第157話:カフェテリアと通り雨がもたらした出会い
塩崎輝の信条は、「清潔に生きる」である。
清潔な思考、清潔な振る舞い。
つまり、それは妥協を許さないということでもある。
「しょうがない」「まあ、いいや」と思って、現実と妥協すれば、生きること自体に意味がなくなってしまう。生きるということは善く生きるということに他ならない。とはいえ、それは他人の不正を許さないということではない。他人のことはどうだって構わない。他人というものが、自分の世界の中にいて、にょろにょろとしている、そういうことは端的な事実であって、その他人が思い思いに何かやっていれば、それは正しくないことも起こるだろうし、その起こることが自分の身の回りに起こることもあるだろう。
しかし、そういうことは、彼の興味の外にあった。問題なのは自分である。自分がどう生きるか。みんなが酔っぱらっていてもひとりだけ醒めていることができるか、みんなが泥水に足をひたしてバチャバチャしていてもひとりだけ岸辺にいることができるか。
このような考えは、周囲との軋轢を生みやすかった。輝は何もかもを自分の思い通りにしようとしたことはない。前述の通り、他人の不正をいちいち矯正しようとしたことなどない。しかし、自分自身がすべきだと思ったことはためらわずしたし、ためらわず言った。それが周囲の気に障ったのである。しかし、輝は気にしない。こちらも彼らのことを気にしていないのだから、彼らもこちらのすることに目くじらを立てない義務があるのだと思っていた。
ところでこういう考えを、友人にはおろか親にも語ったことはない。思いというのは口にすれば安っぽくなる。自分だけの特別な考えが、言語というフィルターをかけると一般化されてしまう。そうして現れた言葉を、彼らは彼らの理解できるように理解するだろう。すべて世は事も無し。
そういうわけで輝は自分の理解者というものを求めたことはなかった。そもそもが、自分一個の考えを押しとおしていくのに、自分の理解者を求めるのは矛盾である。赤信号を渡るのとはわけが違う。
しかし、求めていなかったものは唐突に手に入り、それを人は奇跡と呼ぶのであれば、この出会いこそ自分にとっての奇跡だと思うのだ。出会ったのが女の子だとしたら、ラブストーリーが始まったかもしれないが、幸か不幸か相手は男の子だった。
「でも、ラブストーリーを始めても構わないよな? レイ」
輝は、隣にいる男の子に向かって言った。
夏休みの一日の午後のことである。
お互い塾の帰りにばったりと出会った彼と帰り道に涼んでいこうという話になって、コーヒーチェーン店に入って注文を済ませ、一階の窓際のカウンター席に、並んで陣取っているところだった。窓からは、薄暗い通りが見えた。周囲には中高生の姿が多いが、仕事の合間の休憩中なのだろう、ちらほらとビジネスパーソンの男女の姿もあった。
「ラブストーリー?」
「そう。オレがレイに対して」
「始めても構わないけど、オレにはもう相手がいる。そのラブストーリーは片思いに終わるぞ」
「片思いでどうして悪い?」
「片思いで終わるラブストーリーなんて見る意味が無いだろう?」
「これはオレの物語なんだ。だから、誰も見る人はいない。オレ以外は」
「なら好きにすればいいさ」
そう言うと、彼は、ホットティーのカップに唇をつけた。
どこといって人の目を引く容姿ではないが、きっちりと髪が切り揃えられており、服装にも乱れがなく、見やすい人だった。先ごろ、知り合った友人である。同じ部に所属していた。初めて出会ったときから面白い人だとは思っていたが、その後の交流を通して、その思いは確信へと変わった。
もちろん、彼にも自分の考えを語ったことなどない。しかし、彼が自分の考えをおそらくは正確に理解してくれているだろうことが、なぜだか輝には分かっていた。そのなぜかを追求しようとは思わない。奇跡はただ受け入れればいいだけであり、もしもそれが奇跡じゃないと分かる日が来たとしたら、それはそのときのことである。
輝も、ホイップクリームが乗ったエスプレッソを、おっかなびっくり飲んでみた。
「川名さんとはうまくやってる?」
「どうしてみんなその話題ばっかり振ってくるのか教えてくれたら、今飲んでるやつのお代わりをおごってもいい」
「興味があるのさ。どうやったら、あんな美人と付き合えるのかって」
「人生にはもっと重要なことがある」
「たとえば、どんな?」
彼は、また紅茶を一口含んで、
「美味しい紅茶の淹れ方とか」
言った。
「まあ、それも興味はあるな。あんまり紅茶飲まないけど。今度ティパーティに招待してくれない?」
「そんなパーティ開いたことないな」
「スコーンを焼いてもらいたい」
「招待するから、スコーンは持って来てくれないか」
「なるほど、それもいいね。母に言っておこうかな」
「自分でやってみたらどうだ?」
「お菓子は作ったことがないんだ」
「やってみれば案外いける」
「何か作れるの? レイ」
「クッキーを作れる」
「意外な一面だな」
「だから人生は面白い」
クラスメートなどと違って、彼には、なれなれしさが無い。かといって冷たいわけでもなかった。自分のことを対等の相手として、尊重してくれている。透明なのである。人の性質に、透明というのがあるのかどうか分からないが、どうしてもそういう言葉を使いたくなってしまう。
「ヒカルは誰かと付き合いはしないのか?」
「それ、本当に興味を持ってくれてるんだろうな」
「モチロン」
輝は軽く首を傾げてみせた。
後ろから、いらっしゃいませ、という店員の朗らかな声が聞こえている。
窓に雨滴がついた。どうやら降り出したらしい。
