第165話:街を目指す少女
その日、橋田鈴音は、参考書を捨てて町に出た。
何も勉強に嫌気が差したというわけではない。学生であり、さらに受験生である以上、勉強はやらなければいけないものであり、そこに好悪の感情はない。たとえば、息を吸うことに好き嫌いがないように。ただ、夏の日に誘われただけのことである。その日は、太陽がキラキラと輝いているけれど、ところどころに雲が湧いて、風もあり、散歩をするのにちょうどよい日和だった。
「ちょっと散歩してくるね」
母に断ると、行ってらっしゃい、と応えてくれた。鈴音は意外な気がした。鈴音が出かけようとすると、母はこれまでは必ずどこに行くか、いつごろ帰ってくるかということを聞いた後に、さしつかえが無ければ送り迎えしようかなどということを聞いてきたのである。まるで小学校低学年の子どもにするかのように。それが今日はあんまりあっさりしている。これはおそらく、
――タマちゃんのおかげだな。
と鈴音は推測した。不登校だった娘が学校に通い出したあとも過保護にしてくる母親になんらか友人が気の利いたことを言ってくれたのだろう。自分の知らないところで自分は守られている。ありがたいことだった。
家を出た鈴音には、もちろん、特に行き先もない。行き先はないけれど、行く先は決まっている。それは心の向かうところである。この頃、鈴音は、直感を大切にするようにしていた。頭は色々と考え過ぎる。対して、心は全てを知っている。そんな気がしている。
鈴音は、そよと吹く風に向かって歩いた。風は町の方から吹いてくる。こうして好きなところに歩いていけるということが、それだけのことが、素晴らしい輝きをもってここにある。どこまでも歩いて行けるような、歩いているうちに、空へ浮かべるような、そんな気さえするのだ。
鈴音は、ジョギングをしているおじいさん、携帯ゲーム機を持った小学生たち、犬の散歩をしている女性とすれ違った。街に向かうにつれて、人が多くなるようである。途中、バス停があって、バスに乗っても良かったけれど、時間は十分にある、歩くことにした。
幹線道路沿いの歩道をあるいていくと、空に向かってにょっきりと生えた高層ビルがいくつか見える。その中に最上階に大きなクレーンをあげて、建築資材を吊り上げているビルがあった。よくもまあ、あんなものを作ったものだ、と鈴音は、ビルよりもクレーンの方に感心した。
横断歩道を渡って、中心街に入る。中心街というのはいわゆる飲み屋街のことであって、そこは夜が本場であるのだから、夜に備えて昼間はひっそりとしていた。そこを抜けると、映画館があって、今やっている映画など確認してみると、なかなか面白そうなのがやっている。入って見て行こうかと思ったけれど、その映画の次の上映が一時間後だったので、今はタイミングが悪いということでやめておいた。
さらに先に進んでいくと、旧商店街へと出る。今でも営業している店はあるけれど、おおかたシャッターが閉じられていて、再開発の対象になっている。そこでも横断歩道を渡っていくと、歩行者天国になっている一角があって、そこがこの町の昼の中心部だった。
親子連れやカップル、友達同士が楽しげに歩く姿が、そこかしこに見える。鈴音は、そのうちの一人となって、両側にキラキラとした店が立ち並ぶ歩道をあるいた。服やアクセサリーを売るアウトレット店を冷やかしてみたり、レンタルショップをみて、映画で見られなかった新作がレンタルDVD化されているか確認してみたり、中古本屋に入ってお気に入りの漫画をペラペラとしてみたりした。そんなことをしていると、お腹が空いてきたので、どこか飲食店に入ろうかと思っていたところ、
「キミ、一人なの?」
高校生くらいの男子二人組に声をかけられた。鈴音がどう答えようかと考えていると、すぐに、一人なら一緒に遊ぼうよ、といって、手を引かんばかりにしてきたので、はっきりと断ろうと口を開きかけたときに、
