第164話:夢から覚めてのち
川名環はゆるやかにベンチから立ち上がった。
黒髪を肩口より少し上で切ったショートカットは、すっかりと整えられておらず、少し癖がついている。均整のとれた体つきは、内面にみなぎる意志で心地よく緊張しているように思われるけれど、圧迫感を与えない。強さを持ちながら、同時に深さを兼ね備えているような、そんな印象を受ける子だった。
ここで何をしているのかを、怜は尋ねた。しかし、尋ねなくても答えは分かっているような気もした。
「レイを待っていたの」
待っていたといっても、約束していたわけではない。怜がいつもこの道を通るわけでもない。それでも彼女は待っていたと言って、それに対する違和感を覚えたりしないのが常だった。
環は怜の隣についた。
二人の背はそう変わらない。
怜は心持ちゆっくりと歩き出した。
環とは小学校来の付き合いであるわけだけれども、いつどのように彼女と知り合ったのか、友情を結んだのか、覚えていなかった。まるでずっと昔から知っているような、それこそこの世の始まりから知っているような、奇妙な感覚を覚えたが、それさえも彼女と一緒にいると気にならなかった。
「瀬良くんが泣いていたよ」
環が言った。
怜は、彼の涙には何の興味もないと答えた。
「じゃあ、その涙に興味のもてる人はいるんですか?」
環はときどき口調が敬語になる。
怜は、椎名巧の名前を答えておいた。
「ああ、椎名くん。うん、独特の雰囲気がある人だね」
環に言ってもらえれば本望だろう。
「どういう意味ですか?」
「そういう意味だよ」
「レイはわたしのことを誤解していると思う」
「かなり正確に理解している自信があるよ」
「どうして?」
そう問われると答えはなかった。ただ知っていただけである。数学の天才が、証明できなくても解答が分かるように。
秋の日はゆっくりと暮れて行く。
そよ風が、まだ色づいていない木の葉を揺らした。
「レイと会えてよかった」
環がいきなりそんなことを言ったので、怜は驚いた。
それはまるで別れのセリフのようではないか。
「そういう意味ではないけれど、素直な気持ちだもの、たまに言ってみてもいいでしょう」
それならということで、怜も同じ言葉を環に与えた。
いつどうして出会ったのかどうしても思い出せないけれど、今こうして彼女と一緒にいる時間は美しいものである。
「見つけてくれてありがとう」
怜がそう言うと、環は面白そうに笑って、
「そうよ、レイはわたしが見つけたのよ。とっても苦労したわ」
続けたあとに、
「もしも世界がここだけじゃなくて、別に世界があったとしても、その世界のわたしが、その世界のレイを必ずまた見つけてあげるから」
そう言って、そっと手を握ってきた。
怜もその手を握り返した。
この子に対しては、特別な感情があるようだった。
特別な感慨と言ってもいいかもしれない。
他の人たちに対する気持ちとは全く似ていない何かを彼女に対しては感じた。
そうしておそらくは彼女も怜と同じ気持ちを抱いてくれているだろうことが分かる気がした。
「覚えていてね、レイ。わたしがずっとそばにいるってこと。忘れないで」
立ち止まった環は、少し寂しそうに言った。
怜は、彼女の目を見ると、ただうなずいた。
そこで目が覚めた。
いつもの自分の部屋である。
朝だった。
夏の光が室内を濡らしている。
ベッドの上に起き上がった怜は、自分の体を確かめてみた。
どうやら男であるようだ。
してみると、今のは夢だったわけで、おかしな夢を見たと思ったが、夢というのは元来そういうものではある。ベッドを出ると、怜はいつものように朝食まで勉強をすることにした。すると間もなく、我がカノジョからメールがあった。
「昨夜、レイくんの夢を見ました」
とある。怜も環の夢を見たことを返信した。
「今度お聞きしますので、覚えておいてね、その夢の内容」
「書きつけておくよ」
怜は、返信を済ませると、もしかこれがまだ夢中ではないかと疑った。そうして、どうやら現実であることが分かったけれど、現実が現実であることの根拠がよく分からない。古人は、
「もしも全能の神がわたしをだまそうとしても、わたしが今こうして存在していると思っていること、それ自体は確実なことだ」
と言ったけれど、彼がその真実に到達するには数年の時をかけたわけであり、そこを一足飛びにすれば、何かを見落とすことになるだろう、と怜は思い、よくよくと現実の根拠をこれから考えてみることにした。しかし、それは一日の業が終わったあとである。今日はこれから塾に行かなくてはならない。
シャワーを浴びて見苦しくない格好に着替えると、どうやら今日は暑くなる日であるようで、すでに蒸し蒸しとしている。階下の窓をそれぞれ半ば開くと、しかし、風はない。それでも空気は少し動いたようで、涼しさを覚えた。自分でトーストを焼いて、コーヒーを入れ、朝ごはんとする。起きてきた母に挨拶をして、塾の行く時刻まで英語の教科書を開くと、妹と父が起きてくる前に、家を出た。