「付き合いたくても相手がいるだろう」
「引く手あまただろう」
「そんなことないけど、たとえ、そうだとしてもその手を吟味しなくちゃいけない」
「妥当だな。誰彼構わず握手をすれば手の皮は厚くなり、その手に繊細さがなくなる」
「いざこっちから手を差し出すときに誰にも取ってもらえなくなる?」
「You are right.」
「なんで英語?」
「今日習ってきた」
「塾は面白い?」
「面白くないという点を除けば、面白いよ」
「フクザツな言い方だな」
「人生が複雑なんだ。しょうがない」
「そうかなあ。オレはあんまり人生を複雑に考えたくないけどね」
「というと?」
「自分が生きたいように生きる、これに尽きるじゃないか」
「なるほど、単純だな。ただ、その考えはオレを絶望させる」
「どうして?」
「そう生きることができないから、塾に通って、たっぷりともらってきた宿題をどうしようか途方に暮れてるんだ」
彼はまるで平然とした調子で言った。
「レイが途方に暮れるところなんか想像できないな」
「ところが、ほとんど毎日そうなってる」
「彼女さんと付き合っているとき以外にも?」
「もちろん。大体にして、タマキには毎日会っているわけじゃない」
「名前で呼び合える仲っていいと思わないか?」
「オレたちも呼びあってる」
「だから、いいんだよ」
降り出した雨は、バケツを一杯にするほどの豪雨に変じた。
店内の客が悲嘆のため息を落とした。
「すぐやむだろう」
彼は落ち着いたものである。
「そういう予報なの?」
「いや、そうじゃないとオレが帰れなくなるからさ」
五分ほどもすると激しい雨は嘘のように止んで、まるでそのお詫びのように明るい日まで射してきた。
「レイに出会えたことを感謝しているって言ったら大げさだろうか?」
輝はふと言ってみた。
「だったらオレも大げさだってことになるな」
そう言うと、彼は席を立って、帰るよと言った。
輝も、飲みさしのエスプレッソを飲み干して、一緒に店を出ることにした。
「じゃあ、また部活で」
そう言って、別れると、非常に清々とした気分で、雲間から現れた美しい空の下、帰路を取った。
彼と話すといつも清々とした気分になれる。
もしも自分が女の子だったら、あるいは彼が女の子だったら、一も二もなくその手を差し出したことだろうが、そうでなかったことはある意味で良いことであるのかもしれない。差し出せないということは、差し出したその手を拒否される恐れが無いということでもあるのだから。
雨にしっとりと濡れた美しい街並みを楽しみながら家に帰ると、玄関に見慣れない小さめのスニーカーがあったので、来客だろうか、と首をひねっていると、母が現れて、
「お友達よ、女の子」
なにやら含みを持った目を向けてきた。
女の子の知り合いで家まで訪ねてくるということは、部の誰か、どんな用件かは分からないが、おそらくは部長だろうと思っていた輝は、リビングのソファに座っていた少女に見覚えがなかったのでびっくりした。
平井七海と彼女は名乗った。
ショートカットにしたボーイッシュなたたずまいだが、その身に光輝がある。
まるで雨上がりの青空から現れたような清々とした容姿に、輝は思わず見惚れてしまった。
「えっと……何の用なのかな、平井さん」
「友達のアンコがお世話になっているから、そのお礼を言いたくて」
平井さんは、明るい声を出した。
アンコというのは、輝が所属している文化研究部の部長の名前である。彼女にはこちらが世話をしてもらっているくらいなもので、特に何を世話しているわけでもない。そんな人のお礼を友達である彼女が代わってしにきたというのだから、律儀というよりは、大分奇妙な話だった。
この珍客にどう対応すればいいのか分からなかった輝だったが、とはいえ、知り合いの友人であるので、無下にするわけにもいかず、母にお茶を頼んで、彼女と当たり障りのない話を始めた。部長の話を皮切りにして、部活動の話に及ぶ。驚いたことに輝は、今日初めてまともに話した人と、自分が気持ちよく話ができていることに気がついた。
「お茶をもう一杯淹れますね」
気がつくと、小一時間経っていた。
母が我が息子に楽しげな笑みを向けてくる。どうやら何がしか誤解を与えたようだったが、それすらも気にならない。
「ありがとうございます、おばさま」
平井さんが声を上げると、空気が色づくようだった。
どうして今日、彼女が訪ねて来たのか、と不思議に思う気持ちもいつしか消えていた。
「そろそろ失礼します」
と彼女が立ち上がったとき、輝は名残惜しい気持ちになっていた。
こういうとき携帯電話の番号やSNSのアカウントを教えればいいのかもしれないが、なれなれしすぎる所作かもしれないと思えば、そんなこともできない。せめてクラスだけでも尋ねることにした。
「5組よ」
「今度訪ねても?」
「それはダメ」
「どうして?」
「だって、塩崎くんに興味が無いから」
輝は、自分が特別、他人の興味を引く人間だとは思ってないけれど、しかし、こう面と向かってはっきりと言われたことはない。ぶしつけな言い方なのだろうが、それでもどこか好感を持ってしまう。
輝は粘ってみた。
「もしかしたら、これから興味を持つかもしれない」
平井さんは難しい顔をした。
どうやら何か困らせてしまったようだ。
輝はすぐに、「分かった、行かないよ」と続けた。
「ありがとう」
会いに行かないことを感謝されるとは、苦笑しか浮かばない。
平井さんが帰ると、輝は、母に根掘り葉掘り訊かれたけれど、訊かれてもどうしようもない類である。
通り雨の妖精かなにかだったのだろう、と思うしかない。




