第156話:戯れの夏の日
姿見の中で、デニム地のワンピースを着た少女が微笑んでいる。
蒼は満足した。
適度のフェミニン、チャラ過ぎず、地味すぎもしない。
「デート? デートなのね、アオイちゃん」
後ろからかけられる声に、蒼は丁重に答えることにした。
無視したっていいのだろうけれど、声の主は、なんと言っても母ひとり子ひとりをやってくれている母なのだ。
「エーコと遊びに行くだけよ」
「なあんだ、ママ、がっかり」
そう言って、母は、鏡の中でいかにも残念そうな顔を作った。
「ママはわたしのことが心配じゃないの?」
「どういうこと?」
「変な男に引っかからないかとか」
「んー……でも、そういう経験があって、そのうちにいい人に巡り合えるわけだからさ」
随分と寛大なというか、もう少しはそのあたりの心配をした方がいいのではないだろうかと不安になるような態度である。そんな不安を持った蒼は、一体どんな立場だよと自分で自分に突っ込んでから、後ろを振り向いた。
「じゃ、行ってくるから」
「ママ、送っていきましょうか?」
「いいよ、歩いて行くから」
「この頃、アオイちゃん、ママに冷たくない?」
「そういう年頃なのよ」
「ママのこと、嫌いじゃないわよね? ママ、アオイちゃんのときくらいにママのママのこと、嫌ってなんていなかったわよ」
「嫌いじゃないよ、世界一ステキなママだと思ってるよ」
「アオイちゃん……」
年よりはかなり若く見える母である。
涙ぐみそうなベイビーフェイスを打ちやって、蒼はサンダルを履き、家を出た。
空は少し雲ゆきが怪しい、予報では降る確率は低いとのことだったが、さて。
待ち合わせ場所の公園まで足を運ぶと、二瓶瑛子がたたずんでいた。
Tシャツと、短めのスカートはボーダー。
自分の愛らしさを自負している蒼だったが、瑛子の綺麗さは認めざるをえない。
「待った?」と蒼。
「今来たとこ……こういうやりとりを男の子としたいって言ったら、どう思う?」
「誰か適当な男子を捕まえたらって言う」
「適当なこと言って」
「そういうところも含めて今日は相談に乗るよ」
「悩んでいることなんかないけど」
「だったら、何か作ってよ。友達のグダグダした悩みに付き合うのが、わたしのキャラなんだから」
「アオイのキャラなんだっけ?」
「クールキューティ」
「じゃあ、わたしは?」
「クラスのマドンナ」
「ま、マドンナ? もうちょっと、マシなのないの?」
「残念ながら」
瑛子とは小学生の頃からの付き合いである。
蒼は友人は慎重に選んでいる。
誰かれ構わず手を握るようなことはしない。
瑛子と友達になったのは、彼女がしっかりと自分というものを持っているからだった。自分を持っているということは、人に合わせないということである。つまり癖があるということであるが、そういう癖がない人間と付き合ってもつまらない。つまり、蒼も曲者ということだった。
「夏休み中もバイトするの?」
歩き出しながら蒼が言った。
どこに行こうとも決めていない。街の方に行って、ぶらぶらとするだけ、気に入ったところがあったら入ってみればいいくらいのまるで予定とはいえないような予定である。
「もちろん。アオイに謝っておきたいことがあるんだけど」
「なに?」
「わたしがバイトしてるの、クラスメートにバレちゃった」
「……それは、ご愁傷さま。でも、なんでその件でわたしに謝るの?」
「二人だけの秘密でしょ」
そう言って瑛子は笑った。朗らかな笑い方をしているけれど、そういうとき彼女が表面通りの心持ちじゃないことは、分かっていた。どうやら怒っているようであるが、その怒りに付き合ってやる必要はない。
「偶然?」
「いや、偶然じゃないみたい。誰かにわたしのこと聞いたのね」
「わたしは話してないよ」
「アオイがそんなことするなんて思ってないよ」
それはどうだか怪しいと蒼は思ったが、額面通りを受け取っておいた。
雲が出ているおかげで、歩くにはちょうどよい日和である。
「部活はどう?」
蒼は適当な問いを出した。
「どうって、毎日体操着に着替えて、ネット越しに大きなボールをあっちにやったりこっちにやったりしてるよ。たまに手首を痛めたりして」
「楽しそう」
「やってるときはね。そっちは?」
「うちはそういうスポ根みたいなのはやらないな」
「そもそもスポーツ部じゃないじゃない」
蒼が入っているのは、文化研究部という、いったい何のために存在しているのか、さっぱり分からない部である。
「この頃人が入ったから、部長が張り切ってて大変」
「部長さん、おだんご頭の、事務員みたいな人でしょ?」
「エーコ、部長の悪口言っていいのはわたしだけだから」
「愛を感じるね」
「独占欲かな」
それきり瑛子は黙ってしまった。何かを考えている風である。ときたまこの子はこうして自分だけの世界に引きこもってしまう。そんなとき蒼はそれを邪魔しないようにしていた。とはいえ、バス停を過ぎようとしたときには止めざるを得ない。
「ああ、ゴメン、ゴメン」
瑛子は謝った。
「それ、仕事中にやってないでしょうね」
「大丈夫。アオイといるときだけよ」
