第173話:真実は人の数だけ存在する
縁側に座って、庭に潜むものの息遣いを聞いていると、心癒される気がする。
夏の夜。
澪は、目をつぶって、あぐらをかいていた。
このところのじんわりとした夜とは打って変わった涼しげな夜である。
風が軽く吹いていた。
りん、と風鈴の音が鳴る。
板敷きの冷たさが足に心地よい。
澪は、スイカのことを思い出した。ご近所から頂いたものが冷蔵庫に冷やされているハズだ。
とん、と立ち上がって、キッチンに行くと、妙齢の女性がたたずんでいる。
澪は慌てて足を止めた。
「どうかした、澪ちゃん?」
とくん、とどうにも波立ってしまう自分の心を落ち着かせようとしつつ、
「スイカ、食べようかなと思って」
言うと、
「切り分けようか?」
女性が答えた。
「自分でするからいいよ」
そう言った自分の声にとげとげしい調子を聞いて、澪は内心で舌打ちした。
女性は、あいまいな笑みを浮かべた。
澪は、
「やっぱり切ってもらってもいい?」
言って、彼女の笑みをもう少し本当のものにさせた。
「すぐ持っていくね」
背を向ける彼女から背を向けた澪は、縁側に戻った。
女性は、澪の母である。
新しい母である。
少し前に、父が再婚した。
澪を産んだ母は、澪が幼い頃に亡くなっていた。
澪は、どうにも新しい母のことが気に入らない。しかし、どうして気に入らないのかと問われると困ってしまう。客観的に見て彼女はいい人である。継子いじめなんて全くない、優しい人である。しかし、なぜだろう、彼女といると、心がどうしても粟立つのだ。
本当の母と比較して、ということでもないと思う。もちろん、記憶の中の母は、澪にとって素晴らしい人で、理想の女性像と言ってもいい。しかし、その記憶の理想像と比較するような分別の無いことはしていないつもりである。
新しい母自体が必要無いという、そういうことでもない、とは一応思ってもいる。自分には必要無くても、父には連添いが必要だったわけであり、そのあたりの事情だって、分かっているつもりである。だから、一言の反対もせずに結婚に賛成した。
それなのに、どうしてか、彼女のことが気に入らないのだ。気に入らない理由が無いのに気に入らない。それは全く理不尽な話であって、苛立ちは彼女自身に対するものではなく、その理不尽に向けられたものだとも言える。
「ここに置いておくね」
母が、そっと差し出してくれるスイカに向かって、
「ありがとう」
と言ってしまう自分が滑稽だった。
こういう自分は好きではない。澪は自分のことをもっとさっぱりとした人間であると認めている。こんな風にじめじめとしたところなんて、さっさと捨てたいと思うけれど、スイカの種を吐き出すようには行かないのが厄介である。とはいえ、見て見ぬ振りをしても仕方がない。
こういうときは距離を置いてみるべきなのかもしれない。距離を取れば対象を客観的に見ることができる。目前にしていれば赤くしか映らないものが、距離を置けば、それがリンゴだったり、ポストだったり、夕焼けだったりすることが分かるように。
そういうわけで、澪はこの頃、ちょくちょくと友達の家にお泊りさせてもらっていた。気の置けない友達のところなので、その家族も澪の事情を酌んでくれている。ありがたいことである。父はもちろんいい顔はしないが、あまり強く責めると、娘が外泊以上の非行に走ることでも心配しているのだろう、小言はかなり柔らかな口調である。
「なかなか難しいね」
何人かいる友人の中で際だって興味深い存在が由希だった。彼女とは幼いころからの知り合いで、中学二年生になった今でも付き合いがあるが、とはいってもべたべたとするわけでもなく、かといって全く離れてしまうわけでもなく、つかず離れずというヤツだった。その微妙な距離感ゆえか、心に溜まるものがあると、何となく彼女に会ってしまう。
「なにかアドバイスしてくれないの?」
澪は言ってみた。忠告を本当に期待しているわけではない。ただ冗談で言ってみただけである。由希はそういう人間ではない。案の定、彼女は、
「わたしはお母さんが生きているし、新しいお母さんと暮らしたことなんかないから」
言った。
澪はねばってみた。
「それだって、何か言えるでしょう?」
「ねえ、ミオ。少なくとも同じ経験をしたことがない人がするアドバイスなんていうのはね、本当に価値がないものなんだよ。分からないことについて語っているわけだからさ」
「その理屈じゃあ、人が人にアドバイスできることって、かなり少なくなると思うけど」
「なるよ」
「でも、人にアドバイスをもらって、自分の行動を決めるってことは普通にあると思うけど」
「それはね、アドバイスをもらって決めたわけじゃなくて、その人が自分で決めたんだよ」
「自分で決めた?」
「そう。自分で決めたの。決心が先にあって、その決心を後押ししてくれるものを、他人のアドバイスの中に求めたんだよ。だから、その人がどんなアドバイスをされても、決心は変わらなかったわけ」
