第17話:わざわいは口より出づ
勉強をしようとすると狙いすましたかのように邪魔が入る時がある。塾で出された宿題プリントに取り掛かろうとしたその瞬間に、母から家の風呂掃除を命じられたり、妹が小金をせびりに来たり、父が突然の家族サービスに目覚めドライブに連れ出されたり、と寄ってたかって勉強をさせないようにしているのではないかと疑いたくなるようなタイミング。全くもっていらいらさせられる。通っている塾の講師に、多少の愚痴交じりにこぼすと、
「『勉強しよう』とことさら意識するからそう感じるんです。勉強をしようとする、などというのはあなたの驕りです。勉強以外に何をするんです? 来年の受験までは勉強を第一に考えてください」
と、いつも通りの抑揚のない声でたしなめられた。
「プリント、参考書、問題集、ノート、単語帳など、何でも良いので勉強道具を常に携帯し、時間があれば見るようにしてください。使える時間を全て勉強に使っていれば、多少の邪魔が入ろうと気にならないはずです。邪魔が気になるのは、あなたがまだ受験勉強に本腰を入れていない証拠です」
講師の言葉は峻厳であるが、責めるような調子ではない。かと言って、従わせようとするような調子でもない。あくまでアドバイスとして与え、決定はこちらにさせようとする気持ちが見える。もちろん従うことにした。講師とは目標高校の合格ということで利害が一致しているのだ。そのアドバイスは必ず有益なはずである。講師の忠告を守り、給食を食べた後の昼休み時間、早速プリントを出したその時のことだった。
「助けてくれよ、怜!」
小走りに駆けてくる音と共に、机の前に現れた一つの影。怜は、まだまだ自分に受験勉強に対する気持ちに甘さがあることを確認した。やはり思ってしまったのだった。
何でこうもいいタイミングで邪魔が入るんだ、と。
「確かに勉強も大事だけどな、親友のオレのことも想ってくれ」
プリントの問題に取り掛かろうとしながら、何であれ今は人を助ける余裕がない、とすげなく言った怜に対し、瀬良太一は真剣な顔を向けてきた。キレイに整えられた眉に、おうとつの無い滑らかな肌、つややかな唇。同性であっても魅力が分かるその顔を、怜はちらりと見た。
「いつからお前と親友になったんだよ」
「一年の時からに決まってるだろ。お前と熱い口づけをかわしあってからだよ」
怜はため息をついた。どうもこの昼休みを勉強に使えるかどうか怪しくなってきた。太一をみとめたクラスの女子の数人が、今の太一の発言に対して、嬌声を上げているのが聞こえてきた。
「そんなことはしてない」
うろたえた様子を見せれば相手をつけあがらせるだけである。怜が平然と答えると、
「じゃあ、今しようぜ」
と言って目を軽くつぶった太一はそのままゆっくりと顔を近づけてきた。きゃあ、という女子生徒数名の楽しげな悲鳴が周囲から上がる。怜はその無防備な顔を筆箱で殴りたいという衝動を抑えた。その代わりに穏便な手段を採る。
「あ、平井」
「え、マジで?」
すばやく目を開けた太一は焦った様子できょろきょろと辺りを見回した。見回して、冷たい目でこちらを見ているであろう可憐な少女の姿がどこにもないことが分かると、怜に軽く恨むような目を向けた。
「それで?」と怜。
ウソも方便である。友人を殴りたくなかったという気持ちを酌んでもらいたいものだ。怜は、悪びれずに、太一がなぜ自分の勉強時間を奪いに来たか、その理由を言うように促した。
「そうだ、追われてるんだよ。かくまってくれ」
気を取り直したように太一が言う。
その言葉が終わらないうちに、三年六組の教室に新たに入って来た少女がいた。彼女は、太一の姿を認めると、すたすたと怜の机まで歩いてきた。彼女を見た太一が、ひぃ、と怯えた声を上げて、怜の影に隠れようとする。椅子に座っている怜は、太一と少女の間に挟まれる格好となった。
「加藤君、瀬良君は連れてくわよ」
細い三つ編みを肩に載せた彼女は、有無を言わさぬ口調で口火を切った。穏やかではない目をしている。彼女と太一の間に何らかのトラブルがあったのだろう。もちろん、怜に異存はなかった。どこにでも好きなところに連れて行ってもらえれば、机の上のプリントに取り組めるのである。
「お前、今、薄情なこと考えてるだろ、レイ」
隣から太一が言う。意外なことだ。太一に読心術の心得があるとは。
「さあ、瀬良君、もういい加減観念して、わたしと一緒に来なさい」