飢えた獣の瞳のようにギラギラとした太陽のもと、怜は自転車を走らせた。斜めがけのリュックを背負った背がじんわりと濡れてくる。駅前にある塾教室に着いた時には、すでに一日分のエネルギーを使ったような気がした。教室に入る前にお茶を一口飲む。教室に入ると、ひんやりとした空気が、怜を迎えた。夏休み中であるので、怜と同じような立場の生徒が数名見える。教室には、生徒と講師のセットが、十二組くらいしか最大で入らないので、数名いるだけでも盛況と言える。
怜は、教室長に挨拶をしてから、講師を待った。山内講師は、時間の5分前にやってきた。そうして、いつものように授業が始まった。もう何度も授業を受けているわけだけれど、どうにも始まる前というのが慣れないもので、どうしても緊張してしまう。別に山内講師が居丈高であるというわけではない。むしろ、周囲の大人と比べれば穏やかな方だろう。であるのだけれど、やはり緊張してしまうのは、この塾の授業というものに対して、引いては受験に対しての覚悟が足りないからだろうか、と怜は考えていた。
しかし、いざ始まると緊張は解けて、二時間はあっという間である。
「ありがとうございました」
終了の10分前、次回までの宿題を確認して、今日の講義は終了である。
「何か今気になっていること、ストレスを感じていること、はありませんか?」
山内講師が静かな声を出す。
ストレスといえば、この受験自体がストレスなのであるが、それは言っても詮無いことである。
「ストレスというわけではありませんが」
そう前置きして、怜は、一日が終わるのがとても早い気がします、と言って口をつぐんだ。
山内講師は、口角を上げて、微笑んだ。キリリとした表情がやわらぐと、まるで花が開いたような風情になる。年上の女性に対してそのような印象を持つのは生意気かもしれないと思うが、胸に秘めておく分には構わないだろう。
「時というものがわたしたちの外側にあるわけではないということでしょう。時はわたしたちが作り出しているものなんでしょうね。作り方によって、早くなったり遅くなったりするわけです」
怜は、講師に答えを求めたわけではなかった。単に今思っていたことをそのまま口にしただけのことである。しかし、確かに山内講師の言う通りかもしれないと怜は思った。
「どうすれば、ゆったりとした時を作り出すことができますか?」
「惜しむことでしょうね」
「時をですか?」
「いいえ。その時を使って現にしていることをです。たとえば、わたしは、加藤くんと勉強していることを惜しんでいます。一緒に勉強できなくなることを残念に思っています。すると、時はゆっくりと流れます」
「分かります」
「ええ、分かってくれると思ったからお話ししました」
そう言って山内講師は口を閉ざした。まるでそれ以上の問答を嫌うように。怜は、礼を言ってから、立ち上がった。講師も席を立つ。「気をつけてお帰りなさい」という声を受けて、怜は教室を出た。外は一層暑くなっていて、家に帰るのが億劫なくらいだった。とはいえ、帰らないとどうしようもないので、また自転車を漕いだ。じめっとした空気を割るようにして、チャリを走らせる。
この自転車を漕いでいる時も惜しむべきなのだろうか。怜は、山内講師の言葉を思い出した。惜しむべきかもしれない。二度と訪れない時なのである。とはいえ、この時は怜にとって嫌な時間であるのだから、嫌なものを惜しむというのはどういうことなのだろうか。講師は、時そのものを惜しめなどと言ったのではなかった。その時に行っている行為を惜しめと言ったのである。すると、時はゆっくりと心地よく流れ出すと。
怜は帰宅すると、汗だくになってしまった体にまたシャワーを浴びることをした。気分をよくしたあとに、昼食を取る。母が起きているので、朝のようなことにはならず、用意してもらった食事をありがたくとっていると、電話が鳴るようなこともなく、昼から暮れ方まで、リビングや自室で勉強することができた。
平安の世には、夕暮れに男は女のもとに通ったという。今は平安時代ではない。怜は、そうそうカノジョのもとに通えない己の身を感じながら、今彼女は何をしているだろうと思った。目をつぶると、窓辺に座って読書をしている様が浮かんだ。
――君は窓辺に灯るあかり。
そんな歌詞の一節が浮かんだ。怜は、メールしてみた。メールなら彼女の読書なり何なりを邪魔することもないだろう。すると、すぐに返信が来て、
「夏の夜にともしていたら、暑いだけだと思います」
と書いてあった。
確かにその通りである。つまり、自分の詩の運用能力はその程度のものなのだ、と怜は書いた。
「他の人の詩句を引く必要なんかありません。レイくん自身が詩だから」
環の返信はよどみない。
そもそも人がみな一篇の詩なのかもしれない。かつて、ボードレールという詩人は、詩から詩でないものを排除しようとした。人は人でありさえすれば、それだけで何も足し引きすることはできないが、それにしても、美しい詩とそうでもない詩があるのであり、人の言動が詩の詩句に当たるとしたら、怜はそれを磨きたいと思うだけである。