すごい理屈のような気がしたけれど、澪は由希と議論を戦わせたいわけでなかった。議論など不毛である。澪が求めているのは勝った負けたではなく真実だった。
「来週、怜が来るんだ」
友人はいきなり言った。
怜とは由希の従兄である。澪も何度か面識がある。
「レイと会って話をすることを、ミオにはお勧めするよ。それがわたしのアドバイスかな」
「友達のことを、従兄に任せるの?」
「具合が悪い人がいたら、医者に任せるでしょう。それと同じ」
病人扱いされた澪は嫌な気持ちになった。
由希はその気持ちを読み取ったようである。
「病気にだって価値はあるよ」
「どんな?」
「健康のありがたさが分かる」
「月並み」
「正しいことは月並みなんだよ。わたしが悪いわけじゃない」
「会って話してどうするの? その人からもアドバイスは受けられないんでしょ?」
「アドバイスはしないだろうけれど、レイと話せば、自分自身の気持ちがクリアになるよ」
「クリア?」
「そう、はっきりと自分の気持ちが見える」
「嫌な気持ちかもしれない」
「人間は砂糖菓子じゃない」
「……どういうこと?」
「綺麗なものだけで作られてるわけじゃないってこと」
由希はときどき人をけむに巻くようなことを言う。それが、あえてやっているわけでもなさそうなところが、彼女の嫌味なところである。
「自分のこと頭いいと思ってるんじゃないの?」
澪は正直に思ったことを言った。
他の友人には絶対に言わないようなことも、由希相手にはすらすらと出てしまうから不思議だ。
由希は特に気分を害した様子もなく、
「特にそうは思ってないけど、でも、話が合わない人が多いとは思うよ。ミオとは合う方だね」
答えた。
「ありがとうって言った方がいいの?」
「そう言いたければ」
「ユキと話がぴったりと合う人なんかいるの?」
「それがレイだよ。あ、あと、もう一人この頃できたんだ」
「誰? カレシ?」
「いや、女の子だよ」
「女の子?」
「そそ、すごい子なんだ、これが」
「よかったじゃん」
「うん、よかった」
心から嬉しそうにする彼女を見て、澪は特に、「友人を取られた」とか、「自分が彼女にとってそういう人間になれなくて悔しい」などと思っていないことが不思議だった。自分自身も変わっているのだろうか。あまりそうは思いたくない。
――レイか……。
その日、由希の部屋で一緒に寝る前に、澪はふと思い出すことがあった。小学校四年生のことだ。母が亡くなって数日後のこと。澪は家を飛び出した。母が死んだことを信じられず、母と一緒によく行った草はらに行ってみたのだった。母を亡くした幼子がいなくなっててんやわんやになっている家の喧騒が届かないところで、澪はじっと草むらにうずくまっていた。そこでじっとしていれば母が迎えに来てくれるようなそんな気がしていたのである。
しかし、実際に迎えに来てくれたのは、一人の男の子だった。自分とそう年が違わない彼は、澪の気持ちをほぐして、澪を生者の世界に戻してくれた。それが、怜だったような気がしないでもない。というのも、そのときのことを澪はよく覚えていなかったのである。母と澪がよく行っていた草はらのことを思い出して慌てて迎えに来てくれた父が事情を知っているハズであるので、訊いてみればはっきりとするのかもしれないけれど、そういう気持ちにならなかった。
あの日、確かに澪は母に会ったのであり、それは自分だけの思い出にしておきたかった。いくら父でも共有したくなかったし、今の父であればなおさらである。とはいっても、今の澪も、自分が上等な存在ではないということは分かっていた。それが分かっていてもどうすることもできない。完全な手詰まり、袋小路である。
自分の中に決心があると由希は言うけれど、本当なのだろうか。とてもそうとは思えないけれど、そうは思えない、つまり決心が無いということは自分という確固とした存在が無いということでもある。そんなことはあまり考えたくはなかった。
澪はとりあえず、怜に会ってみることにした。会ってどうにかしてもらいたいと思ったわけではない。あのときの少年が彼だったのかどうか興味が湧いたのである。仮にそうだったとしても、どうということもないのだけれど、真実というものは知るだけでも価値があるものなのかもしれない。翌朝起きたときに、澪は由希に、怜と会わせてもらえるようセッティングを頼んだ。
その日が明日に迫っている。
澪は厚く切られたスイカを綺麗に食べ終えた。ふう、と一息ついて立ち上がると、キッチンへと行く。
「……スイカ、ご馳走さまでした」
エプロン姿の母に声をかけると、振り返った母は嬉しそうに微笑んでくれる。その微笑みに心からの笑みを返せない自分を感じながら、澪は二階にある自分の部屋に戻ることにした。廊下に出ると、浴室の方からガラガラと戸が開く音がする。澪は、風呂上がりの父に会わないように、階段への足を速めた。