「じゃあ、よかった」
二人でバスに乗った。バスは空調が効きすぎていて寒いくらいであり、もうちょっと暖かくしてもらおうかと本気で考えたけれど、そんなに便利な使い方はできるはずもない。幸い、道のりは長くはない。
駅前に着くと、着いても当てがないわけで、二人は雲の行方に身を委ねて、歩行者天国になっている街路を歩いた。夏休みである。二人のように暇を持て余した友達同士や、カップルで賑わっていた。
「倉木くんとはその後どうなの?」
小物のお店でアクセサリーを物色しながら、また蒼は適当をやった。
振ってはみたものの、友人の恋愛事情など全く興味がない。
「どうって、どうもなってないよ。そもそも、わたし倉木くんとどうにかなりたいって言ったっけ?」
その声にとげがある。
「いい人そうだよね、倉木くん」
「いい人ってどういうの? 何か買ってくれる人?」
「お金があることと、お金を出すことは全然別のことだからね。これ世界一ステキなママの教え」
「アオイのお母さん、ホント若いよね」
「それ、わたしたちに言われても嬉しくないと思うけどね」
瑛子は、一組のイヤリングに目を留めたようである。
「倉木くんのどこがいいのか、いまいち分からないけど」と蒼。
「分からなくていいよ」
「わたしと取り合わなくて済むから?」
「友人同士で同じ人を好きになるなんて、考えただけでもゾッとするね。アオイはそういうのないの?」
「うーん……」
蒼はよくよくと考えてみた。件の部活の先輩たちは中々面白い。イケメン、面白担当、不思議な人と、誰と付き合っても楽しそうである。しかし、一人はカノジョ持ちであり、もう一人は別の女子に言い寄られており、とすると、もう一人になってしまうが、
「岡本先輩かあ……」
よくよくよーく考えてみてから、首を横に振った。
「まあ、でも、どうしても付き合って欲しい、キミはボクの太陽だとか何とか言って、お年玉をはたいて何かプレゼントしてくれるなら、付き合ってあげてもいいよ」
「すごい上から目線」
瑛子は笑った。
蒼は姿身に映った自分を見て、
「ま、それなりの自信はあるからね」
言い切った。
「容姿は自分のおかげじゃないでしょ」
「容姿を認めるのは自分の力でしょ……て言っても、三年生には及ばないけど」
「部長さんのこと?」
「部長は眼鏡を外さないとね」
「眼鏡を外すと美人になるなんてありえない」
そう言ってから、瑛子は少し考えたようである。
「そうとも言い切れないかな」
実例を知っているのか、蒼が訊くと、瑛子は首を振って答えなかった。代わりに、
「お腹空いたから、何か食べようか」
言ったので、近くのパスタ屋さんに行くことにした。
ちょうどランチタイムなので、混み始めてきたところだったが、問題なく席が取れた。
蒼は、よくよく瑛子と出かけるということの意味を考えてみた。
瑛子と出かけてもさして楽しいというわけではない。
それなのにどうして出かけているのか。
楽しくはないが、興味深いからだろう。
この答えは蒼を満足させた。
そもそもが友達と一緒になってはしゃいでいる図など自分には想像できなかった。
「なによ、人の顔をじろじろ見て」
「可愛いなあと思って」
「ありがとう、アオイもいい線いってるよ」
二人でパスタをぱくついていると、「よお」という声が聞こえて、瑛子のすぐそばにひとりの少年の姿が現れた。瑛子は、営業員もかくやと思われるほどのスマイルで、「富永くん」と応えた。どうやらクラスメートらしい。
「どうしたの?」
「別にどうもしてねーよ、妹のお守」
隣にいた小さな女の子がぺこりと頭を下げて、
「いつもあにがおせわになっています」
こまっしゃくれた風である。
少し離れた席に座った彼の方を見ながら、蒼は、
「かっこいいじゃん、それに、ちっちゃい子の世話してる男子ってセクシーだよね」
言った。
「せ、せくしー?」
「ママの真似」
「倉木くんの友達だよ」
「じゃあ、わたしは友達の方がいいなあ」
「紹介しようか?」
「いい、優位に立てそうにないから」
食べ終わって、会計を済ませようとしたときに、蒼は、離れたテーブルに見知った顔を見た。
文化研究部の先輩……といっても、蒼の方が入部は早いので、その意味では後輩なのだが、ともかくも部の三年生女子だった。その彼女と相対する位置にいるのが、平井七海。こちらは校内では有名人である。彼女のことが、ちょっと蒼は苦手だった。何をされたわけでもないのだが、そのエネルギッシュで光り輝くような所作が心に障るのである。
「わたし、エーコみたいな暗い子が好きなのかも」
「アオイと友達やめようかな」
「だって、本当のことでしょう?」
「本当のことだからよ」
外に出ると、今にも降り出しそうな雨模様である。
「映画でも見る?」
蒼が誘うと、
「ラブストーリー以外のやつね」
と瑛子が応えたので、蒼は映画館についたあと、ラブな映画がやっていないかどうか念入りにチェックした。
「わたしは、アオイみたいに性格が悪い子が好きなのかも」
「変わった趣味してるね。ちなみに、わたしは性格悪くないけど」
そう言った蒼は、二人でSF映画を見ることにした。