「うん、天だ。天が与えてくれるものとの勝負だ。たとえば、花がある。その花を見て美しいと思えるとき、そのときはこっちの勝ちだ。花を見ても美しいと思えないとき、そのときはこっちの負けなんだ」
なるほど、と怜は思った。
なかなかそういう境地には至れない。他人を意識せずにはいられない。全ての悩みは人間関係の悩みであるといった心理学者もいるくらいだ。
「大切なのは、悩むことではなくて、考えることだ。悩みの解消なんていうことに思い悩むには、人生はあまりにも短いのだ」
そのとき、きしりと音がして、環が縁側を歩いてきた。
「お茶が入りました、おじさま」
そう言って、環は膝を折ると、祖父にお茶を差し出した。そのあと、怜にも差し出す。
「やあ、お客様を働かせてしまって申し訳ない」
そう言うと、祖父は実にうまそうにお茶を飲んだ。
環は首を横に振った。
「おばさまは、わたしのことを家族として迎えるとおっしゃいました。ですから、わたしも家族としての務めを果たしたいのです」
「お茶を淹れる務めは面倒ではありませんか?」
「いいえ、美味しそうに飲んでくださる方になら、何度でもお淹れしたいと思います」
そう言うと、環はちらりと怜を見た。
怜は、「うん、うまい!」と声を大きくした。
環ばかりを働かせていては沽券に関わるので、怜は風呂掃除なぞ申し出てみた。すると、風呂は掃除したばかりであるという。客を迎えるのに、そのあたりの手抜かりが祖母にあるわけがなかった。
一家八人での食事は実に美味しかった。
いつもの食事よりもずっと美味しいのは、いつもの家族よりも気が置けないということではなくて、環境が変わったことによる楽しさだろう。とはいえ、妹がいないことだけでも大分、違うところがあることは否定できない。
環はやはり、まるでもともと彼らの家族ででもあるかのように、皆と談笑したり、学校の話題を提供したり、祖母の手伝いをしたり、祖父や叔父に酌をしたりしていた。
「こんなお嬢さんがいるとは」
叔父は感心しきりで、
「由希も環さんを見習いなさい」
と言うと、由希は、
「多分環さんのお父さんの教育がいいんじゃないかなあ~」
とやり返して、父娘の仲がいいことをアピールした。
怜はそっと環の顔色を見ていた。そこに少しでも疲労や緊張の色を見て取りたいと思っていたが、特にそういうこともないようである。環は怜と目が合うと、にっこりとほほ笑んだ。
食べ終わると、みんなでトランプをしてお茶の時間とし、わいわいとやったのちに、九時を回ったので、叔父夫妻と年若い従弟は家に帰ることになった。
「お姉ちゃんをよろしく、レイ」
従弟は、怜だけに耳打ちした。
「お前のお姉さんは、オレには荷が重い」
「重い荷物を背負って坂道を登るのが人生だって、エラい人が言ってたよ」
「じゃあ、タクマは?」
「ボクは、ロープウェイを使うね」
ロープウェイ扱いされた怜は、二人の少女の相手をしないわけにもいかず、ご機嫌を伺いにいったところが、
「今、着替え中だから……覗く?」
と言われたので、祖父に就寝の挨拶をすることにした。祖父は、書斎に籠もって、大部の書物と格闘していた。「初期ギリシア哲学者断片集」という本は、古代ギリシアの哲学者の残した言葉についての本であるが、祖父によると、
「これほど飽きない本はない」
とのことだ。
「魂の際限を、君は歩いて行って発見することができないだろう、どんな道を進んで行ったにしてもだ。そんなに深いロゴスをそれは持っている」
祖父がそらんじる言葉の意味は、怜にはまるで分からなかった。
「いや、いいんだ、いいんだ。怜はまるごと生きればよい。哲学や思想から得られるものが、お前の中にはすでに身についているのだからなあ。それを誰かの言葉によって改めて勉強する必要などないんだ。わしの中にもそれがあるとしてな、じゃあ、なぜ本を読むかと言えばだな、それはこれらの言葉が、いいかい、2,500年前の、日本とは遠く離れたところにいた彼らの言葉がな、もしかしたら、昔わしが言った言葉じゃないか、とそう感じられてならんからだよ。そうでなければ、本を読む面白さなんてものは、もうわしには分からんのだ」
これは祖父に前にも聞いたことがあることだった。
怜は、祖父の部屋を辞すると、台所に行き、なにやら料理の下ごしらえをしている祖母にも挨拶をした。
「いい子に見つけられましたね、怜」
「見つけられた?」
「女の子がね、男の子を見つけるんです。逆はあっても逆はないんですよ」
祖母がそう言うのであればそうなのだろう。怜は自分の幸運を噛みしめることにした。若干苦い味がしたような気がしたけれど、そういう味も必要だろうと思い直す気持ちには、多少無理もあるが、そういう無理を引き受けるのが、甲斐性であると思うことにした。
着替えが終わったらしい二人のもとに帰ると、客間に布団が敷かれた部屋に導かれたけれど、怜は丁重にお断りした。女子二人のいる部屋に入ったら、どんな噂を立てられるか分からない。
「でも、誰も知るわけないでしょ?」
「天知る、地知る、我知る、そして、キミたち二人が知っている。五者も知っているんだぞ」
「五知だね」
「そんな言葉はない」
「今作ったのよ。あ、そうだ、例の件、お願いね。明日にでも手配しておくから」
例の件とは、非行一歩手前の友達を更生させてもらいたいというヤツである。怜は環を見た。従妹のパジャマ姿の環は、半袖と半ズボンから白い腕と足を覗かせて、訳知り顔で微笑んでいる。何が例の件だよ、と怜は思った。すっかりと環に話してしまっているくせにそういう言葉づかいをする従妹を、怜は愛してやろうと広い気持ちを持った。
二人の部屋を辞すと、きゃっきゃっというにぎやかな声が上がった。怜は、ひとりあてがわれた部屋で、所在なく、窓を開いて夜気を入れると、空を見上げた。残念ながら、夕方から現れた雲に隠れて、月も星も見えない。しかし、心は澄んでいる。雲に隠れていても、その先にある月や星の存在を素直に信じられる、そういう心持ちは、ここに来るといつも持てるものであるけれど、いつもよりもすっきりと持てることを、カノジョのせいにすることにした。