第162話:夕暮れの町内一周ツアー
若菜を家まで送っていってから、円を自宅まで送り届けると、もう6時近い時間である。
「お姉さんがいらしたら、少しだけ話させてくれないかな」
門前の別れ際で怜が言うと、円は、分かりました、と答えてから、
「今日はありがとうございました」
と軽く頭を下げた。
礼を言われる覚えもない怜としては、
「ワカナさんに対してしてあげられることが、マドカちゃんには、きっとあると思う」
それを答えとしておいた。
円は、そうでしょうかと言いたげに小首を傾げたが、もう一度軽く頭を下げると、そのまま家の中に入った。
実際のところ、そんなことがあるのかどうか、怜には分からなかったが、別に円の気持ちを慰めようとして言った言葉ではなかった。自分には分からなくても、存在するものは存在するのである。それを言葉にしただけのこと。
それにしても、本当に太一の頼みはしょうもない。もう生涯、彼の依頼を引き受けることはやめよう、と怜は夕日に向かって誓った。
「お待たせしました」
通用口から、環が姿を現した。
濃い緑のシフォンのチュニックは、夏にふさわしい薄衣で、半袖の部分が透けた優美なものである。
「世の中はもう夜を迎えるけど、オレの心には朝が来たみたいだよ」
怜が声に熱情を込めて言うと、環は器用に片眉を上げてみせた。
「今が平安の世の中でなくてよかったです。朝は別れの時間だから」
「形見に何かあげようか。遊園地のフリーパスチケットの半券とか?」
「ステキ。それを見ながら、カレシが他の女の子と楽しくしていたところを想像して、目の色を緑色に変えることにしようかな」
「目の色を変えることができるなんて初耳だな」
「その気になれば耳の形だって変えることができます。誰かがわたしの悪口を言っていないか耳を大きくするのよ」
「キミに悪いところがあるとすれば、美点しかないところだな」
「あら、じゃあ、悪い所作らないと。こういうのはどう? 一日疲れて帰ってきたカレシを、散歩に誘うの」
そう言って、環は一歩、門から離れた。
「みんな、心配する」
「しません。ちょっと出てきますって、言ってきたから」
言わないで出てくるよりはよっぽどいいだろうが、それにしたって夕暮れに出歩けば、それだけで心配するのが親心である。怜は親になったことなどないが、その程度のことであれば想像は可能、環を止めようと思ったが、
「ほんの近所を一周りするだけでいいんです。地球を一周するわけじゃないわ」
機先を制されて、そもそもが自分が呼び出したことがきっかけでもあるので、彼女を翻意させることは諦めて、夕暮れの散歩を行うことにした。
環を隣にして歩き出す。
しばらく怜は無言で歩いていた。環も何もしゃべらない。遊園地の時に、円と一緒にいたとき感じたプレッシャーは、ここにはない。
今日の一件について話そうかどうか考えて、怜はやめておくことにした。話しても楽しいことではないし、楽しい事でないのならば、改めて口に出すことも、まして聞かせることもない。
「今日は、いい日になりました」
環が口を開いた。
どうやら彼女にとっては良い日であったらしい。
「レイくんに会えたから」
そんなことで彼女の一日を明るくすることができるのであれば、いつだって呼び出してもらって構わない。
「オレもタマキに会えて嬉しいよ」
これは心底からの声である。
「タマキがこの世の中にいてくれることを感謝したいね」
「なんだか今日はロマンチックですね」
「心外だな。ロマンスは、いつも心の内に秘めているんだけど」
「たまには、それを表現してみてもいいと思います」
「表現がつたないから、笑われるのが怖いんだ」
「そうやって上手くなっていくんじゃないかな」
「じゃあ、これから一日一回、タマキをたたえる言葉を考えることにするよ」
「ステキ。夜眠る前にメールで送ってくれるといいかも。いい夢が見られそう」
徐々に街灯が点き始めている。
西の空が薄紫色に染まってきた。
色々と彼女に言いたいことがあったような気がするが、いざ会ってみると、それらの言葉は霧消して、ただ柔らかな空気の中にいられることが楽しかった。
「町内一周旅行もいいもんだな」
「そうでしょう。何よりいいのはお手軽で、毎日だってできることよ。どうかな、これから毎日してみるのは?」
「それはあまりいい提案とは言えないな」
「あら、どうして?」
「毎日夕方頃にタマキを連れ出してたら、外聞が悪い」
「わたしは気にしません。それに夕方がダメなら、朝方ならどう? 夏の朝の散歩なんて爽やかでいいじゃないですか」
「いや、朝はやめておこう」
「どうして?」
「別れが辛くなる。その日一日を過ごせるかどうか自信がなくなるよ」
「わたしの方が倍は辛いですよ」
「じゃあ、オレはその倍」
「わたしはその倍でした、実は」
「このままやっていると、天文学的な数字になるからやめておこう」
「そうですね。数字にはあまり興味ないし」