「スズ」
後ろからそう声がかかって、二人組と一緒にそちらを向くと、鈴音と同じ年くらいの男の子がそばにいた。すっきりとした顔立ちの少年である。鈴音はどこかで見たことのある顔だと思った。もしかしたら同じ中学かもしれない。彼は、鈴音の隣に来ると、「この人たちは?」と言って、柔らかく微笑んだ。
「知らない人」
そう言って、鈴音も微笑を返すと、声をかけてきた二人の高校生らしき少年たちは、鼻白んだようである。「男連れかよ」とぼそっと言うと、つまらなそうに立ち去った。
鈴音は、窮地を助けてくれた少年に礼を言った。
「余計なお節介だと思ったんだけど、ついね」
彼は、どこか居心地の悪そうな顔をすると、それじゃあ、と言って、そのまま立ち去ろうとしたので、鈴音は彼を呼びとめて、助けてくれたお礼をしたい旨、伝えた。
「それじゃあ、今声をかけた人たちと変わらなくなる」
彼の柔らかい拒絶に対して、鈴音は一歩踏み込んだ。何か得たいものがあれば、いつだって、自分から行動しなければいけないということは、近頃、学んだことである。
「あるいは、そうかもしれないけれど、それでもいいということに、今わたしが決めました」
そう鈴音が言うと、彼は一瞬きょとんとしたあとに面白そうな顔になって、それじゃあ、ということで、誘われてくれた。鈴音は、どこかで見た顔だと思っていたわけだけれど、素性は問わなかった。鈴音の名前を知っているところから、同じ中学なのかもしれないけれど、そうでなくても全然構わないし、この出会いを純粋に楽しみたかったのだ。
――楽しむ……?
そうだった。鈴音は、今この状況を、知らない男の子とお茶をしようとしているのを楽しんでいる自分を感じた。
二人が入ったのは、通りに面したオープンカフェだった。鈴音は一度も入ったことがない店である。オープンスペースに腰かけることもできるけれど、はたからは優美に見えても、そこは思うさま日が射しているので、ひんやりとして涼しい室内にした。そのテーブルの一つに、向かい合って席を取ると、彼が照れたように笑った。
「どうしたの?」
「綺麗な女の子と向かい合って座る男子の気持ちを想像してみたことある?」
そんなことを言ってきたので、これは相当に率直な人か、あるいは、相当に女性に慣れた人だと鈴音は感じたが、もしかしたら、そのどちらでもないかもしれない。
「男の子の気持ちって分からないんだ。どうして、掃除の時、箒を剣の代わりにして、切り合いを始めるのか、とか」
「それはそうやって女の子の気を引きたいんだよ。別にサムライマスターになりたいわけじゃないんだ」
「どうしてよりによってチャンバラなの? 気を引きたいなら、他にいろいろやり方はあると思うけど。小物を褒めるとかさ」
「その髪飾り、可愛いね。よく似合ってる」
「ありがとう。それで?」
「問題はこういうことを他の男子の前で言うことによって、その男子たちの顰蹙を買うっていうことなんだな」
「好きな女の子をとるか、友情を取るか?」
「永遠の問題だね。でも、そんなの本当は問題じゃないのかもしれない」
「天秤に乗るってことは、どちらも大した価値を持っていないからってこと?」
「心の中を読めるの?」
「同じ心を持つ人なら」
「それは読むって言わないな」
「わたしが言い出したことじゃないよ」
鈴音は、メニューを目前の彼に手渡した。彼は、メニューをざっと見たあとに、ランチを頼んだ。鈴音もそれに倣うことにした。白と黒のコントラストが美しい制服を身につけた給仕の女性に、鈴音は二人分のランチを頼むと、
「このお店、初めて入ったの」
言った。彼はまた微笑むと、
「女の子はいつもこういうところでランチしているのかと思ったよ」
そう答えた。
「男の子は?」
「どうだろう、ラーメン屋とか?」
