第16話:近しいがゆえにできないこともある
仕事を終え、家に戻り、風呂に入り、夕食を取る。健康を考えて焼酎で晩酌しながら、妻と娘から今日の一日についての感想を聞く。至福のひと時。
「どうしたの、にやにやして?」
横からいたずらっぽい笑顔で訊いてきたのは妻である。今年で三十八の彼女だが、どこか幼さを残すその顔立ちから愛らしさが消えることはない。
「いや、俺は幸せだと思っただけさ。美しい妻、美しい娘たち。その夫であり、父であることの幸運を噛み締めてたんだよ」
妻はふと口元に笑みを作ると、
「その幸運が続くのも長くないかもしれないわよ」
いった。剣呑な話である。どういう意味か訊いてみると、
「娘たちはそれぞれ良い人を見つける訳だから。あとには、老いさらばえた妻が残るだけ」
さらりとした答え。君は老いさらばえることなんか無いよ、と彼は言った。
「いつまでも綺麗だ」
「あら、ありがとう」
笑みを深くすると、彼女は酒肴の小皿をテーブルの上に置いたあと、食器を片づけるためにキッチンに立った。
リビングのソファに座っている彼の隣に末の娘が腰を下ろした。まだ小学一年生の彼女は、つぶらな瞳を父に向けると、
「ねえ、お父さん」
と可愛らしい声をかけてきた。それだけで頬が弛むのは親バカというほかない。
「どうした?」
「お父さんにとってはお母さんが一番美人なんでしょ?」
唐突な問いに少し驚くが、彼女は先の夫婦間の会話を聞いていたのだった。キッチンで洗いものをしている妻に聞かれないとも限らない。照れながら、しかし彼ははっきりと、
「そうだよ。世界一の美人だ」
答えておいた。娘はうんうんともっともらしくうなずくと、
「じゃあさ、お姉ちゃんたちとわたしの三人の中では誰が一番可愛い?」
今度は質の違う問いを発してきた。子ども特有の困った問いである。
「それは……お父さんにとってはみんな可愛いよ。みんな大事な子だからね」
正直な気持ちを口にすると、娘の目が冷たい光を帯びた。
「お父さん。わたしは、誰が一番かって聞いたの。みんなが一番なんて駄目でしょ」
「いや、でもね、旭……みんな同じように可愛いんだから、みんなが一番なんだよ」
少女は納得の行かない顔を作ると、父親では埒が明かないと思ったらしく、
「お姉ちゃん」
とダイニングテーブルに向かって声をかけた。食後のお茶を飲んでいた彼女の姉は、
「アサちゃん。年上の人を遠くから呼びつけたらダメよ。ちゃんとお姉ちゃんの前までいらっしゃい」
柔らかく注意した。旭は素直にそれに従うと、たたっと姉の前まで行って、父とのやりとりを話した。妹の話を聞くと、彼女は妹を連れてリビングに現れた。父の前のソファに腰を下ろすと、この頃さらに若い頃の妻に似てきた顔に微笑を浮かべ、
「お話は聞きました。たしかにおっしゃる通りですけど、でも女は無理なことを望むもの。さ、わたしたちの中で誰が一番可愛いかはっきりと言ってください」
迫ってきた。今まで我関せずといった振りでリビングの隅でパソコンを使っていた次女もふとこちらを向く。三女は長女の横から純真な瞳をじいっと向けてくる。三人の少女の視線に射すくめられた格好で、それでも、
「いやいや、ちょっと待て、環。お父さんにとってはな、お前達の誰もが可愛いんだ。誰か一人なんて選べるわけないだろう」
と反論を試みるが、
「それは分かってます。でも、そこをあえて訊いてるわけですから」
長女は容赦ない。どうも風向きがおかしなことになってきたのを彼は感じた。幸運を噛み締めていた筈が、いつの間にかその幸運の原因に逆に苦境に立たされている。三人の娘を、一人ひとり見回してみる。今父を追い詰めている中学三年生の長女には気品のようなものが漂っている。その隣にちょこんと腰掛けている三女は天真爛漫といった風で周囲を明るくせずにはいられない輝きがある。パソコンデスクにいる次女には初夏の風のような爽やかさを感じる。親の欲目を差し引いても、三者はそれぞれ美しい。さらに三様の美しさであり、そこに甲乙をつけることはできない。もちろん、可能だとしても、そんなことをしたら娘のうち一人は喜ばせるかもしれないが、もう二人との関係には確実に亀裂が入るだろう。
「ハハ、いやあ、実はお父さんにとってはな、お母さんが一番の美人だからさ、他はみんな同じに見えるんだよな」
冗談めかしたその答えが精一杯である。一瞬、しらっとした空気が漂ったが、
「その辺にしておきなさい。娘三人でお父様をからかうとは何ごとですか」
という注意の言葉とともに妻がその場に割って入ってくれ助け舟を出してくれた。彼はほっとした。ことはそれで終わるかと安堵したのだが、
「でも、お母さん。レイはちゃんと答えてくれたよ」
と三女の反発の声が上がり、まだ続行されたのだった。
「あら、そうなの?」
旭は力強く、うん、と答えると、
「この前、レイがうちに来たときに聞いてみたの。あたしと円お姉ちゃんと環お姉ちゃんの中で誰が一番可愛いかって」
