第167話:人は千年は生きない
綾は、ため息をついた。
心の中で、である。
彼女がただ今いるのは、昼食の席だった。
食事というのは、単にエネルギーの補充という意味のものではなく、そこにいる人との関係を強くするためのものでもある。共食という言葉がある。心許せる人と共にする食事というのは、これほど楽しいものはない。お腹だけではなく心まで満たしてくれる。逆に、それほど親しくなく、親しくなりたいとも思わない人との食事というのは、何とも味気のないものとなる。
綾は自分がうまく笑えていることは分かっていた。笑顔の練習はいつでもしている。
ホテルのレストランの一角である。
綾の周りには、大人が六名と、彼女の他に少女が二人、大きなテーブルについていた。
綾の父は、会社を営んでおり、地域奉仕の一環として、コンサートの後援などをしているのだが、同じように後援している社長さんなり何なりとその娘、そうして、コンサートの出演者の一人である高校生くらいの女の子で、懇親会を営んでいるというわけだった。
綾はしばしばこのような父関連のイベントに出される。
「将来の婿候補を作る」
などという不穏な計画は父の魂胆には無いようであり、単に娘への愛情をあらわにしているに過ぎないようだけれど、付き合わされる綾としては、あまり気の進んだものではない。ものではないけれど、断ったことはない。父にはお世話になっているわけであり、それを多少なりとも返すのが義理であると思っているし、そもそも父のことは嫌いではなかった。
十二時前から始まったランチが、二時頃になってようやく終わりを告げる。綾が手洗いに立って、父のもとに戻ろうとすると、廊下で、
「綾ちゃん」
と同席していた少女に声をかけられた。友達とはいかないが知り合いではある。何度か同じような会で顔を合わせているうちに少し話すようになった。
「疲れちゃうね、こういうの」
といかにも疲労している様で肩を落としたが、心からそう思っているわけでもないらしいのは、周囲の大人からちやほやされてまんざらでもなかった姿を見ているからである。
「そのドレス可愛いね」
彼女は綾が身につけているハイウエストのドレスに言及してきたので、綾は彼女の方こそ美しい装いをしているので、正直にそう言った。事実、彼女の着ているものは、自分が着ているものの値段の三倍はしそうだった。綾の褒め言葉に、彼女は心底から嬉しそうな顔をして、そのドレスがいかに素晴らしいものであるかということをまくしたててくるではないか。
幸せな子である、と綾は皮肉というよりは多少の憐憫を持って考えた。人の幸福というのは人それぞれであるという、一見もっともらしい考えを、綾は全く持っていない。人の幸福にはランクがあって、ドレスなどに喜んでいられるのは、より上位の幸福を知らないからに過ぎない。しかし、綾は別に宣教師ではないので、そんなことを他人に吹聴する気はなかった。
「綾ちゃん、今度一緒にお買いもの行こうよ」
そんなことを言ってきた彼女に、綾は丁重ではあるが断固としてことわった。綾の人生の中にはつまらないことに使う時間など無かった。ここに来たのは父への義理立てであって、それ以上のものではないのである。
彼女としては好意からの誘いだったようで、はっきりと断ると、えっ、と意味が分からなかったような顔をしたが、「また誘うねー」と社長令嬢的優雅さで、立ち去っていった。
昼食会はいつものように無事終わり、
「疲れたか?」
父が運転する車で家に戻る途中かけられた声に、綾は首を横に振った。生活するということは疲労するということなのである。だからこそ多少の疲れでは、「疲れた」ことにはならない。
「綾は何か今欲しいものはないのか?」
父が切り出してきた。父は我が娘に何かというとプレゼントをしたがる。まるでそれが父親が娘に対して一番に為すべきことであるかと思っているように。綾はまた首を横に振った。
「別にないよ」
と答えた。
「お父さんに遠慮しているんじゃないか?」
