第158話:三人の少女の世界
「呆れた、よくそんなことできるね」
「そうかな。大したことじゃないと思うけど」
「大したことだよ。知りもしない男の子の家に行ってお茶を飲んで帰ってくることは」
「やってみれば意外と簡単だよ、アヤもやってみれば」
「しません。そんなバカみたいなこと」
「『大したこと』じゃなかったの?」
「友達を傷つけたくないからそう言っておいたのよ」
「それならもう少しその精神を発揮してくれればよかったのに。せっかく美味しいもの食べてるのにさ」
そう言って、平井七海は手にしていた黒文字を、柔らかい羊羹のような和菓子に突き刺した。
「食べる? ういろう」
問われた伊田綾は、首を横に振った。
そうして、隣にいる七海をうちやって、対面へとその目を向けた。
「タマキもそう思うでしょう?」
切れ長の目を向けられた環は微笑した。
夏休みの一日を使って、気の置けない友達同士でガールズトークとしゃれこんでいるところである。
「五郎庵」というこじんまりとした和菓子店の一角だった。店内には販売のスペースとは別に会食できるテーブルが用意されており、その一つを三人で占領している。自宅に招いたり招かれたりもいいけれど、家人の目が気にならない店内はなおよかった。
七海が、昨日、ほとんど見も知らぬ男子の家に行ってお茶を飲んできたということを、特別なことを言うようでもなく、語った。どうしてそんなことをしたのかは語らなかったし、隣にいる綾も、環も訊かなかった。必要があるからしたことなのだということは分かっていたからだ。七海は必要なことをためらわずに行うことができる子であり、その必要性というのはほとんどが自分のためではなく、他人のためだった。
「それはすごくナナちゃんだね」
環は、綾の問いに対する直接的な答えにはなっていない言葉を返した。
店内には、アントニオの歌、が流れている。
永遠に続きそうな午後だった。
「わたしらしい行動しちゃったか」
七海は、何か失敗したかのようにやれやれと首を横に振った。
何かをするのが他人のためだとしてもそれはその他人からしてみれば余計なおせっかいかもしれない。だとしても、この七海という少女は、そんなことを歯牙にもかけず行動できる子だった。基準は常に自分の中にあり、外には無い。
「いい言葉を教えてあげようか、ナナミ」
「はい、先生。お願いします」
「無知とは恥ではないが罪にはなりうる」
厳かな口調でそう言った綾は、眉と顎先のラインで綺麗に切り揃えた黒髪を持つ、麗しい少女である。
三人は、中学校で初めて知り合った。
三人が通う中学校は、三つの小学校の卒業生で構成されており、それぞれ小学校が違っていたということである。
「じゃあ、その罪を引き受けて生きていくよ」
七海が張りのある声を出した。
「ナナちゃんには、わたしのカレを試験してもらったこともあるよねえ」
環は意地悪い声を出した。
「そんなことあったかなあ」
七海が知らない風を装うと、
「人のカレシを吟味するより、自分のカレシを作ればいいんじゃない?」
隣から綾が言った。
「その言葉そっくりそのままチョコレートを添えて、贈り返すよ、アヤに」
「チョコは結構。ダイエット中だから」
そう言って、綾は、ぷるんとした水まんじゅうに黒文字を向けた。
別のテーブルでお茶していた女性二人が立ち上がって、会計を求めたようである。
「わたしの話はおしまい。二人はどう? 毎日を楽しんでる?」
七海の声が心地よく響く。
環は、綾と目を合わせた。
そうして、お先にどうぞ、という意を込めて、軽くうなずくようにした。
綾は、
「楽しいと言えば楽しいし、楽しくないと言えば楽しくないかな。毎日ってそういうものでしょ?」
感情の響きの無い声で答えた。
「全然そういうものじゃないよ。楽しくなくっちゃ意味が無いでしょ」
「そういう意味があるとか無いとかっていうことがどうでもいいのよ、わたしにとっては」
「アヤは何度目なの、この世界は?」
七海がいきなり言った。
それを聞いた綾は薄紅色の唇を笑みの形にした。
同性でも魅了されそうな美しい微笑である。
「こういうところがナナミの面白いところで、わたしが彼女と付き合っている理由なの、分かるでしょ?」
綾は、まるで隣に七海がいないかのような口調で、環に言った。
環は、うんとうなずいた。
「でも、ナナちゃんの言いたいことは分かるよ」
そう七海に言うと、
「タマキは何かあった? ただし、カレシくんとのラブラブ話なしでよ」
訊かれたので、よくよくと思い出そうとしてみたが、それ以外に何か重要なことなど無さそうだったので、首を振った。
「加藤くんとはいつまで付き合うつもり?」
「レイくんがわたしに飽きるまでだよ」
環は平然と答えた。そうして、いつかこういう答えをどこかでしたような気がした。
「タマキが飽きることはないの?」
「人は空に飽きることがあると思う?」
「加藤くんが、空?」
「うん。常に頭上にあって、仰ぎ見ることはできるのだけれど、その大きさも広さも分からない。そんな存在かな」
七海は、綾の方を見たようである。