いった。大き目の瞳が輝いている。
「さあ、ここで問題です。誰のことを一番可愛いって言ったでしょう?」
クイズの司会者のような口調で訊く旭に、
「それは環お姉ちゃんでしょう。環お姉ちゃんのカレシさんなんだから」
答える母。少女はふるふると首を横に振った。
「ハズレ。一番可愛いのはあたしだって」
自信たっぷりに答える。
横から円が軽蔑するような調子で口を出した。
「お姉ちゃんが気を悪くしないってことを知ってるから、そういう答えになったんだろうけど、あんまりうまい答えじゃないね」
「円、レイくんはね、そういうふうに他人に頼る人じゃないのよ」
そう言うと、環は旭に向かって、
「続きがあるんでしょ、アサちゃん?」
訊く。旭は不思議そうな顔で姉を見た。
「どうして分かるの、お姉ちゃん?」
「好きな人のことはね、大体分かるものなのよ」
家族の前で臆面もなく答える姉に再度促されて、
「一番可愛いのはあたしだけど、一番カレンなのが円お姉ちゃん、一番キレイなのが環お姉ちゃんだって」
と旭は答えた。
「さすが、レイくん」
感心したような長女の言葉に、
「うまいごまかしかたよね」
皮肉っぽい次女の言葉が続く。環の目が疑問の色を含んで円を見た。
「分からないわ。どうしてそんなにレイくんのこと嫌うのか」
「お姉ちゃんにも分からないことがあるんだね。でも、別に嫌いじゃないわ」
「そお?」
「嫌いだったら同じ部になんか入らないし」
「日向からメールで聞いたわ。あなたに思いとどまるよう説得してくれって」
「倉木先輩には、無理だったってメールしておいて」
リビングに咳払いの音が響く。この間、まったく取り残されていた父が会話に入って来た。
「レイくんというのは、その……誰だったかな?」
「何言ってるの、お父さん。タマキお姉ちゃんのカレシだよ」
旭が軽く責めるような声で答えた。
「そ、そうだったな」
名前はちょくちょく聞いていた。しかし、娘のカレシの名など覚えたくもないというのが父親の本音である。
「今度家に連れてきなさい」
この目で娘に相応しいかどうか見定めてやるという気合は、その娘によって殺がれることになった。
「今はちょっと難しいかな。他の女の子のことで忙しいから」
我が娘ながら分からない子である。
「他の女の子? お前と付き合ってるんじゃないのか?」
「いろいろと複雑な事情があって」
どんな事情であればそういう事態が許されるのか分からなかったが、それ以上訊くのはやめておいた。無理に問いただしても、答えてくれないことは分かっていた。長女は昔から気持ちを自分の心の中に秘めておくような所があり、さらにその秘めたものを滅多に外に表さない。近頃はそれに拍車がかかっている。
「まあ、何だ……タマキの目に狂いはないと思うが、とにかく今度ヒマな時に紹介してくれ」
そう言っておくのが、娘に嫌われたくない父としては精一杯のところである。
「分かりました」
素直に言うと、環はソファを立った。父母に断って、リビングをはなれ、階段を登り二階の自分の部屋に入る。机の上にあった携帯電話を手に取ると、まずは日向に妹の説得が失敗に終わったことをメールしておく。妹はなぜ文化研究部に入ることにしたのか。想像することはできるが、話してくれないのではっきりとは分からない。父が長女に向ける気持ちと同じものを、環は円に感じていた。昔は姉を慕う愛らしい妹で何でも屈託なく相談してくれたものだが、いつ頃からか姉妹の間に壁ができ、彼女が何を考えているのかよく分からなくなった。それに一抹の寂しさを覚えるとともに、そういうものだと納得している自分もいる。変わらない関係などないのだ。
続けて、怜にメールしようかと思ったが、すんでのところで思いとどまった。メールすれば、鈴音のことに言及せざるを得ない。それは避けたかった。鈴音とは友人ということばをはるかに超えた関係だった。不登校である彼女の力になるのは環の役割であるとも考えられるが、近しいがゆえにできないこともある。手を差し出す行為は容易いが、それゆえにその行為は環にとって鈴音を侮辱する行為でもあった。環は、鈴音が再び自分で歩き出すことには関与できない。彼女にできることは待つことだけだった。
怜が鈴音の力になってくれたことは、予想外のできごとだった。いや、どこかで期待していた自分はいたが、それは淡い希望程度のもので、現実になるとは思いもしなかった。しかし、現実になった。ベッドに腰をおろした環の唇がほころんだ。本当に面白い男の子である。彼のことを考えると胸が鳴る。ついでその胸が軽く締め付けられた。メールをせず顔も合わせなくなって一週間となっていた。もうしばらくは会えない日が続くだろう。
「怜くん。お願いね、もう一人のわたしを」
座っていた体勢からごろんとベッドに横になった少女から虚空に向かって呟きが漏れる。
仕方なさそうな吐息とともに承諾してくれる無表情な男の子の顔が見えた気がした。