「どこにだよ。佐伯はカレシ持ちだろ。他の男と歩く気か?」
「瀬良君に言えることじゃないし、そういうことでもないのは分かってるでしょ」
「分からないね。他人のことに干渉するのはやめろよな」
「全くの他人だったら干渉なんかしないわ。可愛い後輩のことだからよ」
「恋路を邪魔する先輩ってどんなだよ?」
「変な男から守ってあげようとしてる後輩想いの先輩よ」
「オレは変じゃない。いたって純粋な十五歳さ」
「どこが純粋なのよ! 女の子をとっかえひっかえさ!」
「そーいう言い方、やめて欲しいね。一人一人に対してオレは本気なわけなんだから」
「おかしいでしょ。本気だったら、もっと長く続くんじゃないの?」
「長さなんか関係ないだろ。ドラマでも映画でも何でも一年続くラブストーリーがあるか? 三日とか一週間とか、みんな短い期間で終わるだろ。一瞬が永遠なんだよ」
そろそろ怜は二人の間に割って入ることに決めた。この議論がどこか別のところで行われていれば気にも留めないが、ここは怜の机なのである。聞きながら昼休みを終えるには大して魅力的な議論でもない。
「何があったか聞いてもいいか、佐伯?」
三つ編みの少女が次の言葉を発する前に、怜はすばやく言葉を差し挟んだ。彼女は顔なじみだった。二年の時に同じクラスだったのである。
佐伯澄は、一息おくと、太一の罪の糾弾を始めた。
聞き終わると怜は心中でため息をもらした。少女の怒りの矛先を向けられたくないので、外面はいかにも興味ある様子で聞いている振りをしたが、全くもってくだらない話だった。
彼女によると、彼女の部活の後輩に太一が交際を申し込んだということだった。まずそれだけでも彼女の気に入らない。
「二、三ヶ月で終わることが分かってる『お付き合いごっこ』に、わたしの後輩を巻き込まないでよ」
しかも太一には現在付き合っているカノジョがいるらしい。
「ありえないでしょ。別れてからだったらまだしもさ。今付き合ってる子に悪いって思わないの?」
そういうわけで、後輩思いの澄としては太一に後輩の所に行って、交際申し込みの撤回をさせたいということであったらしい。それを太一に告げ、この昼休み中にさせようと思った所を、彼が五組から逃亡を図ったのでこの六組まで追いかけて来たのだった。
「もう今はフリーなんだよ。今朝別れたからな。だから構わないだろ」
太一が何気ない風で言ったその言葉は、澄を激高させた。
「ふざけないでよっ!」
語勢の鋭さに、怜の周囲にいる生徒たちが視線を集めた。何事が始まったのかと興味ありげな目を向けている。
「そんなに簡単に付き合ったり別れたり、ちょっとモテるからって、女の子を馬鹿にしてさっ!」
澄の両手が机に打ち付けられ、小気味のよい音が上がった。どうせなら太一自体を、せめて教卓や黒板あたりを殴ってもらいたいものである。
「付き合ってくれる女の子を馬鹿にするわけないだろ」
太一は幾分真剣な口調で抗弁したが、そのセリフを言うこと自体が相手にとってはふざけたことであるということは分からないらしい。馬鹿にしていなければそんなにあっさりと別れたりしないものだ、というのが澄の主張だということは分かっていないのだろうか。
昼休みは刻々と過ぎていく。この時間を無駄にしないためには、この争いから何かを得て、今後の行動に活かすしかない。澄と太一のやり取りが何かに活きるだろうか。それを考える時間がすでにして無駄であった。
「とにかく、太一、お前が悪い。佐伯の言うとおりだ。さ、佐伯が言うようにするんだ」
この事態をできる限り早く収拾するためには、どちらかの味方をするほかない。どちらの味方をすれば早くこの茶番を終えられるか。考えるまでもないことである。
「お、おい、怜。お前、どっちの味方だよ?」
「今言ったろ、お前が悪い。佐伯の言うことはいちいちもっともだ」
太一は憮然とした顔を作った。
「いや、オレは悪くない。告白を取り消させられるって、中世ですか、身分違いの恋ですか?」
怜は中世には詳しくなかった。現世のことしか分からない。そして、現世には受験勉強というものがあるのである。
「次の恋できっとジュリエットが見つかるさ、太一」
