第168話:二瓶瑛子の逆襲
二瓶瑛子から電話があったのは、七月もそろそろ終わろうとする頃である。
その時、宏人は部活終わりで疲労した体にエネルギーを補充すべく、自室でアイスを食べているところだった。帰ってきた途端に姉と一悶着あった。彼女が残しておいたジュースを飲んだだろうといわれない非難を受けたのである。姉のものを飲食する。そんなことをしていたのは小学校の頃までのことである。しかも、それも大抵は、彼女がこちらのものを食べるからその仕返しとしてしていただけのことであり、こちらから積極的に仕掛けたことなどない。
「飲んでない」
ときっぱりと言うと、姉は、見下げ果てたという顔をして、顔だけではなくて実際にもそう言って、自分の弟を散々罵ってきた。仮に本当に姉の物を飲んでいたとして、しかもそれを隠していたとしても、そこまで言われることはないだろうという雑言の数々に大いに不快を覚えていたところ、家に帰ってきた母が子どもの間に割って入り、事情を問いただしたあと、
「あ、あれね、宅配の方にお母さんがあげちゃったのよ、ごめん、ごめん」
そんな結末になったものだから、宏人は、じろりと姉をにらんでやったが、姉はどこ吹く風で、そうなんだ、と言ったきり話を終わらせようとしたが、宏人はあえて姉を追撃しようとはしなかった。姉に改心を促すのは、水に低いところから高いところに流れよと命じるのに似た不可能である。そんなことをやるなら、もっと有意義なことはいくらでもある。そう思って、汗と不快を洗い流すために、シャワーに入った。すると、そのシャワー中に、姉がコンビニからアイスを買って来てくれたのだった。常にないことである。
「さっきのはこれで、チャラね」
不気味は不気味だったが、風呂上がりのアイスの誘惑には勝てず、それを食べて、暑いので半袖シャツとトランクスという格好で部屋に戻ったところである。
電話の着メロを聞いたとき、初めまた志保かと思った。なにせ知り合いの中で電話をかけてくるのは彼女くらいしかいない。それで、ディスプレイで名前を確認しもせずにスマホを取って、
「へーい」
とぞんざいな答えに対応してくれたのが、
「こんにちは、倉木くん。二瓶です」
やたらと綺麗な声だったので、宏人は思わず居住まいを正し、自分の格好を恥ずかしがり、電話の向こうの相手に遠慮することはないのだった、と気がつくまでしばしの時を要した。
「に、二瓶、どうしたの?」
「倉木くん、明日か明後日、時間ありますか?」
瑛子は切り口上で言った。
明日と明後日は土日であり、部活動は休みだった。夏休みの間、まことに寂しいことに、部活の他には、宏人には大した用事もない。明日も明後日も無限に時間があることを伝えようとしたときに、
――こ、これは、まさかデートの誘いか……?
と思って、頭のてっぺんから足先まで緊張させた。女の子が男の子に、あるいはその逆だっていいけれど、時間があるかどうか尋ねるとき、デートのお誘いしかありえないと断定するのは早計だろうか。いや、そんなことはない! と思ったとき、宏人は一瞬だけ、どう答えようか迷ったけれど、
「あるよ」
と正直に答えた。
宏人の予想通りである。瑛子は、一緒に映画に行きませんか、と誘ってきた。
「その……たまたま前売り券を二枚もらって、他に誘う人がいなかったのでって言ったら、信じますか?」
「信じるよ」
「ありがとう、倉木くん。じゃあ、早速明日でもいいかな?」
「いいよ。何時?」
「一番早い時間で見たいの。9時30分から始まるんだけど、大丈夫?」
「いつも部活のために6時には起きてるんだよ。全然平気」
「じゃあ、よかった。あと、ごめんなさい」
「ん?」
宏人は首をひねった。なぜ謝るのだろうか。
「実はたまたま前売り券をもらった、なんていうのはウソなの。倉木くんと行きたいから買っておいたんです」
それを聞いて、宏人は一気に緊張した。しかし、返せる言葉もなく、
「あ、ありがとう」
と言うほかない。
「どういたしまして、じゃあ、明日楽しみにしてるね」
切られた携帯電話を見ながら、これは婉曲な告白ではないのだろうか、と宏人は思ったが、いや待て待て、と首を振った。そう結論を急いではいけない。男子と言うのはすぐに誤解してしまって困る。散髪した翌朝、髪を短くしたことに気づいてくれた女の子に対して、
「この子はオレのこと好きなんじゃないか、ふっ」
というようなおバカな妄想をするのが男子という生き物であることは、宏人は重々に承知していた。そこで宏人は、今の瑛子の一挙につき、女の子の冷静な意見を聞いてみなければならんぞと思い、家の中を見回してみたが、それらしき存在が見当たらなかったので、友人に相談することにした。彼女の電話番号を確認して電話をかけようとしたとき、
――待てよ……。