公園のそばを通りかかると、今日の日を最後まで楽しもうと粘って、ボールを蹴り続ける子どもたちの姿が見えた。
また二人は沈黙の中を歩き始めた。
話したいときに話したいことを話せるというのは幸せなことである。
これ以上の幸せがあるだろうか。
寡聞にして怜は知らない。
そっと彼女の横顔を見ると、白い頬はまるで月光を宿したようである。
もしかしたら、彼女は月の化身か何かなのかもしれない、と怜は考えてみた。
つらつら考えてみると、うなずける点が多々あるではないか。
怜は、環の手を取ってみた。
環は、微笑で応えた。
「月に帰られたらたまらないと思ってさ」
「あるいは、横断歩道があるからでしょう?」
怜は応えずに、目前にある横断歩道を渡った。
夕闇が地から立ち昇りつつある。
それでもまだ暗くなりきらない空に星が瞬いたようである。
怜は、彼女の繊細な手の平から何か強靭なものを感じた。精妙な外身にそぐわない頑強な何かが彼女の中にはある。それが何なのか、興味はあったけれど、彼女自身に聞いてみたいと思ったことはなかった。というのも、人は内心を正しく言葉にできるとは限らないからだ。「語り」とは「騙り」であり、語ることはそのまま人を騙すことである。それは意図的な嘘でなくてもそうなのだ。だからこそ、もしも彼女に聞いてみたとしても、きっと彼女は沈黙することだろう。語りえないものについては、沈黙しなければいけない。それは誰の言葉だっただろうか。
「かぐや姫はどうして月に帰ったんだと思う?」
環が言った。
怜は自分の想念をうちやって、環の問いを考えた。
地上のしがらみを全て断ち切って、月に帰ったかぐや姫。
どうしてあれほどまでして月に帰らなければならなかったのか。
迎えが来たということもあるだろうが、そういうことではないだろう。
迎えに来ても来なくても、月はただ彼女の帰るべき場所だったということなのではないか。
むしろ迎えが来てくれたからこそ、彼女は帰ることができたのではないか。
そう言うと、環は軽くうなずいてから、
「本当は、かぐや姫みたいに、みんなが帰るべき場所を持っているのよ」
言った。
「タマキが帰るべき場所がそれほど遠くない場所だといい」
「どうして?」
「月の無い夜空を見上げるのは面白くないからな」
「そんなに遠くないから大丈夫です」
「よかった」
曲がり角を回ると、環の家が見えてきたようである。
どうやら世界が闇に閉ざされる前に帰って来られたようだ。
門前に到ると、怜は名残惜しい気分になった。
よっぽど明日の朝も来たい気持ちになったけれど、是非もない話である。
「またな、タマキ」
「別れを惜しむ言葉にしては簡単すぎませんか?」
怜は少し考えた。
「一人で帰らなければいけない寂しさは筆舌に尽くしがたいよ」
「続けて」
「明日がなんて遠いことだろう。永遠に今日が続けばいいのに」
「まあまあですね。今後に期待します」
「一つお手本を見せてくれないか?」
怜が戯れると、環はすっと身を寄せてきて、
「あなたと会えない時間は、その一分が一年にも感じます。その寂しさに流す涙でベッドが満ちて、この身が溺れてしまいそうです」
そう言って、にこりとした。
「オールドファッションだな。そういうのがいいのか?」
「古式ゆかしいと言ってください。でも、オールドファッションは大好き。ハニービーも好きですけど」
「じゃあ、今度は町内ツアーの途中で、ドーナツでも食べよう」
「催促したみたい」
「まさか。オレもドーナツが好きなんだ」
「付き合っている二人が、どちらもドーナツ好きだなんて、そんなことってある?」
「奇跡だな」
「ちなみに、わたし、クレープも好きなんです」
「オレもだよ」
「うっそお」
「ホント。それは町内ツアーじゃ難しいかもしれないから、今度、街の方に行ったら、食べてみよう」
そう言うと、怜は、じゃあ、ときびすを返そうとした。
「レイくん」
「ん?」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「わたしは何もしていませんよ」
「月だって何もしてない」
「月も嬉しいんだけれど、太陽に例えてくれないのには何かあるのかって疑っちゃう」
「明日の朝は太陽に例えようと思ってたんだ」
「それならよかった。でも、あんまり大きなものに例えられると、そのうちに幻滅されそうで怖くなります」
「幻が滅んで実体が見えるなら、それは幻より千倍も素晴らしいものに違いない」
「レイくんのために、そうであることを祈ります。じゃあね、また夢で会いましょう」
「ああ、夢でな」
怜は、きびすを返した。
今日一日で覚えた疲労や不快はすっきりと拭われていた。
そのために来たわけではないけれど、その結果になったことは、怜の不本意とするところだった。一つ借りておくことにする。
曲がり角に来ると、闇に沈みそうなカノジョの姿が、しかし、怜には、はっきりと見える。やはり、彼女は地上に落ちた月なのかもしれないという思いを抱くと、それを否定することができないことが、ただ愉快だった。