軽口が過ぎたようだった。澄の目が多分に疑わしい色を含んで自分に向けられていることに怜は気がついた。怜は心中で舌打ちした。澄にはある特殊能力があったことを思い出したのである。自分が提供した話題に対して他人が興味を持っているかどうかを見分けるという恐ろしい能力。昨年は、この能力によってどれだけ苦しめられたか知れない。興味のない話題に巻き込んでは、それに興味を持たないと言って責めるのである。ほとんど言いがかりであるが、そう主張する勇気は怜にはなかった。おかげで女の子のおしゃべりに対してはかなりの耐性ができた。
「加藤君、わたしの後輩のことなのよ。あんまりふざけないでよね」
澄が警告するように言った。彼女の後輩のこと『だから』どうして怜がふざけてはいけないのか、そこには論理に飛躍がある気がしたが、それを指摘するスピリッツは怜にはない。
「もしかしてさ、加藤君は、今回のこと、心の中ではどうでもいいと思ってるんじゃないの?」
滅相もないということを手を振って示したが、その所作から澄は自分の疑念に確信を持ったような得心のいった顔をした。
これはまずいことになった。主題が、太一の恋愛姿勢から怜の傾聴態度に移りつつあるのを怜は感じていた。澄にはもう一つの特殊能力がある。自分の納得の行かないことについて、とことん他人と話し合うことができるという、これまた厄介な能力である。この能力を発動されたら最後、怜の今後数日の昼休み時間は、澄の説教で潰れていくであろうことは確実であった。
「加藤君、そういうの良くないと思うわ。わたしは去年のクラスメート、瀬良君は親友でしょ。その二人に関係のある話をいい加減な気持ちで聞くなんて」
完全に話題が怜のことにシフトしてきた。何とか軌道修正をしたいところだが、何か言えばおそらくやぶへびになるであろうことが想像できる。怜はちらりと太一を見たが、彼は素知らぬ風を装っていた。大した親友もあったものである。詰問の対象から外れた僥倖を噛み締めることに忙しく、怜を助けてくれる気などもちろんない。このまま昼休み時間が過ぎていくのを待つ気であろう。その思惑を破ってやりたいが、澄のマークが厳しくてそれどころではない。
「ちょっと人に無関心な所が加藤君にはあるのよ。そりゃあ、詮索好きよりはいいかもしれないけど。それにしてもね、この社会っていうのは人と人の関わりでできてるわけだからさ、もっと周囲の人と協調性を持ってね……」
澄の目がまっすぐにこちらを捉えている。怜の性根を正してやろうという善意で満ちた瞳であった。怜の胃が重くなる。善意の押し付けほどうっとうしいものはないのだ。かといって、それをはねつける決断はできない。澄の善意をはねつければ、今度はそれが倍になって返ってくるのである。
「クラスメートが困ってれば助けてあげる。親友が間違いをおかそうとすれば止める。それが人としての正しいあり方だと思うわ。そう思うでしょ、加藤君?」
怜は絶望の淵に沈みながら首肯するしかなかった。まだ幾分残っている昼休み時間はもちろんのこと、今後数日間は澄とのランデブーを楽しむことになるだろうと思うと、嬉しくて涙が出そうである。同時に、この状況を引き起こしてくれた自称親友に対し、黒い気持ちが胸の中に湧いてくるのを覚えた。自己の置かれた状況を他人の所為にするのはよろしくないことであるが、怜は聖人になる気はなかった。ちょっと太一を恨んだところでそれが何であろう。
「友人関係っていうのはね、互いを高めあえる関係を指すのよ。お互いがお互いの欠点を指摘し、長所を称え、一緒に成長していく。人の一生のうちで本当に得がたいもの、それが友達よ」
小学生向けの道徳の授業でもあれば、それを立派に務めることができそうな澄の言葉が、怜の精神力を徐々に削り取っていった。澄には現在付き合っているカレシがいて、その彼とも怜は知り合いなのだが、今度、どういう風に澄の話をいなしているのか訊いてみようと心に決めた。澄と付き合えるくらいだ。きっと、コミュニケーションの秘奥を教われるに違いない。
友人の価値についてひとしきり話したのち、今度は真の友人を得るためにどのようにすれば良いのかという訓示を澄が話し出そうとした、その時だった。
「興味深い話ね、わたしも混ぜてくれる?」
怜の横に少女の影が現れた。クラスメートの女子と比べると、どこか大人びた雰囲気のある彼女は、目を向けた怜に、微笑を与えた。そのほほ笑みに光が見える。それはルックスが優れているからではない。彼女が援軍に来てくれたことを怜が直感したからだ。
敵であるとは認識していない澄の好ましげな視線と、なぜか不穏な空気を感じた太一の探るような視線が交わるところに、橋田鈴音の佳麗な立ち姿があった。