と宏人は思いとどまった。もしも、仮に、万が一、瑛子が自分を好きだったとして、そのときにそのことに関して他の女子に相談していたなんてことが分かったら彼女はいい顔するだろうか。もしかしたら不快を得るかもしれない。そう思うと、相談は思いとどまった方がよかろうかと思ったが、
――いや、待て待て……。
仮にそうだとして、どうしてこちらがそこまで瑛子に配慮しなけりゃいけないのかということになる。好意を持っている女子に対してであればもちろん配慮しなければいけないが、宏人は瑛子に好意を持っているのか。
持っていた。これは確かである。淡い思いではあったけれど、それは確かに好意だった。しかし、彼女の人となりを知るにつれて、その好意は徐々に薄れた。彼女の正体が醜かったということではない。公平に見れば、別に彼女に非難されるような点はない。それにも関わらず好意が薄れたということは、宏人は幻滅したということである。恋に恋していた状態が醒めたというそのことだった。いまだ瑛子に対して好感を持っているが、それはもう多少話をするクラスメートとして、とか、見た目が可愛い女の子としてというありきたりなものでしかない。
――いや……。
本当にそうでしかなければ、こんなに彼女からの連絡に心舞い上がるはずがない。とするとどういうことになるのだろうか。宏人は自分自身でもよく分からなかった。分からないときは、誠心で事に当たれ、とは敬愛する幼なじみの親友さんの言葉である。
「誠心か……」
そんなものが果たして自分にあるのか宏人は疑うことができる。自分のことを悪人だとは思わないが、しかし、それほど善人であるとも思われない。まあ、そんなことをうだうだと考えていてもしようがないので、その日はもう休むことにした。ベッドに入ってなかなか寝付けずにいると、晩ご飯を知らせる母の声が階下から響いてきた。
翌朝宏人は、気を使った服装をして、家を出た。こっそりと出ようと思っていたのに、折悪しく姉に見つかって、
「おー、シホちゃんとデート?」
なんて声かけをされたので、内心で顔をしかめた。姉は、我が弟が彼女と付き合っていると思い込んでいる。もしもその思い込みを破壊してしまったりしたら、その怒りは、天を裂き、地を割り、哀れな少年をバラバラにすることであろう。宏人は、あとで志保に口裏を合わせるようにさせないといけないと思った。すると、当然、今日の瑛子との件を話すことになるけれど、どうしようもない。
――怒ったりしないよな?
そう考えてしまった宏人は、なにゆえ志保が怒らなければいけないのか、仮に怒ったとして、どうしてそれを気にしなければいけないのか、と自分の小心ぶりにがっかりした。
外に出ると、晴れた空にのっぺりとした雲がかかっており、歩くにはちょうどよい日和だった。宏人はいい気持ちで待ち合わせの駅前広場まで足を進めた。夏休みだからだろう、あるいは週末だからか知らないが、広場は人でごった返していた。駅前広場の中央に時計塔があって、そこまで歩いて行くと、宏人は、待ち人に待たれているのを認めた。
こちらに手を振ってきた少女は、もしも知り合いでなければ、アイドルか何かかなと遠巻きに見つめているような容姿を備えた少女である。
「ご、ごめん、待った?」
宏人が言うと、彼女は、まだ待ち合わせの五分前だよ、と言って笑った。その微笑みにクラクラと来そうなのは、夏の日のもとをてくてく歩いてきたせいだと思いたかったが、仮にそうでなかったとしたら、瑛子と接していることで、今日の終わりごろには失神しているに違いない。
宏人は瑛子を隣にして歩き出した。心なしか、近くを通り過ぎる小中高生からガン見されているように思えるのは気のせいではないだろう。もちろん、宏人が見られているわけではない。
「映画を見るのに、ちょっと並ぶかもしれないけど、そうしたらごめんね?」
歩きながら瑛子が申し訳なさそうな顔をする。
どれだけ並んでも気にならないような気がするのは、やはり彼女への好意からだろうと思うと、なんだか微妙である。
――好きなのか?
そうなんだろうか、なんだか微妙な気持ちである。
映画は、アクションものであり、ちょっとロマンチックなシーンもあったけれど、赤面せずに済むようなものであった。宏人はホッと胸をなで下ろすとともに、映画がロマンスに欠けるものであるところが、彼女の自分への気持ちを表しているようで、それはそれでフクザツな気持ちでもある。
「お昼ごはん、食べよう、倉木くん」
瑛子は、映画を見たあとに言った。
11時半近くになっていたので、腹は空いていた。女の子(しかもカワイイ子)と二人で食事を取る機会があるなんて、宏人は随分遠くまで来てしまったものだと思ったが、食事ではなくお茶であればそういう機会もあったのだった。悔しいが、その彼女のことも可愛いと形容せざるを得ない。
瑛子はランチを取る店としておしゃれなオープンカフェを選んだ。宏人は緊張した。そうして、女の子と付き合ったことのない男子は、どうやって女の子が好きそうなおしゃれな店で食事を取る経験を重ねるのか、夏休みの自由研究にすることを決意した。