「そんなことないよ。わたしは幸せだよ、お父さん。あ、でも一つ……」
「ん、なんだ、なにかあるのか?」
「あんまり働き過ぎたり飲み過ぎたりして健康を損ねないようにしてほしいの。あと浮気は絶対ダメ。お母さんが悲しむから」
綾が真面目な声を出すと、父は、期待が外れたような顔をして、
「どうやら過ぎた娘を持ったようだなあ。トンビが産んだタカだよ、綾は」
そう言った。
綾は微笑んだ。
「何かあったら言おうと思うけど、でも、本当に特別欲しいものはないから。不自由なく暮らしているし、月々お小遣いはもらえるし、仲がいい友だちがいる学校に通うことはできているし」
本心である。
「お、そうだ。友達と言えば、また今度ウチでパーティでもやろうじゃないか。お友達を呼ぶといい。気になる男の子もいたら呼んでみろ、お父さんが品定めしてやろう」
「そんなこと言われて呼ぶと思う?」
「ということは誰か気になる男子がいるんだな?」
「いないよ、そんな人」
窓から覗く風景の一点に、綾は目を留めた。そうして、父に車を停めるように言った。
「友達がいたから、その友達と話したいの。それをお願いにしてもいい?」
走っていたのが大きな道だったので、父は道路沿いにあるコンビニに車を停めてくれた。
綾が見つけた友達は、親友の一人だった。ちょうどコンビニの方へと向かって歩いてくる。綾は父に礼を言って、先に帰っているように頼んで走り去らせると、コンビニ前で友人を待った。その友人の姿が大きくなったときに、
「タマ――」
声をかけようとして、綾は、え、と絶句した。
友人ではない。
というか、女の子でさえないではないか。
近づいていった綾は、
「加藤くん……?」
会ったのが、その友人のカレシであることを認めた。
彼は立ち止まると、平静とした顔で、
「結婚式から抜け出してきたのか、伊田?」
そう言って、ドレス姿の綾に応えた。
綾は微苦笑を漏らした。まさか友人と誰か別の女の子を間違えるのならともかく、そのカレシと間違ってしまうとは。夏の日がそうさせたと思いたいが、さて。
「そんなところよ。加藤くんは何から抜けだしてきたの?」
「何からも抜け出せない。だから今も親のお使いに行った帰りなんだ」
そう言うと彼は、どちらの方向に行くのか尋ねてきた。
どうやら別れ道まで送っていってくれるようである。
綾は、そっちだよ、と指を向けたあと、加藤くんがそちらに向かうその隣を歩いた。
「加藤くんに一つ訊きたいことがあるのだけれど」
「どうせタマキがらみのことだろう」
「どうしてそう思うの?」
「それ以外の話を伊田としたことがない」
「そもそもわたし、あんまり加藤くんと話したことさえないんだけど」
「それで?」
「タマキのことをどのくらい思っているのか訊きたいと思って」
親友がらみのことだと当てられた綾だったが、臆面もなくそう尋ねた。本当はこれだって特に訊きたいということでもなかったのだけれど、こちらから話しかけたからには、何かしら話さないといけないだろう、という礼儀から質問をひねりだしてみたのである。
そんなことを聞いてどうするんだ、とは加藤くんは問わなかった。代わりに、
「人生の内、30,000日を一緒に過ごしても悔いがないくらいには」
即答した。
夏の日の下で、綾はぞっとするような、悪寒にも似た冷たさを、背筋に感じた。
人間の一生が80年だとして、それを日数に換算するとおよそ30,000日となる。人生の内30,000日過ごしてもいいということは、つまり一生一緒に過ごしてもいいと言っていることと同じわけだけれど、それを日数に直して考えたところに彼の凄味がある。というのも、人の活動は一日をベースにしており、それを30,000回繰り返すと死に至るという想像には切実なものがあるからだ。なるほど、親友の目は節穴ではない。
「伊田は、いつまで生きるつもりなんだ?」
加藤くんが言った。
「どういうこと?」
彼が言ったことは正確に理解していたけれども、綾は空とぼけてみせた。