「わたしは加藤くんのことはよく分からないから。ただ面白そうな人ではあるよね。前に会ったときに、わたしのためにハンカチを敷いてくれたし」
「それは聞き捨てにできないな」
すかさず環が言った。
「ごめんね、タマキ。どうやらわたしは男の子にハンカチを敷いてもらえるに足る女の子のようなの。憎むなら、わたしの母と祖母を憎んでね」
「おばあさま?」
「そう、体は母から、心は祖母から授かったから」
店員の女性がお茶のお代わりを淹れに来てくれた。
三人ともお代わりを頼んで満足すると、街に出ようということになった。
「せっかく三人で会えたんだからさ」
七海が言う。
「会おうと思えばいつでも会えるでしょ」と綾。
「会おうと思えばいつでも会えるけど、会おうと思うことができるかが問題でしょ」
五郎庵ののれんをくぐって、外に出ると、太陽が、やんちゃ盛りの子どものようにはしゃいでいる。
「日傘を持ってくるべきだったかな」と環。
「あるいは、日傘を持ってくれる人を連れてくるべきだったんじゃない?」
「美人の友達をあんまり見てほしくないの。カノジョのみすぼらしさが目立っちゃうでしょう」
「そんなに心配しなくても、タマキもそれなりだから大丈夫だよ」
「ありがとう。ちょっとホッとしたわ」
「じゃあ、今度連れてくる?」
「ううん」
近くにあるバス停からバスに乗ると、環はこの前のデートのことを思い出した。
楽しい時間だった。
もっとも彼と一緒にいる時はいつもそうなのだけれど。
「ところで、加藤くんは、今日何をしているの?」
「アヤちゃん、わたしはレイくんのマネージャーじゃないんだけど」
「でも知ってるんでしょ?」
「知ってます。今日は、妹と遊園地に行ってます」
「妹さんと三角関係になっているの?」
「自分の身にそういう色っぽいことが起こるとは思わなかったわ。その責任の一端は、瀬良くんにあるのよ」
そう言うと、一人で前に座っていた七海が後ろを振り返って、
「わたしの方を見ないでよね」
と一言断ってまた前を向いた。
怜の友人であり、クラスメートでもある瀬良太一は、七海にアプローチしている。
しかし、七海は気にもかけていないようだった。
それは太一をじらしているとか、そういう救いがある気にかけなさではない。人が路上の石に気をとめないのと同じような気のとめなさなのである。もちろん、人は石に気をとめるときもあるが、それは大抵の場合けっとばしたい時である。
「ナナミに相手をされないから、瀬良くんはとっかえひっかえしているんじゃないの?」
綾が情け容赦ないことを言った。
七海は無言で手を振った。
バスは心地よい速度で、走ったり止まったりを繰り返した。
やがて駅に着くと、初老のバスの運転士に礼を言って、ステップを降りる。
三人は、街中の服飾店やアクセサリー店をひやかして回った。
こうして、気の置けない友人といる時間は美しい。
環は、自分が確かにいつか見た美しさの中にいるのを感じた。
「ナナちゃんにとって、世界ってなに?」
店から出て通りを歩きながら、環は隣にいる少女に尋ねた。
環は、普段何かを問うような気分にはならない。
問いたいことがないからだ。
だから、これはやはり気分の問題である。
まるで「今日の晩ご飯はなに?」と訊いているのと同じような気安さで出された大仰な質問に、しかし、七海はひるむこともない。
「タマキには分かっていると思うけど」
「どうして?」
「ただそう思うだけよ、理由なんてないわ」
「うん、もしかしたら分かっているかもしれない。でも、確認したいときってあるでしょう?」
「分かっていることを確認する? それって退屈な作業じゃない?」
「そうとも限らないよ。下の妹なんてしょっちゅう彼女の崇拝者がちゃんと自分のことを好きかどうか確認しているもの」
「アサちゃんにもそういう相手がいるのか」
七海は面白そうな顔をしてから、
「わたしにとっての世界は、どこまでも続くまっすぐな『一』かな。その先を見極めてみたいと思わせるに足るもの、それがわたしの世界だよ」
言った。環は七海の言葉を何とも評さずに、今度は、綾に向かった。
「アヤちゃんにとっては?」
「そんな大げさなこと考えたこともないわ」
「でも、強いて言えば?」
「強いても言いません」
「それは多分アヤちゃんにとっては明らかすぎるほど明らかだからなのかな」
「ほら」
「そう思っただけ」
「タマキにとっての世界を当ててみましょうか」
「どうぞ」
「タマキにとっての世界は、暗い宇宙なんでしょう?」
綾が言うと、七海が、
「でも、その宇宙には星が瞬いている?」
続けた。
「どこにでも行けるんだけど、だからこそどこにも行く必要が無い」
さらに綾が続ける。
二人が言ったことに、環は答えなかった。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
世界がどうであるか二人に訊いてみたものの、実はそれほど世界の定義に興味があるわけではない。
この世界で自分は美しいものを見た。
美しさそのものよりも美しい人を。
それだけが大切なことである。