「ラーメン好きだった?」
「好きだけど、ずるずると音を出して食べる勇気が無いかな」
「綺麗な女の子の前では?」
「ははっ、その通り」
男子と話していて気安い感覚になったのは、彼で二人目だった。まったく圧迫感を与えない人である。かといって惹きつけられるような感覚でもない。そこにいるのに、そこにいることを感じさせないような人と言ったらいいだろうか。
「タクミって言うんだ、オレの名前」
彼は突然言い出した。
「君の名前を知っているのに、君はオレの名前を知らないのは、フェアじゃないかな、と思って。スズさん」
「スズは愛称だよ。ちゃんとした名前はスズネ」
「そっか。『鈴』の『音』?」
「うん」
「鈴の音は魔を払うって言われているね、ぴったりの名前だ」
こういうことを、淀みなくさらりと言えるところに、彼の相当な学識の高さが窺えた。
「タクミくんは、技巧の『巧』?」
「ああ」
「『巧』はもともと工作の器具を表しているの。図工、得意?」
「得意かどうかは、でも、嫌いじゃないよ」
「じゃあ、よかった」
鈴音は対抗してみせた自分に面白さを感じた。
ランチはお手頃価格である割に、本格的なものだった。スープとサラダとメインディシュ、そしてパンは食べ放題と来ている。夕飯の分まで食べられそうだね、と巧が笑うと、
「お土産にいくつかポケットに入れていこうか」
鈴音も微笑んだ。
誰かと食事をするということが楽しい行為なのだということを、鈴音は改めて知った気がした。本来であれば今日は一人で食事をするハズだったのが、図らずも、多生の縁を得て、食卓を囲んだ彼のなんという気の置けなさだろうか。こんなことがあるのだろうか、と自分の人生を振り返ってみれば、そんなことが実は二度会ったことに気がついた。そのうちの一つは、巧と同じ、男の子とのものである。そのときは、今より精神が幼くて、今だって自分が大人であるとは思ってはいないけれど、それにしたってやはり子どもであった。ただ、鈴音はその子どものことを愛おしいと思っていた。
「タクミくんには子どもの頃はあったの?」
鈴音は唐突に言った。
巧は、パンをちぎろうとしていた手を休めて、
「今も子どもだと思うよ。大人になったことがないから分からないけれど」
そう言ってから、そのパンを口の中に放り込んだ。
ガチャンッ、という音がして、どうやらウエイトレスのお姉さんが給仕をミスして、お皿を割ったようである。申し訳ありません、という申し訳なさそうな謝罪の声が聞こえてきた。鈴音はそちらの方をちらとも見なかったし、巧にしてもそうだった。見もしないし、話題にもせずに、ただランチに向かっている。
鈴音が食べ終わったあと、少しして巧が食べ終わったようである。
「お腹いっぱいになったよ、ご馳走さまでした」
食後にケーキと紅茶までついてきて、もう食べられないかと思ったけれど、
「甘いものは別腹だね」
と巧が言う通り、食べられたようである。
鈴音は立ち上がると、手洗いに行く振りをして、ランチの料金を払ってしまった。助けられた上に、楽しい食事の時間までもらって、なお割り勘になどなったら申し訳ないという気持ちからである。テーブルに戻ってくると、巧は、
「ごちそうさま」
と微笑んでいる。どうやら何をしていたかは分かっていたようだ。しかし、察せられるだろうことは鈴音も察していた。なぜかは分からない。
店の外に出ると、夏の日は燦々と降りつけてきて、鈴音は思わず目を細めた。
「ありがとう、とても楽しい一日になったよ」
そう言って、巧がそっと手を差し出してくる。
鈴音はその手をとった。
細く繊細な手だったけれど、硬質なものがある。
巧はまた微笑むと、あっさりと手を離すと、じゃあと手を振って、立ち去った。
鈴音は感じ入った。
彼自身に対してもそうなのだが、彼のような人と出会うことができるこの世界に対して。