「伊田は何も望んでいないように見えるから」
そう見えるほど、彼の前で何がしかの言動に及んだことはない。綾は、やはり今隣にいるのは親友の川名環なのではないかと疑った。
「あと数年したら1,000年くらいにはなると思うけど、もう1,000年は生きようと思ってる」
「どんづまりから考えるとそのくらいは生きられるようになるのか?」
「タマキにはそういう話し方していないでしょうね?」
「あんまり話し方を考えたことがないけど、品が無かったか?」
「もっと婉曲に話した方がいいと思う」
「育ちが悪いからな」
「人は自分で自分を育てることができる。その一点においてのみ平等だって、社会の授業で教わらなかった?」
「そんなことを教えてくれるなら、これから寝ないで聞いておくよ」
「そうした方がいいかもね」
綾は話しすぎている自分を感じた。彼女は普段言葉を惜しむものではないけれど、つまらないことは話さないようにしている。言葉は使えば使うだけその価値が軽くなる。昨今の社会に氾濫する情報を見よ。そのほとんどのものがつまらないうすっぺらいものではないか。
「タマキと二人でいるときはどんなことを話しているの?」
これは少し興味があるところである。環も言葉を惜しむタイプであるということは分かっている。その彼女が加藤くんと一緒にいるときに何を話すのだろうか。
「特にこれといった話はしていないな」
「じゃあ、これといった話ではない話は?」
「人生の幸福とか、そういうことくらいだけど」
どうやら加藤くんにはユーモアがあるようである。しかし、あいにく綾はお笑いは求めていなかった。もう十分に加藤くんとの会話を楽しんだ綾は、
「ありがとう。話ができてよかった。それじゃあね」
そう言って別れようとしたが、
「どうせだからもう少し送っていくよ」
と加藤くんが言い出したので、手を振った。お気づかいなくというサイン。しかし、加藤くんは、綾の先に立って歩き出した。綾は仕方なくその隣に並んだ。
「伊田が、そんなドレスなんか着ていなければ別れたさ」
「わたしが何を着ようと勝手でしょう?」
「だったら、オレが伊田についていっても勝手なわけだ」
「それはストーカーと呼ばれます」
「さすがに一回じゃ言われないだろ」
「回数なんて関係あるの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「今後はドレス姿で加藤くんには会わないようにする」
「そうしてくれ。目のやり場にも困るしな」
「まっすぐ前を見ていればいいでしょう?」
「伊田がちょろちょろしなければそうできる」
「わたしが『ちょろちょろ』ですって?」
「仮定の話だよ」
「タマキがどうやってこういう屈辱に耐えているのか、今度訊いてみるわ」
「もしかしたら、カノジョに対しては丁重に接しているのかもしれない」
「そう祈るよ。ただそれはそれとして、今の言葉に対しては謝罪を要求します」
「悪かったよ。語彙力が乏しいんだ」
「それ、理由になる?」
「ならないかもな」
綾は立ち止まった。そろそろ本当に別れないと親友に対して申し訳が立たない。
「タマキをよろしくね、と一応言っておくね」
「オレのことをよろしくするようにタマキに言っておいてくれ」
「この社会では甲斐性を持つのは男だってことになってるでしょ」
「1,000年生きているにしては、考えが固い」
「1,000年生きたからって、それだけ偉いことにはならない。もしも長生きすることが偉いことなら、カメの方がずっと偉くなる」
加藤くんはもうそれに対しては何も言わず、気をつけろよ、と言って帰路を取った。
その背に背を向ける格好で、綾も家路を取る。なにゆえ我が親友が彼のことをあそこまで想うのか、少し理解できたが、全てが理解できたわけではなかった。しかし、そういうものは理屈ではないのかもしれない。人が人を好きになる理由に説明がつかないということが分かるほどには綾は生きているつもりだった。